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『老いぼれを燃やせ』 マーガレット・アトウッド (著), 鴻巣 友季子 (翻訳) すんごく面白かった。所収九篇のうち、二篇二人の主人公が、ファンタジーとホラーという「B級」と扱われるジャンルの小説家として若い時に成功しそれを超えられずに老年を迎えている。のはなんでかな。

『老いぼれを燃やせ』 2024/9/19
マーガレット・アトウッド (著), 鴻巣 友季子 (翻訳)

Amazon内容紹介


高齢者を口減らしすべく介護施設をつぎつぎ襲撃する若者と、待ち受ける老婦人を描く表題作。4人の夫を看取ってきた女性と、"運命の相手"との再会を描く「岩のマットレス」。復讐譚、ゴシックホラー、社会批評など、バラエティに富んだ9篇を収めた傑作短篇集

本の帯 表面

予言的ディストピア小説『侍女の物語』の著者が放つ辛辣なユーモア
老境の平穏からはほど遠く、未練と怒りまみれの高齢者らの紆余曲折を描く傑作短篇集!

ここから僕の感想

 面白かった。それは『獄中シェイクスピア劇団』の感想文を書いたことと似ているのだが。そのときの感想文から。

あのね、死ぬほど面白い。どんな感じかというと、宮藤官九郎のテレビドラマ、一作全13回とかを、まとめて一気見しているような感じ。止まらない。
(中略)
マーガレット・アトウッド著・鴻巣友季子訳、という同じ著者訳者の、『誓願』を読んだばかり。あれもディストピア小説『侍女の物語』続篇ということで、暗い難しい小説かと思って読んだら、アメリカのテレビの政治アクション連続ドラマみたいな内容でびっくりしたのだが、もしかすると、このマーガレット・アトウッドという方は、ものすごくエンターテイメントな小説を書く人なのではないか、と思ってしまう。もちろん、文学的な深みも、人物造形、描写も、とても深いと言えば深いのだが、いやーそれよりも、面白さが、すごい。サービス精神というよりは、そういう風に書くことをこの人自身が楽しんでいるような感じがする。

僕のnote 下のやつ

 帯を読むとさ、「ディストピア小説」の作者が、なんか政治的な意味での老人問題の怒りとかなんとかを辛辣なユーモアで描いた、暗い辛気臭い小説みたいに思っちゃうじゃんね。違うと思う。全然違う。

 『侍女の物語』と『誓願』のディストピアが、産む性としての女性を著しく弾圧差別するディストピアを作り出して、それに抵抗する女性を描くものだったもので、このアトウッドという人を「フェミニズム」作家であり、政治的な批判の書としての「ディストピア文学」を書く人、というふうに評価する、論じるというのがなんか定番になっちゃっているように感じるのだが。この本の帯も、そういう文脈で売ろうとしているみたいに読めちゃうのだが、いやあ、それが正統派なんだろうけれど、僕はこの本を読んで、マジで違うんじゃないか、その論じ方は、と思ってしまったのである。

鴻巣友季子氏も「訳者あとがき」で同趣旨のことを書いている。

 さてアトウッドといえば、『侍女の物語』と『誓願』というディストピア文学がなんといっても有名なため、なんとなく怖い作風と思われているようだ。しかしこの作家の真髄はつねにユーモアにあり、その意味では、本作は『獄中シェイクスピア劇団』などと並ぶ。私は訳しながら、数ページに一度くらい爆笑して手が止まってしまったくらいで、“コミカルいじわるアトウッド”の真骨頂と言えるだろう。

本書「訳者あとがき」p371-372

全く同感である。もう爆笑しながら読みました。

 でね、そこからさらに一歩進めて、「フェミニズム&ディストピア」の作家という視点ではなく、この小説群を論じていけないかなあ、というのが本論の目論見であります。例によって長くなりますが、おつきあいお願いします。

本書の9篇のうち、3連作+1、の四作品に注目して論じてみたい。

 この短編集、九篇の短篇が収められているのだが、

 はじめの3篇連作、1960年代に恋人だった女二人、男一人の老年晩年になってのあれこれを、その三人それぞれを主人公とした連作としたもの。

 で、七編目の『死者の手はあなたを愛す』というのも、登場人物も全然違うのだが、やはり1960年代に学生で同居していた男三人女一人の、若い時の愛と性となんやかやと、老人になってからのあれこれを書いたものなのね。

