四次元、幽霊、見えない力 と共鳴共振できるコトバを -唐澤大輔・石井匠著『南方熊楠と岡本太郎 知の極北を超えて』を読む(2)
唐澤大輔氏と石井匠氏の『南方熊楠と岡本太郎 知の極北を超えて』を引き続き読む。
見えない力に
『南方熊楠と岡本太郎 知の極北を超えて』の250ページに、著者の石井氏が次のように書かれている。
四次元との対話?!
見えない力に呼びかける?!
呪術?!
これは一体どういうことだろうか。
四次元、見えない力。
そういことは、通常の感覚や言語の表層的な分節をはるかに超えている。
超えているというか、掬いとれないというか、網にかからない。
「あれです」、「これです」などと言い換えることも、できないことはないが、言い換えたところで、いったい”だからなんだ”という感じになる。
端的に言語化不能、表現不可能に思われる。
*
しかし、「不可能である」とか「可能である」とか言うのもまた、感覚と言語の内側での分別である。
可能 / 不可能
言語化など到底できそうにもないが、全くできないこともなく。
しかしできるとも言えず。
できる?
できない?
できるわけではないが、できないわけでもなく・・。
表現することなど到底不可能だし、仮に何かを表現したとしても、まったく的外れであり続けるのだけれども、しかし、表現できないことはないし、表現してはならないということもない。
表現できる / 表現できない
この二辺のどちらか一方を選ぶのではなく、この二辺のどちらからも離れて、”できるような、できないような”、”できるでもなく、できないでもなく”というところで言語的に思考し続ける。
できているとかできていないとかを、分別する分別心を、どこかに求めることからして、行ってもよいし行わなくてもよい、というところ。
「極北」を「超える」知というのはそういうところから姿を現すのだろう。
”極北”の知というだけでも十分にすごいのであるが、その極北さえをも”超える”、超えていく。
*
これらの「/」が走り出してくる、飛び出してくるところと共鳴できるように、この身体、感覚、この言語をチューニングしておく。そしてそのようにいチューニングされた言葉こそ「不可得」モードの言葉なのである。
***
『南方熊楠と岡本太郎 知の極北を超えて』の256ページに唐澤氏が書かれていることも、とてもおもしろい。
容易に発見できるものではない、とても珍しい植物を熊楠は発見したのであるが、その場所へわざわざ調査に行ったのは、幽霊に教えられたからだというう。
自然科学の大発見を幽霊の導きによってする。
熊楠はそのように記している。
幽霊?!
客観的事実のみで淡々と、珍しい植物を見つけました、と報告するだけでも通りそうなところを、熊楠があえて、幽霊に教えられたと書き残したこと。
これを現代の日常の感覚からすると、「パフォーマンス」とか「法螺」とか、要するに、話をおもしろくするための小ネタというか、作り話、冗談、リップサービスの一種として解釈されることが多いだろう。「いや〜またまた、熊楠さん、ひとを面白がらせる天才ですね〜」という具合である。
そういうふうに解釈しておけば、幽霊のことを真剣に考える必要もなくなるので都合が良いのだろう。
しかし、もしも、である。
もし、本当に、ほんとうに・・!!!
幽霊に教えられたのだとすれば?!
熊楠が主観的な事実として、本当に、実際に、幽霊に教えられる経験をしたのだとすれば?!
