法界と共鳴しつつ生きていることを知る -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(9)
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私たちの「心」は、普段、あれこれの物事を、
好き/嫌い
損/得
うまい/まずい
良い/悪い
ある/ない
うち/そと
容器/中身
などと分けては、
「あちらではなく、こちらを、絶対に選ばなければならない」
という具合に働いている。
「好きなものだけを選びたい、嫌いなものは選びたくない」、「安くてもまずいものは食べたくないが、高くて美味いものも食べられない。どこかに安くて美味いものはないかなぁ」と、これらは一見するととても「良いこと」というか、至極真っ当なことに思える。いうまでもなくこれを書いている私でも、例えばふらりと入った食堂で「焦げたエッグとカットされたはずなのに連なったままのハムを放り込んだ冷や飯の塊の油漬け」みたいな自称チャーハンに「5000円支払え」と恐喝されたならば、「嫌だ、食べたくない、キライ」と思う。
もちろん、この謎の油漬けも法界縁起の所産であることに変わりはなく、大宇宙の霊妙な脈動が減速されてもつれたものの一つの形であることに変わりはないのだ、と、よく知っているが、それでもやはり、食べたくない。
分けて、二つにして、どちらかを選ぶ。
このこと自体には何も悪いことはない。
二辺を離れるが、分ければいいし、選んでいい
分ければいいし、選べばいい、のである。
困ったことになりやすいのは、この「分ければいい(分けてもいいし、分けなくてもいい)」が、「云々のやり方で分けなければならない」という具合に固まってしまったり、「Aと非Aを分けたとして、Aを選んでもいいし選ばなくてもいいし、非Aを選んでもいいし選ばなくてもいい」が、「Aと非Aを分けたなら、必ず、Aを選ばなければならない」など、これまた固まってしまった場合である。
分けるが分けられたものに固まらず、離れる
「固まってしまった」というか、「固めてしまった」、と言った方が適当かもしれない。固まったところをほぐすために、名詞から浮かび上がって、述語で、動詞で、考えてみると良い場合がある。そして動詞を、「自動詞」と「他動詞」の間で”はたく”ように軽めの振幅を描く。そうするとそこにあれこれの”主語のようなもの”たちが、ふわふわと漂い出てくる。
分けて固まり、選んで固まる。
仏教では、この”二つに分けて片方だけを選ぼうとこだわる=執着すること(妄想分別)”こそが人の迷いと「苦しみ」を生んでいる、と考える。
二辺を離れる
自/他、生/死、清/濁、光/闇、そしてある/ない、などを二つに分けて、そのどちらか一方だけを自分に結びつけて、他方を遠方に分離しようと「計らう」。しかしこの計らい、計略が、いつもうまくいくとは限らない。
特に「生/死」など、どれほど頑張って前者(生)だけを選ぼうと望んでも、その望みは決して成就しない。そうして、他ではなく「それ」だけを欲して求めて望んで渇望して欲望しているのに、決して手に入ることがない…と知って、暗い気持ちになる・・。
*
ここで仏教は、「二つに分けたものの、片方だけを選び続けようとすること」を”やめよう”とか、”分けるような分けないような、選ぶような選ばないような”とか、”自在に分けて直して、自在に選ぼう”と、考える。
「生/死」でも「A /非-A」でも、分けても分けなくてもどちらでも構わないと観じて、とりあえず分けたような感じにしたとして、その二極のどちらにも拘らなければ、失うことを恐れたり、得られないことに不満を覚えたりする必要がなくなる。
これを「二辺を離れる」という。
離れる/離れないの二辺も”離れる”
「離れる」という言葉に注意しよう。
「離れる」も、「離れる」と言った時点で
離れる / 離れない
という二項対立関係を分別してしまう。
ここで「離れる」のが良くて、「離れない」のが悪い、とやってしまうと、これはこれでまた固着した妄想分別による執着となり、「離れたいのに離れられない、苦しい」となる。
離れる / 離れない
|| ||
良い / 悪い
そうであるからして、「二辺を離れる」は「離れると離れないの二辺も離れる」と読みたいところである。
離れないと離れるの二辺のどちらにも執着しないというのは、つまり離れるような離れないような、離れるでもなく離れないでもない、と言った感じの、どちらか不可得な曖昧なことになる。
*