 この四篇は味わいがわりと似ている。昔の、20代の頃の恋人との恋愛と性的関係のことを、60代後半から70歳過ぎくらいになって思い出しつつ、今、どういうふうに関係を持つか、老人になった今、どう折り合いをつけるか。そういうお話なんだな。

 この「今になって折り合いをどうつけるか」の気持ちの中に、「復讐したい」という気持ちがあって、そこの「復讐」だけをより本気でやろうとする、そうすると犯罪小説になっちゃうでしょう、そっち方向、本当の犯罪エンターテイメント小説にまでいっちゃうのがある。『岩のマットレス』

 そして最終九つ目、表題作『老いぼれを燃やせ』だけは、そういう昔の恋愛だ性的関係だなんていうことを反芻して勝手に生きている老人世代というもの全体が、若い世代から見れば邪魔もの社会のお荷物でしかない、早く死んでくれという社会的問題を扱っているのだな。日本でも老人ははやく死んでくれ的な発言を政治家や有識者がしては社会問題になったり、オレオレ詐欺から最近の闇バイト強盗まで、経済的社会的に困窮した若い世代が富裕な老人を襲う犯罪が頻発することと同根の問題を扱った小説なのだな。で、とりあえずこの本国ではこれは表題作ではないのを日本では表題作にしたのは、なんか日本ではタイムリーだし「現実化したディストピア問題」みたいな感じで、アトウッドのイメージからして売りやすい、ということだったんじゃあないかと思うのだが。

 でもね、本国の表題作は過去の復讐物の『岩のマットレス』が表題作なのだな。

 で、僕は何について論じたいかと言うと、初めの三連作『アルフィンランド』『蘇えりし者』『ダークレディ』『死者の手はあなたを愛す』についてなのだな。これらを勝手にまとめて「3連作+1」と置くことにする。

 ここではアトウッドについての正統派固定イメージ①ディストピアを描く政治的純文学作家であり、そこのディストピアが弾圧しているのは(テーマの核は)②女性、つまり女性差別についてのフェミニズム視点を中心としている。フェミニズムかつ政治的なテーマを扱った純文学的ディストピア小説の大家で、ブッカー賞を二度受賞したノーベル賞有力候補の大家。

という正統派のアトウッド読み方に対して、異議を唱えたい、というか、この本の「違う読み方の可能性」を提示したいと思うのだな。

3連作+1の分析、スタート。

 3連作の一作目の『アルフィンランド』の主人公は、70代半ばくらいかな、夫に先立たれて一人暮らしをしているコンスタンという女性なんだけれど、若い時に書いた『アルフィンランド』という、魔法使いだの龍だのが出てくる、いかにもな(B級)ファンタジー小説が売れて、どんどんシリーズ化されゲームにもなったりして老年の今でも書き続けていて、かなり裕福な暮らしをしているのだな。(ハリポタシリーズのローリング氏の下位互換なイメージかなーと思って僕は読み始めた。)

 でも、若い時は1960年代半ばくらいには、売れない詩人ギャヴィンという恋人がいて、本人も詩人になりたくて、そういう文学者、フォーク歌手とかアーティストの交友関係の中にいた。ギャヴィンにすっかり恋をしていて性的にもめろめろになっていて、ギャヴィンの、性的なことを書いた詩に自分が「真愛の人」として登場していることが最高の幸せ、みたいな感じだったのだな。生活力のないその詩人を支えるために、ファンタジー小説を、詩人やアーティストたちに三流エンタメとしてバカにされながら、書いていた。

 その詩人ギャヴィンが浮気をして(二人の暮らしていた部屋で、相手の女としている真っ最中にコンスタンは出くわす)、当然、別れる。それ以来、何十年、会っていない。
 別れた後にファンタジーがものすごく売れて、かなりたってから、別の建築家の男性と結婚して幸せな夫婦生活を送った。
 この小説は、夫に先立たれてまだそんなに長くはたっていない時期で、老人一人暮らしで雪嵐がきて不安だなあ、という一日を描いている。亡くなった夫の声が今も聞こえてくる。昔の詩人のことなんか、なんの未練もないと思っているのだが、急に性的な夢に詩人が出てきたりする。