+ +
ここで、熊楠が書く幽霊に導かれた話を「心理的事実として丸ごと信頼してみる」べしと唐澤氏は書かれている。
ここである。
重要なのはここ「心理的事実」ということ。
心理的事実
幽霊。
おそらく、そのときの熊楠は、それを言葉で表現するならばそうとしか表現できない、というか、そう表現することが一番ぴったりだと心底思えていた可能性がある。
もちろんこの幽霊を幽霊と呼ばなくてもよい。
目にみたり、手に触れたり、音に聞いたり。
要するに、人間の身体の神経系の分節システム(とその延長であるような観測機器)で分別できることだけが「客観的事実」として「存在」する、ということにして、そういう客観的事実のことだけを言葉で表現して情報交換しましょう。というのが近代、現代の、言葉づかいのモードである。
+ +
ところが、この感覚的な分別というのは、仏教の唯識でいえば、前五識による分別である。前五識による分別の組み方を精密にすることと、第六意識、第七末那識、第八阿頼耶識のことを無視するのとは、別の問題である。
見えること、聞こえること。
個々の前五識は、第六意識によっていわば統合されているし、この第六意識による統合は第七末那識による自/他の分別とハウリング状態に入っているし、この末那識が自他分別する際の材料になるようなありとあらゆる細々とした分別は、第八阿頼耶識の言語的な意味分節の残響と共鳴している。
この、第八阿頼耶識、第七末那識、第六意識で高速に動いている多数の分離と結合、分節と無分節の分別の発生を、そのまま、言葉の、発話された線形配列の上に射影していく。
そのようなことをしようという場合、言葉は、感覚的事実報告の道具であることを超えて、幽霊や、四次元や、見えない力、といったことをひっぱりだしてくる。
+
四次元
幽霊
見えない力
なんだか、とんでもないことが続々と出てきたな、と思われるかもしれないが、じっさい言葉は、間違っても客観的事実を報告するため”だけ”の透明な道具などではない。
いや、もちろん「言葉を客観的事実を報告するための透明な道具だということにして、仮に使ってみましょう(ほんとうはちがうと思うんだけどね)」ということであれば大いに”あり”である。
自然科学はほとんどこのような姿勢から発展してきたものである。
しかし、言葉が「客観的事実を報告するための透明な道具」でありうるためには、「客観的事実を報告するための透明な道具」としての言葉と、そうでない言葉とを分別し続けるような精度の高い査読システムのようなことが機能している限りのことである。
+ +
幽霊の話をしてはいけない。
そのように言えるのは、
幽霊の話をしていい / 幽霊の話をしてはいけない
この分別をいつも同じようにしっかり分別できると、安心していられる限りのことである。
四次元レベルの見えない力の幽霊たちと呪術的に対話しようと思うのであれば、現世の人間的な出来合いの”分別”は、いちどすべて、どこかに置いてきた方がいい。もちろん、捨ててしまってはだめである。神話的な蛇やカエルたちに「預かっておいてね」とお願いして、大切に保管しておいてもらおう。
知の極北を、超える
この本のタイトルの「知の極北を越える」というのが個人的にとても良いなと思う。
*
極北というからには、その反対に非-極北があるわけだろうが、そのような対立する二極の一方である”極北”を、さらに超えていくところに出てくる「知」とは。
どういうことか。
「知」というのは煎じ詰めると、「Xが謎なんですが、結局何なんですかねえ?」という質問に対して「Xとは、Aである!」と応じることである。
Aが「知」なのではない。
XをAに”言い換える=置き換える=換言する”といった操作、あるいは行為、ないし”計らい”と呼べるようなことが、知である。
ここでもし問い手が「Aである!」に納得をすれば「なるほど、XはAでしたか!よくわかりました、スッキリしました」となる。
この問い手はXという言葉を扱いかねており、そこに、なにやら使い慣れた、既知の、いままでの人生でいろいろなことを”そこ”に言い換えては、それ以上先に言い換えることをしてこなかった終端装置のような「A」をもってきている。
・・未知を、既知に、置き換える。
・・・分からなかったことが、分かるようになる。
・・・・これは、とっても良いことだよね・・??
ここで、かの松長有慶氏が書かれている言葉を参照しておこう。
分別よりも無分別。
そしてさらに論理の筋トレが我即プロテインの境地まで突き抜けてしまった人向けに言えば、”分別と無分別を分別するでもなく分別しないでもなく”、という境地こそ、極北を超えたところで「知」が躍動する様式なのだろう。
分別と無分別を分別するでもなく分別しないでもなく生きる
世の中には、私もその一人であるが、いちいちの言葉にひっかかる人間がいるものである。
先ほどの未知を既知に置き換える、という話にしても、「既知」ってどういうこと? と引っかかる。
未知を、既知に置き換えて、満足するのはよい。
それはそれでよい。
ところで疑問に思うのは「既知」はどうして既知なのだろう?
+ +
例えば、外で地面に落としたお菓子を拾って食べるのは、「やめておいた方がいい」と今の私ならいう。子どもにもいう。しかし、私自身が2歳とか3歳だったころ、果たして地面に転がった菓子を見て、「やめておいた方がいい」と思っただろうか??
既知が既知になるためには、いわゆる学習が行われているはずである。
ここで私などは、自分がこれまで何十年も「学習」してきたことでは、”まったく足りない”という実感とともに生きている。これまでの学習の蓄積を否定しているわけではない。よく頑張った、たくさんのことを知っているなあ、と思う(笑)。
前五識と第六意識の統合の仕方を、どうにもおぼつかない第七末那識と、ごくごく切り詰められた第八阿頼耶識のすみっこのようなものを組み合わせて「学習」し「既知」を作り上げてきた。
それはそれでよい。
しかし、それにしても、この世界の不思議さを前にすると、ほんとうに、ほとんどまったく、何にも知らない。
+ +
いまここで、このわたし、いまのわたしの「既知」に置き換えたところで、それが何だというのだろう?!