では、一体どうすれば、二つに分けたものの一方にこだわる気持ち(執着心)をほぐして、二辺のどちらか不可得な曖昧な状態に”根をおろす”・・・というか、そんなガッチリしたことではくて、不可得で曖昧な状況と緩やかに共鳴するようなことができるのか。
仏教では、「A /非-A」を分けること、二極を分離する「/」で記されたような動きに注目する。この動きを、区別とか、分節とか、区切り出し、差異化、異質発生、などと呼ぶことができるが、仏教では特に「分別(ふんべつ)」という。そしてこの分別が生じたり滅したりしていることを「心(しん)」と呼ぶ。
二つに分けたものの一方にこだわる気持ち(執着心)をほぐすためには、「心(しん)」が分別をしていないところから分別をするようになる相の転換(変換)と、逆に分別をするようになっているところから分別をしないようになる相の転換を、まじまじと観察できるようになれば良い。
そうして分別するから、分別”された”二辺それぞれが何らかの固まった実体として定まっているように感じられるようになっているのであり、分別をするでもなくしないでもない、という境地から見れば、分別”された”二辺それぞれがは固まって定まっているというよりも、光源次第で伸びたり縮んだりする影のようなことであると明らかになり、こだわりようもないし、こだわる必要もないことだ、と気づく。
むしろフォーカスすべきは、分別したり分別しなかったり、分別するでもなく分別しないでもない、「心」と仮に呼ばれる動きというか振動のようなことの方である。そして私たちは「心」の動き方を組み替えることができる。
* *
「心はどんな世界よりも大きい」
この「心」について、中沢氏は『精神の考古学』の345ページで、師匠から授けられた「心はどんな世界よりも広い」という言葉を紹介している。
この世界とあの世界、この世界のなかのあれとこれ
この世界 <</>> この世界ではない世界
この世界の中のあれ <</>> この世界の中のこれ
世界も、世界のあれこれも、分別”された”ことで区切り出された二極のどちらかであるとすれば、このような区切り出しの二次的効果のような「世界」よりも、この区切りだしをしたりしなかったりする”<</>>”たちの共鳴、すなわち「心」の方が、はるかに「広い」にちがいない。
この「広い」心の広がりを、日常の分別心と区別して「セムニー」と呼ぶ。
*
日常の分別心(メロンは好きだがきゅうりはキライだなどという)を「セム」と言い、この分別を可能にする・分別を分別している=発生している分別の手前が「セムニー」である。
「セム」を切り分け済みの名詞を並べた世界として、「セムニー」を述語、である/でない、を繰り返しつつ差異性と同一性の境界を際立たせていく述語のダイナミックな論理と見ても良いかもしれない。もちろん名詞的なことと述語的なことの対立関係も、他の対立関係と同様に仮のことであり、こだわるものではない。
自分自身の存在が
前宇宙的な「広大な心」と異ならないことを知る
前回の記事で取り上げた「暗黒瞑想」は、まさにこの広大な心(セムニー)が脈動し、波打ち、そしてその波紋のようなものとしての分別心(セム)が明滅するように発生したりほどけたりする様を、「光」の振動パターンの変容として「みる」修行であった。
「みる」ということじたい、所与の個物としての眼球と、所与の個物としての光を反射させている物体との関係というよりも、乱れ飛ぶ光の乱反射という姿に変換されている法界の光と、神経系の微細な振動という姿に変換されれている法界の光とが、共鳴しあうようなことであるともいえようか。
暗黒瞑想から、日常の光のもとへと戻ってきた中沢氏に対して師匠は次のような言葉をかけられたという。
「共感と同情」
有情というのはあれこれの生命である。
虫だったり、鳥だったり、獣だったり、日常私の身の回りをうろうろしている連中である。もちろん、「私」以外の他の人々も有情である。
私 / 私以外
そういう私でない有情たちと「自分」とは、通常日常でははっきりと分離されていて、「敵か?味方か」「良いものか?悪いものか?」と、自分を利するものか害するものか、常に分別しながら対応していくようになっている。
そうした有情たち、「自分」から分離されていた有情たちが、いまや暗黒部屋での「光」の瞑想を経て、”自分と同じ存在が別の姿をとって仮に現れているもの”であると、ありありと感じられるようになる。ここに「共感」と「同情」が「込み上げる」。
このくだりを読むと「山川草木悉皆成仏」とか、空海がしばしば記している真言「アサンメイ チリサンメイ サンマエイソワカ」を思いだす。
大地に埋蔵された教えー経典を埋納する
地球そのものとの共鳴?
