「かもとりごんべえ」(日本昔ばなし)を深層意味論で読む
下の子が通う保育園のイベントで、子どもたちが「かもとりごんべえ」という昔話を題材とする劇を演じていた。
「かもとりごんべえ」。
いったいどういうお話だったかな?
と、便利なインターネットを調べてみるといくつか動画を発見した。
ところが、動画を視聴してみると、園の子どもたちが演じていたバージョンはこの日本昔ばなしバージョンとはかなり筋書きが異なる。
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これはいったい、どういうことだろうか。
異文・口伝が複数ある。
異文がいろいろあるお話は、人類史的に極めて古い神話の論理を残していることが多い。
これはもしや?!ということで、早速分析してみよう。
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関係が項に先行する
なぜ”異文が多いと神話論理が動いている”と言えるのか?
その理由は、高い振動状態を保ったままの言葉で語られる神話では、項よりも対立関係の方が重要になるからである。
振動状態を保った言葉とは、どういうことか?
下記の図を念頭に考えてみよう。
神話には、例えばかもとりごんべえで言えば「猟師」とか「カモ」とか「縄」とか「傘」とか「粟」など、それぞれ固有の名をもった事物が登場する。
通常の日常の言語的思考であれば、猟師といえば猟師、カモといえばカモ、それぞれがそれ自体の本質(自性)に基づいて、他とは無関係に端的にあらかじめ存在する、という感じがする。
もともと猟師がいて、もともとカモがいて、両者がたまたま出会う、という感じである。”あらかじめそれ自体として存在する実体としての項が集まって、第二次的に関係を結ぶ”というイメージである。
ここでは項が先で、関係が後、である。
ある項は、他の項とは無関係に、端的にそれ自体としてあらかじめあるような感じになる。
ここで物語の主人公が”横着者の猟師のおじさん”から、”結婚を拒む美しい娘”に書き換えられてしまったりすると、なんだかまったく別の話になったような感じになる。
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それに対して野生の思考の神話論理は、”項から”ではなく、項の手前で”項と項の対立関係の対立関係の対立関係を切り結ぶ動き”から、考え始める。
あらゆる項Xは、それ単独でそれ自体として端的に存在するわけではなく、非-Xと区別される限りで、非-非-Xとして区切り出される事柄である。つまりこの”区切り分けつつある=分離しつつ結合したままにする=結合したまま分離する”という動きのようなことがまずあり、その動きの効果というか、影のようなこととして、個別の項の輪郭が朧げに浮かび上がる。
この分けつつつなぐ動きを組み合わせることで、安定した二項対立関係の分節システムが出来上がる。
即ち、神話的思考(野生の思考)は、図1に示すΔ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立とを”異なるが同じ”ものとして結合する、と言うために、β1からβ4までの四つのβ項をいずれかの二つのΔの間にその二Δの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出し、そしてこの四つのβと四つのΔを図1に描いた八葉の形を描くようにシンタグマ軸上に繋いでいく=言い換えていく。
このΔ1〜Δ4、β1〜β4は、図0の「振動」で言えば、複数の振動の干渉が描き出す反復的なパターンということになろう。
「振動」を通じた項の「析出」、と仮に呼んでいること。
これについて は下記の記事などに詳しく書いているので、よろしければご参考にどうぞ。
さて「かもとりごんべえ」である。
獲物に恵まれない狩猟者
手始めに「かもとり権兵衛」をイメージした画像をAI生成してみよう。
お好きなビジュアルで、イメージしていただければよい。
まず主人公のごんべえさんは、狩猟が下手な猟師である。ここに
狩猟者 / 獲物
という対立関係がある。
両義的媒介的β権兵衛
ただしこの関係、ごんべえは猟師なのに獲物に恵まれない。獲物を獲れない。狩猟者なのに、狩猟できていないのである。
カモを獲ったことのないカモとりは、カモとりと呼べるだろうか?
