近況

随分ご無沙汰いたしました。
纏まらない気持ちをつらつらと書き連ねていたこのnoteは黒歴史でもあるのですが、自分の一部的でもあり、書けるような感情はないだろうかと心の片隅ではいつも考えていました。
 とはいえ、久しぶりに書き出したとはいってもすごく大きな出来事があったわけではなく、今のものの考え方について書いておこうというくらいのことです。そんな内容ですが、よかったら聞いていってください。

私は現在、どこかに勤めるということはせず、株式投資をして少しは収入を得ながらゆっくりと暮らしています。まだ27歳という若い年齢でこの隠居のような暮らしはどうなのだろうと思う節はありますが、私にはあった暮らしなのでしょう。精神が安定してきました。

そもそも、私が鬱病になるほど苦しんだのは、自分という人間の感じることや望むことを本人なのにはっきりと感じられず、なのに行動を求められることが最終的な原因でした。
 そうなっていることに気づき、それでは不具合があるんだという強い強迫観念のようなものと他者から投げられる言葉や常識、感覚の違いに悩んだのが大学以降ですが、自分の意思や感情を自然に感じて行動することがものすごく難しいこととなったのはそれまでの家庭環境が根深い原因でした。

 普通の家庭のように家族団欒、週末に出かけたり時には旅行に行くという経験はなく、それどころか働かないで1日中怒鳴って暴れる父の騒音で夜も眠れない日々を、小学5年〜高校3年まで過ごしていました。その声はとても恐ろしく、脳裡に刻み込まれ、声がしない時(学校など)でも不安感があり、やる気もあまり湧かずに不登校を繰り返していました。母は父に献身的な人で子どもを連れて家を出るという選択はしてくれず、事情があって祖母の家に居候することもできず、未成年の私は耐えるしか選択肢がありませんでした。※今から思えば、覚悟さえ決めれば家出という選択肢は残されていましたね。でも当時の私にはその発想がありませんでした。
 そうして家族5人の生活と娘3人の進学費用を支えるために母は必死に働いていて、家の辛さから姉や妹は外の世界に居場所を求めて友達関係や部活に忙しくしていましたが、なまじ俯瞰で物が見えてしまう私は家事と勉強ばかりしていました。勉強は好きですが課題の多い学校でもあり、淡々として決まったことをこなすだけの毎日で、そういう機械的生活の中で何かを感じる機能のようなものが働かなくなっていったのだと思います。学校でも、自分の感情が持てず、人との会話はテキストをなぞるようなものだけ。そんな風にしかできない自分を不安に思っていました。そういう、あまり何も考えられない中で、環境的に当たり前に行くものであった大学に進学したはいいものの、確たる目標も理由もなく、急に現れた自由に戸惑ってしまって、何をしたらいいか分からず、何となく行動はしてみるもののその動機や心情はわからず、そのまま心が付いてこないまま就活の時期を迎え、居場所の見つからないまま卒業し、図書館でアルバイトをしながら、少しでも関心のあるような気がする司書の試験を数年受け続けました。これはとても贅沢なことのようですが、少しでも「本当」がないと面接で言葉が出なくなるくらい、私にとっては志望動機や行動理由を話すことは難しく、恐ろしいことだったんです。

最近カーリルで見かけて気になっている『私がわからない』というヤングケアラーのことを書いた本があるのですが、このタイトルこそ長年苦しんだ私の悩みそのものだと思います。

それは、自分を見よう、自分の意志で選択しようと考えるほど、わからなすぎて身動きが取れず、そこから来る強い緊張と、自分がわからないまま人に問われることや人の目に晒されている感覚による不安感が蓄積して鬱病に進展するものでした。少し大げさな気がしますが、私の場合は少なくとも真剣で深刻な悩みでした。

だから、今の、株式投資という「自分」を入れずにできる方法で収入を得て生活している暮らし、頻繁に人に自分について聞かれる(いわゆる雑談)のない環境というのは今の私にとっては最も必要なものであり、無理に、性格や感情、将来の目標といった自分の輪郭を打ち出さなくていい安心感の中でまどろんでおります。

そうした中で、少しずつ、「思わなきゃ」として出したものではなく自然な自分の感情というものも感じられるようになりました。このあたり、鬱の初めの頃に知能検査やPFスタディに異常が見られたことから診断された自閉症スペクトラムが、実は環境により心が機能しなくなっていたのだという違った診断になるのではと思っていますが。ただ社会に属すること、人との関係性の中で生きることに幸福感や充実を感じる感覚があまりないことや、「人」より「コト」「モノ」に関心を持つ傾向があることは確かで、自閉性は確かにあると感じています。

話は逸れましたが、今の私の心が動く存在が、植物と本、一昨年から飼い始めた1歳のうさぎくんです。

司書を目指している時は無理やり捻り出した目標という感覚でしたが、こうやって心が緩んできて書物に触れると、そこに詰まった知識に心躍ったり、着眼点の鋭い意見にヒリヒリさせられたり、目が潤うような美しい文章にじっと留まったり、とても居心地の良い時間を過ごしている体感が確かにあるのです。

やはり、それを自分の生活の軸にすることで充実した感じが持てるのではないか。そう思って、一昨年に体験させていただいた古書店の仕事を思い出しながら、古書店を始めたいと思うようになり、去年の年末には古物商許可証を取得しました。資金の問題もあって、実際に古書店経営が始められるのはまだまだ先ですが、実はほとんど偶然に、近所で会社の一部に本棚を置いて古書販売スペースにしようとしている方と繋がることができまして。そこの選書や本の管理をさせてもらえることになりました。

 望んだら綱引きのように縁が引き出されてくる状況に、不思議さを感じています。もしかしたら、神様がいるのかも。なーんて思いながら、ありがたく、大事にその仕事をしようと思っています。

ぼちぼち、徒然なるままに、noteの日記も再開しようと思っているので、またよろしくお願いします。




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