分別の固着を緩めた「心」(セムニーとゆるく共振しているセム)は、有情と共鳴し、さらに「土地」、大地とも共鳴していく。
土地も、大地も、風土も、「説法」をしていて、衆生も・人間も、耳の手前で分節体系の固着を緩めておくことさえできれば、この土地の「説法を聴く」=共振状態に入る、ということができる、という感じである。
日本の密教、修験道でも、「山」そのものが「法身の説法」であるというが、思想の根っこは同じかもしれない。ここから『精神の考古学』は聖地巡礼の話になる。チベット密教では「埋蔵経典」発掘の地が聖地として巡礼者を集めているという。
(埋蔵経典についてはこちらの記事にも書いています↓)
チベットの仏教は地理的に隣接するインドから直接伝来した教えを伝えているが、この隣国からの「伝来」ということをめぐって、中沢氏は次のように書かれている。
その土地と言葉(声)を共振させる
教えもまた、口と耳のあいだの空気を震わせる声による教えであれ、文字に刻まれることで人から人へ伝承可能な媒体に変貌を遂げた教えもまた、「自分」や「有情たち」とまったく同じく、分別の手前で分別を可能にする「心」(これを法界と呼ぶこともできる)の脈動の残響である。
この残響たちは、それを記し、声に出して詠みあげた人間の身・口(言葉)・意(イメージ)と、その人が生まれ生き死んでいくことになる「土地」とも強くもつれた共振状態に入っている。
*
気候も風土も言語も大きく異なる「インド」と共振状態に入っている「教え」の言葉、文字を、そのままチベットに持ってきただけでは、まだそのチベットの風土、人、言葉との”同期”がとれていない。元は同じ法身の説法だとしても、ある土地ともつれにもつれ込んだ姿のものを、上澄だけ掬い取って別の土地に巻いても、うまく馴染まない、うまく共振できない。
* *
ここはとても面白いところで「元々一つなんだから、いつでもどこでも同じ、区別しなくて良い」という風には考えずに、「場所によって現れ方、共鳴の様態にちがいがある」と考える。
”異なるか、同じか、どちらか”の一方の極である「同じ」だけを選ぶのではない。同じではないが、同じでないこともない、とみて、「ちがい」を認めた上で、丁寧に共振のモードへと切り替えていく。
* * *
そこで、経典をいったんチベットの「大地」に埋納して、じっくり漬け込むことでその土地との共振状態、脈動のもつれに入るようチューニングした上で、改めて「発掘」し、土地の言葉との共鳴状態に、土地の人の身と口と意との共鳴状態に波長を合わせる、という手順がとても意義深いものになる。
ある経典が現世に出現する
この「心(セムニー)」の複雑で多様に異なる脈動のもつれあいといったことを知らないと、”偉大な教えが記された埋蔵経典が発掘された”というニュースを聞いても、”発掘者(と称する人)が自分で書いて、自分で埋めて、自分で掘り出したのだろう”という俗な現世の見方しかできなくなる。
ここで中沢氏は「創造」という言葉を手掛かりに、埋蔵経典がこの世(現世)に出現するとはどういうことであるかを考えている。
埋蔵経典が、現世に存在する「これ」として「ある」ようになるということ、その「創造」は、通常の因果関係では思考されない。
通常の因果関係というのは即ち、書物には必ず書き手がおり、その書き手が頭の中で思いついたことを文字に託して並べているのだ、ということである。この場合、その著作者が「原因」として存在して、「結果」としての文書を創造しました、という至極真っ当な話になる。この発想でいくと、埋蔵経典もまた「誰か」がその手で文字を刻みつけたものであり、その「誰か」がどこの誰であろうかと探ることができる、という話になる。
因果の分別を離れて
ところが埋蔵経典はそのようにして「作られた」ものだとは考えられない、という。埋蔵経典の「発明」「発見」「創造」は、因果関係の「外」で生じる。