 二篇目『蘇えりし者』はその詩人、ギャヴィンはちょうどその頃、という話。ギャヴィンが主人公。彼は詩人としてちょっとだけ成功して(賞をいくつかもらったり)、その後、大学の先生にもなって老人になり、今は、30歳も若い妻と暮らしている。が、若き日の恋人コンスタンのことが忘れられない、というしょうもない男性老人なのである。若い女性の大学院生が研究のためにインタビューに来る、そこで…という話。

 三篇目『ダークレディ』は、若い頃、詩人ギャヴィンの浮気相手となった(コンスタンがやっているところを目撃してしまった)女性ジョリーの現在、老人になっての話。ちょうど同じころ、という展開である。
 若かりし日、ジョリーは詩人ギャヴィンとはしばらく付き合うが、結局、捨てられてしまう。かなりはちゃめちゃな性格で、はちゃめちゃな人生を送り、今は双子の弟と暮らしている。(男女で双子である。)
   ジョリーは、詩人ギャヴィンのことではなく、むしろコンスタンのことをずっと恨みに思い続けて何十年、生きてきたのだな。

 この三人の、若い時から現在までの人生、そして老いたある数日間の出来事、思わぬ交流と結末を描く三連作である。

 でね、僕がここから論じたいことの中心に、「男女の恋愛と性の関係の中でのフェミニズム的視点、男性批判」みたいなことではなくて、ここで、コンスタンが「三流とアーティストからバカにされるファンタジー小説家」であることに、注目して見ようという目論見なのね。そこをまず押さえておいて。

 では、+1『死者の手はあなたを愛する』の方では、主人公は男性の小説家ジャック。『死者の手はあなたを愛する』という、大ヒットしたB級ホラー小説を持つ作家である。これも1960年代の学生の時に、一軒家をシェアしていたジャック含め貧乏学生男三人女一人、ジャックは家賃を滞納してしまっていて、その穴埋めに、他の三人にこれから書く小説の印税を四等分して支払うという契約をしてしまう。そして追い詰められて書いたB級ホラー小説『死者の手はあなたを愛する』がヒットして、シリーズ化したり映画化したりして老年を迎える。ジャックが老人になるまで、人生最大のヒット作はその学生時代の『死者の手は…』で、結局他の三人に一生印税を払い続けているのである。しかもその相手のうち女性一人イレーナのことを学生時代、小説を書いていた時は熱烈に愛していたり性的関係をもったりしていて、他の2人を恋のライバル視して勝手に嫉妬していて、その関係をホラー小説内にそのまま持ち込んで書いてしまっていたのですごく気まずい。イレーナとはその後別れてしまって、気まずい関係のまま老人に四人ともなっている。

 ここで、「男性と女性、恋愛、性的関係、別れ、浮気」みたいなところに注目しがちなんだけれど、こちらでも小説家ジャックが出て来て、こっちは「B級ホラー作家」というところに注目してね。

 3連作では女性小説家コンスタンは三流とバカにされるファンタジー小説を若い時に大ヒットさせて、シリーズ化し、ゲーム化もされて大成功している。
 +1では、ジャックは若い時に書いた小説でB級ホラー作家としてそこそこ成功し、その後、自ら脚本を書いて、『死者の手は…』は二回も映画化されている。

 二人とも、どちらも若い時に必要に駆られて苦し紛れのように書いたB級ジャンルのエンタメ作家としてそこそこ成功し、人生を延々、そのシリーズ化、あるいは資産でくいつなぎ(若い時のその作品を超える。それに代わる代表作はその後無い。)老人になっているのだな。

 二人の周りには、ファンタジーやホラーをB級ジャンルとしてバカにする純文学、アーティストの人たちが出て来て、いろいろシェークスピアだのカフカだのテニスンだのなんかいろいろ古典詩人をすぐ暗唱引用する。そういう純文学の人に囲まれて、バカにされつつ、でも本当に世間で売れる、自分でも納得できるすごいものが書けたのは、若き日の、必要に駆られて書いたB級ジャンルの小説で、そしてそれを、その世界を、主人公は愛しているのだな。

