『骨を引き上げろ』 ジェスミン・ウォード (著), 石川由美子 (訳) 僕はアメリカの現代文学が苦手なんだよなあ、という苦手意識をぶっ飛んだ。人物も、家の内外の空間も、自然も、犬までも、すべてが生きて動いている。小説内のすべてが生きている。
『骨を引き上げろ』単行本 – 2021/9/2
ジェスミン・ウォード (著), 石川由美子 (翻訳)
Amazon内容紹介
「全米図書賞受賞作!子を宿した15 歳の少女エシュと、南部の過酷な社会環境に立ち向かうその家族たち、仲間たち。そして彼らの運命を一変させる、あの巨大ハリケーンの襲来。フォークナーの再来との呼び声も高い、現代アメリカ文学最重要の作家による神話のごとき傑作。
「登場人物の内なるパッションとメキシコ湾で刻々と勢力を増す自然の脅威が絡まり合い、廃品と鶏に囲まれて暮らす貧しき人々のまっすぐな生き様の中に、古典悲劇にも通じる愛と執着と絶望がいっさいの気取りを排した形で浮かび上がる」――「ワシントン・ポスト」
「カトリーナによりもたらされた破壊と、すべてを洗い流された海辺の街の原初の風景について、本書は水没したニューオーリンズの映像よりもはるかに多くを教えてくれる」――「ニューヨーカー」
「ウォードの堂々たる語りには、フォークナーを想起させるものがある。今日的な若者言葉と神話的な呪文のリズムの間を自由に行き来し、パッションの発露を怖れない。苛烈な物語のほぼ全編に、パッションが満ちあふれている」――「パリ・レビュー」」
ここから僕の感想意見。
この作者の次作最新作『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』が各種書評で話題で、買って読もうとした、まさにそのときに読書師匠しむちょんが、この二作は連作で、こっちから読まないとだめよ、と教えてくれたのである。
ぎりぎりセーフ。しむちょん、ありがとう。
二作連続して全米図書賞というのもめったにないすごいことなのだが、この一作目はハリケーン・カトリーヌに襲われる黒人家族の物語なんだけれど、当然ハリケーンの襲来にクライマックスはあるといえばあるのだが、いやいやハリケーンが来る前から、この家族のおかれている状況、それぞれの人物造形、そこからもう、ぐいぐい読ませる。引き込まれます。
(なんか、最近だと「黒人」と言っちゃだめで、アフリカ系アメリカ人とか書かなきゃいけないのかとか、いろいろ考えてしまうが、ここでは黒人と書いておく。なぜかというとそれは、主人公の暮らすコミュニティが白人と分け隔てられていることはどうしたって「肌の色」が大きな要素で、「肌の色」ということについても、話者である主人公少女エシュは、父、母、兄二人、弟、兄の仲間友人たちそれぞれの肌の色についても、その微妙な色合いについて、細かに繊細に描写する。この小説の中で「アフリカ系」という「ポリティカルコレクトネスに配慮した知的階級的言い方」は一度も出てこず、その代わりに主人公は、単純に「黒い」と言うのではなく、彼女の暮らすコミュニティの中では、いや、家族の中でも、肌の色にとても繊細な違いを感じている、そのことが繰り返し書かれているからなんだな。いや肌の色だけではなく、背の高さ筋肉のつき方、目の色、髪の色や髪の質、そういうことをとても繊細に描写する。そのことの重要性というのは、彼女にとって、アメリカの、主人公や作者が生きる社会の人たちにとって、どういう意味や重要性があるのか、その本当の深い意味は僕にはよく分からない。意味はわからないけれど、とにかくすごくいきいきと、彼女の生きる世界と人物たちが感じられる小説なのである。このコミュニティを指すときに「アフリカ系アメリカ人の」と書くのと「黒人の」と書くのと、政治的正しさという視点というより、この小説への誠実さとして、「黒人コミュニティ」とか「黒人家族」と書いた方が、それは正しい感じがしたのである。なので「黒人」という言葉を、この文章では、あるいはこの作家の小説について書くときには、使おうと思います。)
アメリカの現代小説、特に黒人のおかれている状況を描く小説と言うのは、なんというか、難しいのだよな、日本人にとって。映画『ムーンライト』なんかもそうだったけれど、あれ、白人が全然出てこなくて、黒人のコミュニティの中だけを描くのだけれど、その中のとても繊細で微妙なあれこれが描きこまれている。そのうえで、その外側に米国社会全体があって、その米国社会のいろいろな問題が、黒人コミュニティの中の文化や問題に反映している。と言って、人種差別それ自体を直接的にテーマにしているわけではなくて、主人公が生きているコミュニティ、その生活文化の中で、人生は続いていくし、ドラマは起きるわけだ。そこに過剰に「人種差別」とか「アメリカ社会の病理」だとかを読み取ろうという意識が強すぎると、小説に描かれている、もっと豊かなもの、Amazon作品紹介でいう「神話的な」豊かさを読み落とす。この小説、もう本当に登場する人だけじゃなく、犬たちまで魅力的なのである。(兄の1人が愛し育てている闘犬チャイナは、この小説の超重要な主人公の1人、というか一匹なのである。)
政治的な問題のあれこれを無視してもいけないけれど、すべてをそこにひきつけて読もうとすると、文学の、小説の内包する豊かさを読み損ねる。読書師匠しむちょんのあとをくっついて歩きつつも、僕がアメリカ現代文学がちょいと苦手なのは、そこのところをうまく整理できていないせいだと思うのだが、この小説については、そういう読む側の迷いを吹き飛ばすパワーが、小説自体にありました。
主人公の少女エシュは、小説の進行中、ずっとギリシャ神話、王女メディアの本を読み続けている。過酷な、かなり貧しい生活の中でも、ひたすら読書する少女というのは、作者の分身的な投影なのかなと思う。このメディアという王女はめちゃくちゃに愛情深すぎて破壊的な振る舞いに出る、いかにもギリシャ神話なはちゃめちゃな人なのである。ハリケーンカトリーヌと、闘犬チャイナ(雌犬で、小説冒頭はその出産シーンからはじまる)と、ギリシャ神話の王女メディナという、非常に暴力的というか破壊的なパワーを持つ「女神」的存在三者が主人公少女エシュを取り巻いているのである。男性中心主義が色濃く残るアメリカ南部の貧しい黒人コミュニティの中で、彼女が成長し自立していく、女性小説でもあるのだよな。
では、次『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』に読み進むことにします。