考えてみれば、因果関係というのは、因/果 を分別して、因の方に著作者をくっつけて、果の方に書かれた文書をくっつける、という分別処理によって構築された分節である。それに対して埋蔵経典が説いているのは他でもない、この因/果を含む分別・分節・分けて片方だけを選ぼうとすることに”こだわるのをやめましょう”、ということである。
因/果の分別を超えたことを、因/果の分別に引っ張り込もうなんて、無粋である。
フォーカスすべきは、分別心が切り分けた「彼方か、此方か、どちらを選ぶか」ということではなくて、分別の手前「無分別の法界」の脈動である。
法界に「埋蔵」されている
埋蔵経典は、大地に、ある土地に、経験的感覚的な物理現象としては埋められている。今、たまたまある行者が埋蔵経典を「発掘」したとして、その発掘は、感覚的経験的、つまり前五識で分別されつくした世界の相貌のもとでは「ある地点の土の中に、文字が刻まれたものが埋めてありました」ということになる。
しかし、この経典が”埋められていた場所”は、経験的なある土地のある場所であると同時にそれだけではない。経典は「法界」に潜在しており(埋まっており)、そこから「発掘」つまり人が読んだり詠みあげたり聞いたりすることができる振動パターンへと変換されたのである。
テクストが、分別世界から見えなくなって、無分別の潜在空間に潜り込む。
チベットの行者がインドに赴き、インドの土地でインドの声・言葉で深く教えを学び、その教えを文字に記した経典を持ち帰ったとして、それだけではまだ経典も経験的感覚的に分別された「もの」の姿に凍結保存されているようなものである。これはこのままでは法界と共鳴するだけのしなやかさにほぐれていない。そこで、この物質として固められた文字列は「いったん」「この世界」つまり分別された表層の世界から隠され「見えなくなる」必要がある。
見えなくなった経典がどこへいったかというと、消えて無くなってしまったわけではなくて、表層の分別で固まった世界の直下に深く深く広がる、いや、深さと浅さの分別すら不可得(よくわからない)感じのところに沈んで隠れている。この隠れ場所が「分別世界の「外」である無分別の潜在空間」であり、「法界」である。
表層と深層の分別も離れて
そうして掘り出された後も、この法界、「分別世界の「外」である無分別の潜在空間」との共鳴状態が鳴り止んでいない状態を持続することができる時、その教えは、その土地の人々の全存在と共鳴し、その土地のその人々の「世界」を振動させ、生き生きとあらゆる存在者たちがそこで生まれ出るように利益するのである。
一と多の分別も離れて
この埋納と発掘は、一度きりの出来事ではない。一回、二回、と数えることができるような分別され終わった世界「内」の話を超えていくのである。
中沢氏は書いている。「テルマ出現の場所を巡礼しながら、私は人間の心がおこなう創造の秘密に触れようとしていたのだ」(p.382)
法界の脈動の波紋のようなこととしての「創造」
感覚的で経験的な分別心から浮かび上がって、日常の表層(物事がはっきりと分別されている)の直下の「深層」に入り込み、その「底」(底なしというか、上澄と底、深いと浅いの分別にもこだわる必要がない)で時に高速だったり時に低速だったりとさまざまな振動パターンを表している法界に触れるため、中沢氏の修行は「四大=自然元素の声を聞き分ける」行から始まったのであった。
植物や動物もある種の「言葉(声、振動パターン)」をもっていて、それは人間の言語(声、耳、振動パターン)と響き合う。なぜ響き合うかといえば、どちらも法界の振動パターンの多様に異なるもつれ方のあれこれであるためである。
もともと別々に分かれていたものが、後からくっつひて響き合う、というのではなくて、もともと響き合っているところを、私たちの表層の分別心が分けてしまって固めてしまって、響きを止めて隠してしまったということ。それに気づく。
*
今、表層の分別の固まった覆いを剥がして、もともと響き合っているところをそのまま感覚や言語と、いわゆる八識と、共鳴させる。
中沢氏は、あるタントラから、次の一節を引用する。