この”かもとりであるともないともいえない”、あるともないともどちらともいえない、経験的にははっきりどちらかに振り分けられるはずの二極のどちらでもない中間的で曖昧なごんべえのあり方は、まさしく野生の思考の神話論理の始まり、つまり「未分〜未分節」そのものである。
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そしてこの未分節の時点では、狩猟者と獲物、人間とその食べ物との”分離しつつ結合しているべき関係”がはっきりと定まっていない。この時点では、話はまだ人間の食べるものがあるようなないようなという「ある」と「ない」の両極の間を高速で行ったり来たりしている振動状態にある。
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β鴨
この経験的な二項対立のどちらでもない状態に振動しているβ権兵衛であるが、β項もまた、前述の通り、それ自体として単独で存在することはできない。β権兵衛とは、非-非-β権兵衛でしかない。
この物語の冒頭で、非-β権兵衛、つまりごんべえさんと対立関係にあるのは「カモ」である。βごんべえさんは、カモとの対立関係において、カモではないもの=カモに対立するもの、である限りでβ権兵衛である。
ところで、カモはどうしてβ項なのだろうか。
カモがβ項であるということは、つまりカモがある経験的で感覚的なΔ二項対立の中間に、宙ぶらりんになっているから、ということである。
かもが収まっているΔ二項の対立関係とは、Δ天空/Δ水中 の対立である。
かもは水中に潜るが、しかし、魚のようにずっと水中にいるわけではない。
またかもは水面から飛び立ち、空へと高く舞い上がることができる。
かもはいわば、天空と水中を両極として、その間であちらからこちらへ、こちらからあちらへ、振動し続けているのであり、それゆえにβ項の位置を取ることができる。
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このβかもとβ狩猟者ごんべえが、一方では獲ろうとしてもまったく獲れないという形で過度に分離され、他方で、一度にまとめて百羽獲ろうとするという形で過度に結合しようとする。全く獲れないか、一度に大量に獲れるか、両極端のあいだを一挙に振り切ろうとする。
ここに
過度な分離 / 過度な結合
という対立関係が短絡されようとしている。
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狩猟者と獲物の関係、狩る者と狩られるものとの関係が成立していないという状況は、レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析する神話にもしばしば登場する。
例えば下記の記事で取り上げた神話では、冒頭、サル狩に出かけた人間の方が、逆にサルに狩られて喰われてしまう。狩猟者が獲物になり、獲物が狩猟者になる、という逆転が見られる。
ちなみにこの時点で、もう、この物語の「結論」が見えてくる。
なんらかの人間の食べ物が得られました(人間は人間が食べるべきものと適切に結合できました)というところでこの神話は終わりそうである。
実際、ごんべえは最終的に「ドジョウ」をたくさん得る。
そうであるからしてこれは人間の食べ物としての「魚の起源」の神話であるともいえよう。
横着なごんべえ
さて、このごんべえ、「一度に百羽のカモを獲りたい」という横着なことを考えたのである。一羽も獲れないという、獲物から過度に分離された状態から、一度にまとめて百羽も取れるという、獲物と過度に結合された状態へ、一方の極端から他方の極端へと一挙に短絡=横着してしまおうというのが、二項対立関係を振幅の両極に区切り出そうとする神話の思考の典型である。
この狩猟者と獲物の過度な結合を象徴するのが、「一度にたくさんの弾を発射できる」ごんべえ自作のガトリング砲のようなものである。
これはレヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析する神話にもよく登場する、放てば勝手に飛んでいき、獲物を取り放題になる神話的な矢とそっくりである。
もっとも、ごんべえさんの場合、ガトリング砲による狩猟も失敗する。そしてそもそも季節が交代し、カモはほとんどいなくなってしまうのである。