 でね、アトウッドの話に戻る。僕はアトウッド小説を読むのはこれで4作目だし研究者でも学者でも特にファンでもないから、ここから書くことはにわかの思いつきとして読んでね。目くじら立てないでね。

 コンスタントとジャックは、女と男である。小説家としての境遇が似ている主人公を男女両方で立てている。

 だから、アトウッドは、この場合、「女性」という性別に共感しているというよりも、「B級」と周囲から見られつつ、その世界で一生懸命、小説を書き続けてきたコンスタンやジャックの共通の境遇に共感して、この3連作+1を書いていると、僕は思うのだな。

 ここが論点の中核。

 アトウッドは1986年に書いた『侍女の物語』純文学のディストピア小説としてブッカー賞を受賞したわけだけれど、この小説、同時にアーサーCクラーク賞も受賞していて「SF小説」としても評価されたんだな。

 「真面目な政治的意味の深いディストピア純文学」であると同時に、「近未来SFであり、連続テレビドラマシリーズ化を延々されるエンタメ小説でもある」二面性を持つ大ヒット出世作『侍女の物語』で世に出て、その『侍女の物語』が代表作である状態で、作家としての長い人生を歩んできた人なんだと思う。アトウッドは、純文学作家だったり詩人としての成功と、SF作家エンタメ作家としての成功と、両面を体験してきたのだと思う。

 で、この本の帯でも《『侍女の物語』の著者が放つ》って編集者が売るためには書いちゃうように、若き日の代表作を世間的評価では超えられていないという状況もアトウッドは見方によっては持っている。今回の小説内の二人のB級ジャンル小説家と重なる境遇とも言えちゃう。

 もちろんほんとのアトウッドの生きてきた境遇は、ものすごくいろんなジャンルで世界的に評価されていろんな賞を取りまくり、ノーベル賞最有力候補の人にになっているわけで、そういう意味では、本作二人の主人公達とは違う。

 でもね、アトウッドの自意識の中でのある部分=「若いときの切羽詰まった自分と周囲を投影させたエンタメ小説が代表作であり続けた作家」というのを取り出して、煮詰めて造形したのが、コンスタンとジャック、ということなのかもしれないなあと思うのである。

 実際、『侍女の物語』続編の『誓願』についての感想文でも書いたのだが、この続編の方の『誓願』、どう読んでも、大冒険アクション活劇SFで、テレビドラマの方の名称としては『ハウスメイズ・テイル』侍女の物語のシーズン5か6まで続くテレビドラマシリーズになっている。「SF活劇シリーズ」ドラマ、『24』のライバルみたいな感じである。
 つまり、「純文学」としても評価されたんだけれど、「未来ディストピア活劇エンターテイメント」としてテレビドラマシリーズ化する、みたいな経験をしたことが、そういう「エンターテイメント原作としての小説家」という立場への理解と共感みたいなこととして、最近のアトウッドには蓄積しているんだと思うのだな。そっちの人格、役割の方の比率が濃くなったり、親しみ愛着を感じていたりするのではないかと推察してしまうのである。

 で、そうなると、「エンタメ作家」の置かれている「差別される立ち位置」について、より共感的に書きたくなっているのではないかなあ。

 それはいわば「男性に対する女性」と同じように、「下に見られて軽く扱われる」けれど、そこにはその世界、その立場なりの楽しさとプロ意識と存在価値がある。

 アトウッドは「純文学的教養のお高く留まった世界」(すぐに古典の一節を引用する人物がたくさん登場する)と、ゲームや映画でビジネス化され大きな収入をもたらし、オタクで熱狂的なファンに崇拝されつつ、世間からは一段低い存在と見なされるB級ファンタジーやホラーの世界の両方に足を置いて、この小説群を書いている。そしてこの小説群自体が、その両側に足を置いて自由に巧みに重心移動をする振れ幅を持っていると思うのである。

 男性-女性、という軸にだけで、女性を虐げられた存在として、その抵抗する姿を描き出せば、それは「フェミニズム」小説だけれど。

 でも男女両方の生涯「エンタメ作家」を主人公にし、それが世間や「純文学」の人に軽く扱われてきたことを書くならば、それは文学ジャンル間の差別の構造、ヒエラルキーをめぐる小説になる。「男女」の問題だけが対立軸なわけではない。