「聲による神的な透視力」というところがとてもいいと思う。
声を、分けて片方を選ぶための手段として絞り上げておくのではなく、他の生物たち、他の人々、他の意識存在たちそれぞれの振動脈動「声」と共鳴させる。そうすると、あれこれの区別、自分と有情の区別を固めることなく緩めながら、時空の分別のようなことを遥かに超えて、「心連続体」の様々な様相と自在に響き合うことができる。
特に注目したいのは「彼らの生存は、自然の自生的音響との直接的交渉をとおして形成される」という一説である。
セムニーの音響たちの直接的交渉としての「生命」。
四大元素は、法界の脈動のもつれ方のあれこれのパターンであり、どのようにもつれて「固まったもの」という姿をしていたとしてもあくまでも法界の脈動である。
ちょうど美しい宝石が、波動でもあり量子でもあることのもつれの一つのあり方だという話に似ている。
生命体も、生命体の分別心も、
あくまでも法界のもつれ方
そのような四大元素の縺れ合い、響き合いから形成された生命たちも、あくまでも法界の脈動がもつれにもつれて減速されたパターンである。その生命の動き方(振動の仕方)のパターンの一つとして生じている意識や分別心(セム)にはそのままでは見えないかもしれないが、生命たちも、その分別心も、あくまでももつれにもつれた法界の脈動であることに変わりはない。
”心連続体”と言い換えられた法界と共鳴できるなら(「聴き取る」とはまさに身で持って共鳴するということである)「諸存在の生起のさまをありありと理解できるようになる」のである。なぜなら諸存在もまた”心連続体”と言い換えられた法界の振動のもつれのあれこれであるからして。
こうなると、もはや自/他を分けて、他を害して自分だけ利を得ようという類の考えの「浅はかさ」が際立ってくる。これが湧き上がる「慈悲心」ということになろう。
ほんものの利他心
自/他の分別を超えることにより、現世を厭って「早く離れたい」などと分別し、非-現世を欲望するような考えを起こさなくても平気な境地に至ることができる。
自/他、未分なのである。
この未分。
分かれているとか分かれていないとか、
繋がっているとか繋がっていないとか、
そういう二辺についてさえ未分である。
”いまそこで鋭く鳴いたヒヨドリの声を、一瞬、自分と一つに続いた何かの呼びかけのようなものとして気分よく聞いた。しかし、次の瞬間、そのヒヨドリがこちらを凝視する目を見ると、それはかの鳥の直下を歩いて通過しようとした私、”この”私に対する警戒心あるいは敵対心みなぎる眼差しであった。あの声は、威嚇の声、拒絶的な声であったと知る。そうして私は鳥に拒絶されたような気がして悲しくなる…”。という話があったとしよう。モチーフはレヴィ=ストロース氏が『神話論理』で取り上げている「カエルの歌」の神話である。即ち、人間の主人公がカエルたちによる「春の喜びの歌」だと思って聞いていた鳴き声が、実は、カエルたちにとっては、冬の間に寒さで死んだ仲間のカエルたちを悼む哀しみの歌であり、歌の上手いカエルは、その歌を楽しんで聞いていた人間をひどく憎んだ、という話である。
鳥たちと、1)繋がっているような気がして楽しくなり・・。
しかし、2)実は拒絶されていたのだと知って、悲しくなる。
楽しくなったり / 悲しくなったり
二辺の一方の極端から他方の極端へと触れているような「心」の動き方は、まさに分別心・セムのポジティブ・フィードバック的反復である。
そのような振幅の一方の極として定まっているような”つながり=区別がないこと=つながっているような感じがする感(?)”は、依然として、分離/結合、分別/無分別の区別を区切って、その片方だけを良きものとして選び、他方を悪きものとして厭離しようとしている点で、まさに「利己的な慈悲」と言わざるを得ない。
繋がっているとかいないとか。
拒絶されているとかいないとか。
歓迎されているとかいないとか。
喜ばれているとかいないとか。