ごんべえさんは「100羽」のカモを獲りたいのである。数羽のカモを捕まえても仕方がない。
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そして季節が冬になる。ここに
夏 / 冬
夏から冬へ、対立する両極の間での転換がある。
水の上を歩く
そして冬の季節の結氷を利用して、ごんべいさんは池の水の上(氷の上)を歩いて、鴨を手づかみにする。ここに
地上界 / 水界
という対立が、過度に結合した姿がある。
通常水界は、水中で人間が呼吸することができないという点で、人間にとっては生に対する死の世界である。
この地上界/水界、生の世界/死の世界の両極が短絡されている状態が冬の結氷状態である。そこでは通常、”人間が近づけば逃げるもの”であるカモもまた、真逆に”人間が近づいても逃げないもの”に変身している。
あるいはここに
静 / 動
という対立も短絡しているといってもいい。
こうしてごんべえさんとカモは、「縄」を媒介項として用いることで分離され、対立しながらも、ひとつに結ばれた状態に入る。
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天空を飛翔するカモへの変身
ついにβごんべえは、βかもと、過度に分離された状態を脱し、過度に結合された状態へと転換できたのである。ただしこの過度な結合は、ごんべえが思い描いていたのとはあべこべになっている。
日が昇り、氷結が解かれた時、カモたちは動き出し、飛び上がり、ごんべえをぶら下げたまま空高く上がって行った。
人間が空を飛ぶ。
人間が、カモと一緒になって、空を飛ぶ。
βかもとβごんべえは過度に結合しているが、それは「百羽のカモを食べ放題」という人間側、ごんべえ側での過度な結合ではなく、「カモと一緒になって空を飛ぶ」というになっている。
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ごんべえはやがて疲れて縄から手を離してしまい、粟の畑に墜落するのであるが、落下して気を失ったごんべえは、自分がカモに変身している夢をみる。上記の動画にも、カモに変身したごんべえさんのコミカルな姿が描かれている。
こちらで分離し、あちらで結合し
当初よりごんべえは、カモを狩ること=カモを人間の獲物にすること=カモを人間の世界に持ち帰る形で、カモと結合しようとしていた。
しかし、いまごんべえは空というカモたちの世界に連れて行かれたのである。つまり、ごんべえとカモとの結合は実現しているが、それがこちら側(人間界側)ではなく、あちら側(カモ側)で起こったのである。
つまり、ごんべえは、人間が通常結合している人間の世界から分離され、人間が通常分離されている天空の世界と結合される。
通常結合しているところが分離し、通常分離しているところが結合する。
これはレヴィ=ストロース氏が『神話論理3 食卓作法の起源』で分析している”つきまとう半身”や”転がる頭”の神話とそっくりである。
さて、ごんべえさんは、粟という原初的な栽培作物と出会う。
カモを獲って食えないなら、粟をたべればいいじゃない。と、いいたくなるところであるが、ここでもごんべえは横着をしようとする。一度に大量の粟穂を得る方法はないか、と。この場合のも横着は、過度な分離から過度な結合へと、反転しようとすることでもある。手間のかかる粟穂の収穫は、いわば食べ物から分離された状態である。これを一挙にごっそり手に入れようというのである。
そして巨大な粟を見つけて引っ張るわけであるが、逆に板バネのように振動する粟によって、ごんべえはまた空へと放り投げられる。
過度に結合しようとしたところから、また過度に分離される。カモをガトリング砲で撃とうとした時と同じことが繰り返される。
ごんべえさんは、粟を得られずに、また飛ばされる。
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カモ対ごんべえの間で起きたことが、粟対ごんべえの間でも繰り返されていることに注目しよう。神話は、図1に示したような最小構成で八項からなる関係(対立関係の対立関係の対立関係)を組み、八つの項たちがぐるりと円環を描いてぐるぐると外周を巡ることができるようにしたいのである。