このささやかな既知の塊である私を、既知と未知の境目へと滲み出させていく。私が私でないような何かになるようなならないような。
ここでふと、岩田慶治氏の世界を思い出す。
異なるが同じ、同じだが異なる
日常、生きている身体のまわり、
至る所に、妙に細かい「ちがい」を感じ取ること。
見たり聞いたり触れたりするよりも少し手前で、「あれ、何か、そこが気になるぞ」、他ではない「そこ」が気になるぞ、という「感じ」が、わーっと波立って、その波の波紋の先端、第一波が届いたときに、ようやく五感が励起されて、あれ、これ、それ、とやりはじめては、記憶されたイメージと言葉がざーっと押し寄せるが、そのいちいちのことにあまり注意を振り向けることなく、そのまま「あれ?何か・・」の感じの余波が、残響を響かせ続けるのを、ほとんど聞こえなくなるまで、耳ならぬ耳をそばだてる。
「耳に諸々の不浄を聞いて、心に諸々の不浄を聞かず」
と、いう感じである。
目に見えて、あれがある、これがあるとか。
耳に聞こえて、あれがあるとか、これがあるとか。
五感で感じ取ることができる対象物というものは、感覚器官における分別とその先に控える言語的な分別が折り重なった多重の分別を通じて切り出された産物である。それら分節”された”あれこれの項を、下の図の「Δ」で仮に表現してみよう。
Δは、”そのΔではないこと”から突出して分離しようとしている先端であって、針の先のような己自身以外のことはみえなくなっている。
このようなΔを自動的に生産していくのが、私たちの分別する感覚、分別する言語、分別する心である。分別心は、Δだけを検知する。そしてΔだけを、線形に、リニアに、一列に並べていく。
この配列はじつは至るところから分岐して、分岐した先でまた絡み合い、網上になって、まったく「線形」ではなくなってしまうのであるが、そうならないように、同一律・矛盾律・排中律、いわゆるロゴスの論理を使って、分岐していく芽を摘み刈り取っていく。
こういうΔを、仏教なら、仮に「不浄」という。
もちろん、これは方便である。
浄 / 不浄
この二つにわけて、前者が良くて、後者が悪い、などというのは、典型的な分別である。浄/不浄を分別した一方としての「浄」など、これまた実に「不浄」である、と、しかしそういうのもまたΔ浄/Δ不浄の分別を繰り返し何度も何度も突出させていることに変わりはない。
浄も不浄もなく、どちらも本来清浄
(というか、清浄か否か不可得)
というわけで、強いてこれを言語化するのであれば(言語化しなくてもよいのだが)密教の経典に書いてあるような形で言語化しておくことが、「二辺を離れる」立場に適っている。
* *
ここでいう「不可得」は、上の図でいえばβたちである。
この分別されたΔたちは、この分別”される(する)”ことによって、その効果というか、影のようなこととして、束の間その姿をゆらめかせる。
そしてこの分別”される(する)”ことというのは、上の図で言えば、四つのβが図の中央の一点に集まったかと思えば、縦方向に伸びたり、横方向に伸びたり、四方に広がったりする振動として、人間の心において記述し意識できるような事柄である。
上/下、自/他
『南方熊楠と岡本太郎 知の極北を超えて』の248ページ、249ページあたりで、唐澤氏が次のように書かれている。すなわち、現代の社会では、上/下、自/他などを区別しては、「自分は上を、目指さなければならない」と強要される。つまり、下記のような四項関係ががっちりと固まっているところで、どのΔを選ぶべきかが決められているような感じになっている。
Δ自/Δ他
|| ||
Δ上/Δ下
Δ自分をΔ上に振り分けるために、Δ他を無視したり、蹴り落としたり、虐めたりして、自他を区切り分けようとする。
そうすることで「Δ自」分の「アイデンティティ」を確固たるものとして固めて置くことができるような気がしてくる。
そしてそのように分別することは、善/悪の分別でいえば”善”の方だということになる。
しかし、上には上がいくらでもいる以上、この分別を効かせ続けようとするやり方は、初めから失敗を約束されている。そして「Δ自」も、本来は脈動するところから突出してきた針の先のような影であって、その輪郭は定まっているどころか、放っておけば一瞬のうちにどこかへ溶けてなくなるようなことである。
それよりも「アイデンティティなんか曖昧でも、変形体のよう増殖と連結を繰り返していく予測不可能な姿のほうがむしろ、根本的な生命のあり方」であると、唐澤氏は書かれている(p.248)。
そしてこれを受けて石井氏は次のようにいう。