・・そのような、二辺を分離した後のどちらを選びたいか、選ぶべきか、といった心の振り分け方とは関わりのないところで、”どちらであってもなくても、どちらでも”という感じになって、ただただ「あらゆる存在物と有情を貫いて流れる心連続体」の脈動と共鳴しているようなしていないような、心連続体の脈動と共振しながらも完全には位相があっておらず、少しずれて、”心連続体の脈動と同じような感じだが、何か少し違うような感じ”のところに引っかかっているようなことが「わたし」に他ならない。
自/他の分別の創造ー「私」の区切りだし
この「わたし」は、「《わたし》=”ではないもの”たちー”ではないもの”(たち)」である限りでの「わたし」であり、この「《わたし》=”ではないもの”たちの全て、部分と全体の区別が効いているんだかいないんだかよくわからない全てこそが「あらゆる存在物と有情を貫いて流れる心連続体とそこからの生起」である。
従って、「わたし」は、「《わたし》=”ではないもの”たち」と異なっているのか異なっていないのかよくわからない=不可得であって、そうなるともう、対象としてのある何かあれこれぞれぞれ(「個々の愛情の対象物」)に対して慈悲心が湧いてくるか/湧いてこないかといったことはどうでもよくなって、そもそも初めから(はじめも終わりもなく)大悲心、慈悲”する”者も、慈悲”される”ものも、あるようなないような、しかし確かに「あるよなあ」という「ほんものの利他心」のモードに入る。
一羽の鳥に拒絶されようが、好かれようが、「あらゆる存在物と有情を貫いて流れる心連続体」がいまここで、たまたまこのような耳に聞こえる声であtたり視線として感じられる光の印象として「生起しているなあ」という感じがする。
どこかに到達する/しない
中沢氏は続けて、あるタントラの一節を引用する。
働きかけを行わず。言葉で思考することを「到達」としない。
言葉で思考「しない」のではない。おおいに思考すれば良い。
しかしその思考が生成した言葉たちの線形配列の終端としての、言い換えの「到達」項、「成就」項を定めないこと。ここが肝心である。
「到達のないことが純粋な到達」なのである。
こういう言葉たちを、常に頭の中に反響させておきたいところである。
「修行を成就することなど考えず、
そのままをそのままとして受け入れる」
成就するとかしないとか言うことが、すでに、「まだダメな今ここ」と「完璧にかっこいい未来」のようなことを分別して後者に執着をしていることに他ならない。
到達している/到達していない
成就している/成就していない
こう言う分別による執着は、重々しく捨て去るでもなく、力を込めて破壊するまでもなく、そのような対象化する動きなど一切絡めることなく、もとより何ら思考の対象なっていなかったかのように「超えて」行けると自由自在になれる。もちろんこの「超える」は超える/超えないを分別しないし、超えて「ここーではない」”どこか”へと二地点の間を移動することもない。
そして次の一節、これがとても素敵である。
「到達のないことが純粋な到達であるから、
到達という概念自体を超えていけ。」
広大さにも執着しない
さらにこちらも引用しておこう。
広大さ。広大か狭小か、といった分別による二極の一方には拘らない。「思うがまま伸び広がっていく」法界が、ありとあらゆる分別された二項対立の両極を「超えて」いくことを私たちの心に教えている。
中沢氏は「法界」に関して、「聲の通路」という言葉を用いている。
このあたりの記述を読んでいると、親鸞の思想というのも密教の即身成仏、悉有仏性、如来蔵の思想を自然な流れで滞りないように広げたものと理解できそうだな、という気がしてくる。
迷いの多い日常を遥かに離れた境地へと到達した思考
浅い思考よりも深い思考
狭い思考よりも広大な思考
そういうより良い思考や認識といったものを”求め”たくなるわけであるが、それもまた執着であることを念頭に置いておく。「なにごとも、自分のしていることを大げさに考えない」のである。
到達の極みも、深みも、広大さも、にへんに分けられたことの一方である限り、変化し、消え去っていく。