この関係は、もともと別々にそれ自体として自性において存在する項たちが詰まって結成されたものではない。
複数の振動が描く安定的な振幅が組み合わさり、いわばその干渉波のパターンようなものとして、曼荼羅状に八つの極が区切り出される。
あちらで分離しこちらで結合する、こちらで分離しあちらで結合する。
同じことを相を変えて2回繰り返すというのも図1の八項関係における四つのβ項の分離と結合の動きを作り出す典型的な手法である。
地上界=人間界を経由しない、天空から水中へのダイブ
こうしてまた空を飛ぶことになったごんべえは、今度は人間の町に落ちる。町の水桶の中におちる。ここで空から水の中へ、直接落ちているところがおもしろい。つまり
空(天界) / 水界
この対立の両極を短絡しているの。
天界と水界とを両極とする振幅が描かれることで、その振幅の最大値と最小値のちょうど中間に人間が生活できる地上世界が分節される。すなわち
β天空 / Δ地上世界=人間が暮らす世界 / β水界
という三項関係が出来上がる。
ここで人間が暮らす世界の典型、「町」が登場する。
この町で、ごんべえは傘づくりの仕事をする。
そしてこの傘につかまって空を飛ぶ。
三つの飛翔
ここで空を飛ぶ方法が三つ登場したことになる。
1)カモに縄でぶら下がって空を飛ぶ
2)単身で空を飛ぶ(しなる粟に放り投げられる)
3)傘で空を飛ぶ
ここで1)カモは、人工物に対する自然物である。
一方3)傘は、自然物に対する人工物である。
つまりここでカモと傘のβ二項が、自然 / 人工(文化) の対立関係に重ね合わされて対立させられていることがわかる。そしてこの両極の間を、一方から他方へと動き回っているのが、ほかでもないごんべえさんの身体なのである。
Δ自然 / βごんべえ / Δ人工=人間が暮らす地上世界
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こうして、自然物カモに対する人工物傘によって空を飛んだごんべえは、ぐるりと一周回って、もとの池に帰ってくる。ごんべえさんの旅が、もといた出発地点に帰っていることに注目しよう。ぐるりと円環を描いてもとの場所に戻っている。スタート地点がゴールなのである。
とはいえ全く同じ状況に帰還したわけではない。
もともとは、カモを獲ろうとにも獲ることができなかったごんべい氏が、いまやドジョウという獲物=食べ物を獲得したのである。
そうしてごんべえはカモにからかわれつつ池から上がる=水界から地上界へと這い上がる。ごんべえはここに至って、βかもに接近したり分離したりする振動状態から脱する。
ところが、ごんべえが地上に上がってみると、なんとももひきのなかに100匹のドジョウが入っている。ごんべえさんはたくさんの獲物を得られたと、おおよろこびで家に帰っていく。
ついにごんべえさんは狩猟に成功したのである!
当初目論んでいたカモとはちがうが、ドジョウという水中の獲物を獲ることができた。
◇
ここで重要なことは、ドジョウはβ項(経験的感覚的区別の二極に対してそのどちらでもない曖昧で中間的な位置におさまる)ではなく、Δ項(経験的感覚的区別の一方の極)である。そして池の水=水中から上がって、地上界へと至ったごんべえもまた、βごんべえからΔごんべえへと変身しているのである。ごんべえは、β項の位置からΔ項の位置に移動することで、獲物と安定的に統合された日常的世界のごく普通の狩猟者に「なる」ことができる。
水中から地上界へと移行する食べ物
もともとごんべえさんとカモとが過度に分離されたところから始まって、最終的にドジョウに至る、二項対立関係を分節して重ねていくプロセスをおさらいしてみよう。
まずドジョウはカモとペアである。
カモが「獲ろうとしても獲れないもの」であるのに対し、ドジョウは「獲ろうとしていないのに獲れたもの」である。ドジョウとカモはどちらも水界に属し、人間の食べ物になりうるという点でよく似ているが、この神話では、獲れる/獲れないという対立に関して真逆に異なっている。このカモとドジョウを図1のβ1、β4の位置に析出されるものとみてみよう。
こうなると、ドジョウとカモを繋ぐもの、ドジョウと結合し、カモとも結合するもの、つまりβ1とβ4の中間Δ1に析出されるのは「水界」である。
ところでカモは空中にも属する。天空と水界は経験的にも対立する。
というわけで、Δ3の位置に項「天空」が分極されると置いてみよう。