 実際、この短編小説群ではたくさんの男女両方が、語り手・視点人物として出て来て、男女どちらが語り手の時でも、アトウッドはとても上手に語り手の心の動きに寄り添って書いていく。男性だから批判的に滑稽にこき下ろし、女性だから共感、擁護するというような男女差別をしていないと思う。

 必ずしも男性だけが「性的欲望で暴走」したり「容姿体形で異性をあからさまに評価」したりするわけではない、女性もそういうことを露骨にするし、老人女性になるとそういうことを内心の発話では、あるいは近しい人との会話では、平気で丸出しにしちゃう。それをアトウッドは、抱腹絶倒のユーモラスな表現で書きまくるのである。いやここらあたりの下品ダイレクトな書きっぷり、これはもうすごい。爆笑だから。

 女性同士でも、ライバルや自分と年齢や境遇の違う相手には、ひどく辛辣なことを思ったり言ったりするし。

 確かに、『岩のマットレス』など、女性が若い時、深刻に男性に性的に暴力や差別や不当な扱いを受けたことについて、老いた今、告発し復讐しようとするという筋はたしかに太くあるから、「フェミニズム視点をエンタメ小説化している」と言えるものもある。

 あるいは解説で鴻巣氏が細かに分析指摘しているように、どの小説でも、一見仲良くしている男女関係、夫婦関係の中にも、男性のモラハラ、ミソジニー、そういうことが漂ってくる場面描写はたくさんある。見つけようと思えばたくさんある。

 しかし、アトウッドは、この小説群を、男女の対立としてだけ描こうとはしていないよなあ、と思うのである。

 「純文学とエンタメ小説」のような形でも差別や不当な扱いはたくさんあるし、容姿や収入や性的魅力の有無で露骨に扱いを変えるのは女性が男性に対しても強烈に行うし、同性間でもあるし。

 それに、男女以上に深刻な対立としての若い世代と老人の間を、最終『老いぼれを燃やせ』で書くわけである。

 そしてその中で、若い人たちが老人を燃やしてしまおうとするならば、老いた男女は身を寄せ合ってそれから逃れないといけないし。そして男女が身を寄せ合うには、老いた女性主人公は、老いた男性の「老いても異性を求める」哀れな男性の本能・心理を、当然のように利用し、そして頼るのである。そのことをそんなに批判的に書いていないと思う。男性についても女性についても。「人間ってそういうものだって。老いると、ますますそういうことが丸出しになるよね」みたいな感じである。
 老いた男性登場人物が、かつての恋人の胸やお尻や太ももをやたらと思い出すのと同様、老いた女性主人公は、かつての恋人のあそこがいかに立派だったかを露骨に思い出したりするのである。

 というわけで、フェミニズムという軸にのみ重心を置いて、この短編集は読まなくてもいいと思うのだな。
 あるいは、政治的な「ディストピア小説」としての生真面目さが書かれているという前提で、この小説群を読む必要は全然ないと思うのだよな。

 むしろ「若い時に自分が必要に迫られてやむにやまれず書いた『侍女の物語』が、人生最大のヒット作になり、エンタテイメントとしてもシリーズ化した」小説家アトウッドとして、老年を迎え、そういう境遇の老作家として「エンタメと純文学の間を、楽しく行き来できる」ということを存分に発揮した小説群だと思うのだな。

老い=和解の物語として

 老いを迎えての、ある種の様々な対立や差別やヒエラルキーに対する和解、が描かれている作品も多いのである。

 「3連作+1」を中心に論じたい、と思ったのは、この四篇には、特に、そういう、若い時は鋭く対立し、諍い争いのもとになり、人生を長い期間、傷つけてきたことに対する、老いての、和解の物語であると感じたからなのである。

 たしかにこの本、アトウッドの「辛辣なユーモア」が最大の面白さだけれど、最後に訪れる、老いの境地のその「和解」の味わいある四篇、いいなあと思ったのである。

(こんなことを老いた男性が書くと、フェミニズム批評の視点から「男性中心主義の老人が、そのように自分に都合のいいようにこれら小説を読むこと自体、許しがたい」と怒られてしまうのである。ごめんなさいね。)


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