この場合の「消え去る」は、
消え去る/消え去らない
という二項対立の一方ではない。
去る / 去らない、という対立する両極について、どちらが好きとか、どちらが嫌い、とかをいうことができるというのは、「去る<</>>去らない」「好き<</>>嫌い」というような二極を区切り出しつつある動きが動いているからである。
この動きが「法界」の脈動の一端なのである。そこでは「去っていく」ということは「去っていかない」ことと異なるが異ならず異ならないが異なる。
する/しない の分別を
分別するでもなくしないでもなく
二つに分けてどちらかを選ぶということを徹底して「しない」ゾクチェンは「仏教思想の精髄を極め」たものであると中沢氏は書かれている。
「自然自生物の音響」と、人間の心身は、共鳴して調和することができる。というか、共鳴しているからこうして生きているのである。
しかしその共鳴する微妙な感じを、日常の表層の言葉や、その固まった意味や、日常的なあれこれを分別する識としての視覚は、分別識別認識することができない。代わりに「記号、イメージ、象徴」といったものの出来合いのレパートリーを引っ張り出して、その中からどれかを選んで、その選んだものに固まろうとする。「無明」というのはこういう状態である。
ガッチリ固まった強そうな言葉とイメージでもって重厚長大な思考をしているはずが、どうもおかしい、何かが違う、こんなはずでは、と無力な感じに私たちを追いやっていく。しかし、そのように汲々としている「現代人の精神の奥底でも、[…]リクパの運動が、いまもたえまなく生起し続けている」のであり、この運動こそが「精神と物質の不変の土台」なのである(p.402)。
分別を無分別を分別するでもなく分別しないでもなく。
大げさなことではなく、日常のふとした瞬間に、このようなモードに言葉たちの言い換えの網の目を緩めてみるならば、わたしたちは即、「法界」そのものである鳥たちの声や虫たちの声や、大地の声や、空の声や、星々の声や、あるいは他の人間たちの表層の言葉の裏側で脈動している声や、それらと異ならない「わたし自身」の声を聴くことができる。
そしてさらにその聴かれた饒舌な無言を、仮に、今ここの、この身体と言葉と意識において、あるパターンに変換するようにして、新たに声に出して、言葉にすることもできる。
それはもちろん、束の間輝いたうちに溶けるようにどこに行ったかわからなくなるが、しかしそうだからといって何も惜しがることはない。もともとなかったのだし、もとからずっとあって、これからもそのまま・・損減不可得にして増益不可得のような。
*
といったところで、以上で、一連の記事、”中沢新一氏の『精神の考古学』をじっくり読む”シリーズはいったん閉じます。最後のページまで到達したからです。
最後に、個人的にとても印象に残った一節をご紹介させていただく。
師匠/弟子
師匠と弟子の関係というのも、師匠というものがそれ自体として存在するわけではなく、弟子なるものがそれ自体として自存するわけでもない。
どちらにせよ、「たった一つの法界からの声の響き」であって、今、仮に、師匠という姿形、弟子という姿形をとってそれぞれの感覚印象のうちに現れている。
「たった一つの法界からの声の響き」が人間の感覚の束・網目と共振状態に入って、それぞれの姿かたちとして感じられるものになっている感じ。
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大げさに構える必要はなく、
まずはこの「声の響き」を聴くともなしに耳をそばだてる。
そうしたところで、
世界も、私も、共鳴状態を変化させていくことができる、
というか、もう常に既に
共鳴状態が変化していないような姿で変化しつつあることを、
障りなく知る。
この「知る」は法界のからの声の響きと異なることのない
共鳴、調和としての「知る」である。
本シリーズのこれ前の記事は、下記のマガジンからまとめて読めます。