こうすることでΔ1水界とΔ3天空との対立も区切ることができる。
ここで、カモの対極β3に配置できそうなものは「傘」である。
傘は「天空」からの「水」を遮り、人間が収まることのできる空間=人間界を、人間界ではない世界から区切り出す。そこで傘β3の両側に、Δ4人間の世界、Δ2人間のp世界ではない世界が析出されると置いてみよう。
そうすると、うまい具合に、β4ドジョウが、Δ1水界のものでもありながら、Δ4文化=人間界のもの=人間の食べ物であると言えるようになる。
最後にβ2が残っている。
β2には、β3「傘」と同じようなものであり、β1「カモ」ともの同じようなものであり、β4ドジョウと対立するものが収まる。それはこの神話では「粟」である。
この神話では、粟は、かもや傘と同じようにごんべえを空中へと飛ばすことに関与した。また粟は、ごんべえさんが獲得しようにも獲得し得なかったもの=得られなかった食物であり、この点でカモと同じで、ドジョウと異なっている。
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β1カモといえば、水界とΔ3天空をつなぐもの。水界とΔ3天空を繋ぐものといえば、巨大な粟β2もまた同じである。巨大な粟β2は経験的な人間界にはあり得ないもの、非-人間界Δ2のものである。非-人間界Δ2と人間界Δ4の結合を分離するもののひとつが傘β3である。そしてドジョウは水界のものでありながら人間界の食べ物になるものである。
こうしてぐるりと円環を描くように、二項対立関係の対立関係の対立関係が浮かび上がる。この関係の中で、ひとつひとつの項が、”他ではないそれ”として実体的同一性を反復的に再生産されることになるわけである。
以上、「かもとりごんべえ」が、見事に対立関係の対立関係の対立関係を分節しようとする、意味の深層における分節プロセスを言語でもってシミュレートしたものであることがわかる。
異文は項は異なるが、対立関係は似ている
ちなみに、子どもたちが演じた異文は、「まんが日本昔ばなし」版とはかなり異なっている。カモが動かなくなる理由が、結氷から、ごんべえに酒を飲まされたことに変わる。また、ごんべえは飛ばされた先でお寺の五重塔の相輪に引っかかる。さらにごんべえは五重塔から地上に広げられた布団めがけて飛び降りるが、落下の衝撃で歯がたくさん抜けて酷い目に遭ったところでおしまい、となる。
他にも、飛ばされて落ちる先がたくさん並べられた「傘」の上だという異文もあれば、五重塔が燃えてしまうといった異文もある。
どのようパターンの異文であれ、経験的で感覚的な二項対立関係を組み合わせて八項関係が付かず離れずに分節することができれば、神話の論理としては成功である。
対立関係が際立てば、項はなにを用いても良い。
異文AとBとではドジョウが出てこない点が大きく異なる。
しかし、よく考えると、ドジョウと酒は真逆に対立するものである。
すなわち、
ドジョウは自然の水界から取り出されて人間の文化的食材となる。
酒は、人間の文化的生産物でありながら、自然の水界に注がれる。
この酒と異文Bのシステムの中で対立するのは、五重の塔の相輪であろう。
酒は池に注がれると、池の水に溶けてしまって分離できなくなる。人間のものと自然のもの、自然と人工、対立する二極の間を短絡しつつ酒だけではこれを再び分離することはできないようになる。
相輪は天地の分離を結合する接点である。この経験的対立の二極を結合するという性格に関しては酒とよく似ている。しかし、相輪は取り除こうと思えば取り除くことができる。池の水に溶けた酒を酒だけ分離できないのとは真逆である。
五重塔ごと焼け落ちるという異文は、まさにこの天地を結合する塔的な媒介物は除却することもできる、ということを示している。媒介物を取り除き、天地の分離を、人間の世界とそうでない領域との分離を、再び確定するのである。
また、ごんべえの歯が抜けるという異文も、両義的媒介項として飛び回っていたごんべいが、最終的に”二つに分かれ”、対立する両極の間での振動状態=両極の短絡=未分離状態を脱し、はっきりと分離された状態に転換することを示している。
以上、「まんが日本昔ばなし」でコミカルに描かれた日本の民話を、レヴィ=ストロース氏が南米、北米を中心とする神話の分析を通じて明らかにした「神話論理」で読み解けることを示した。
おしまい