古代の人類は、βの脈動のようなことをよく知っており、一方で、はっきりとΔあの世から切り分けられたΔ現世の固まったΔ四項関係を維持することでどうにか生きているということも知っていた。そして、表層の日常世界のΔ四項関係を発生させ、生成させ、それが弱ってしまったときに蘇らせることができるのは、β脈動に他ならないこともよく知っていた。 なぜなら「この感じ」が掴めないことには、狩猟採取生活を潜り抜けることが難しかったからであろう。
狩猟者であるような獲物であるような
狩猟者 / 獲物
この区別というのは、はっきりしているようで、はっきりしていない。
森の中で狩の途中に、一歩足を滑らせて、出血でもして動けなくなってしまったとしよう。あっという間にその匂いを嗅ぎつけて、小さな虫ならいきなりそこに噛み付いてくるだろうし、大きな獣たちも遠巻きに様子をうかがいながら、夜になる頃には…。
そういう「狩猟者のつもりなんだけれども、まあ、獣たちからみれば、こちらも獲物みたいなものかあ」という、狩猟者か獲物か、どちらか不可得な状態を潜り抜けることは、人間たちで集まっている仮のキャンプのちょっとした領土感Δtの広大な周辺に一歩踏み出すためにも、常に必要なことであった。
だからこそ、Δ分別だけで自分は強いぞ、もう一人前だぞ、と「思い上がった」状態になってしまった部族の次世代の”大人たち”を、家族のもとから日々旅立っては森を通過しまた帰ってくることができる者にするために、いわゆる「通過儀礼」で、生/死不可得、有/無不可得なβ脈動に直接触れさせて、そこから改めて引っ張り出してΔ分節を仮設するというプロセスを体験させてやらないといけなかったのだろう。
「目に見える三次元的空間だけではなく、もっと高次元を察知しなければ」というのは、生きていく上で切実なことだったのである。
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しかし、現代の社会=完全な人工的記号空間では、Δは、出来合いのものとして、β脈動とは無関係に、すでに完成された商品のようなものとして、コミュニケーション・メディアの中の記号商品として流通し、お金というこれまた強烈なΔと交換するものになっている。
現代の都市の表層からは、β脈動からΔ分別を自在に取り出したり、あるいは執着にもつれて固着したΔ分節をβ脈動に共振させてほぐしたりするようなシャーマン的な営みは、ほとんど隠れてしまっている。
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この点で興味深いのは、いわゆる昨今いわれるASD的な感性の細かさと、曖昧なことを曖昧なまま「なんだ?!」と響かせ続けられる「感じ」は、現代的な出来合いの二項対立関係をいかにして高速に選択して重ねていくかというデジタルコンピュータ的な記号の交換の様式をはみ出してしまうという点で「障害」と呼ばれるが、実はこれこそ「獲物のような狩猟者のような・・」という状態を潜り抜けることを容易にする「目に見える三次元的空間だけではなく、もっと高次元を察知」しつづける能力なのではないか、という話である。
しかし、この「シャーマン」的な高次元を察知できるような人は、現代社会では「つはまじき」にされていると書かれている。
つまはじきにされ、受け皿がない。
この「目に見える三次元的空間」の「なんだかよくわからないが何か強烈な感じ」であるβ脈動と共鳴するしなやかな心に生まれる印象や、なんとも言えない言葉の手前のようなことを、「誰かと共有」するチャンスに恵まれることも難しい。これでは生きていてつらい。生きづらい。
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「初源的な元の一つのモノ」に「戻っていく」というのは、石井氏によれば次のようなことである。
この溶け合っているところ、まさにその溶けているところから、ふつふつと「何か」が、「それは”何である”」との”言い換え”処置をするには程遠い手前で、ただ「何?!」という感じが、”他ではないーその”何”が、小さな泡のように立ち上ってくる。
その走っていく小さな泡の表面に、ほとんど視覚に捉えることはできないほど高速でゆらめくプリズム分光された光たちの震えに、アラヤ識の一番やわらかいところから浮かび上がったばかりの言葉を、共鳴させる。
そういう極北をさえも「超えた」「知」というのを、訥々と、言葉の線形配列の上に浮かび上がらせられるようになりたいものである。
ちなみに、そのようになりたいという方にお勧めしたい方法の一つが、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を精読するという行である。学問というか、行、修行の「行」。
その具体的なやり方は下記の記事に書いているので、ぜひ参考になさってください。
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