『黒い匣 (はこ) 密室の権力者たちが狂わせる世界の運命――元財相バルファキスが語る「ギリシャの春」鎮圧の深層』ヤニス バルファキス (著) シェークスピア的人間の深淵を覗き見る文学として。
『黒い匣 (はこ) 密室の権力者たちが狂わせる世界の運命――元財相バルファキスが語る「ギリシャの春」鎮圧の深層 』
ヤニス バルファキス (著),
朴勝俊、山崎一郎、 加志村拓、青木崇、長谷川羽衣子、松尾匡 (訳)
Amazon内容紹介
本の帯に紹介されている書評
ここから僕の感想
戦争が始まって、毎日、終日、テレビのニュースを見て、ネットの記事を読んではnoteを書いていたので、読書時間は限られ、この本はちょうど戦争が始まったころ読み始めたので、50日もかかってしまった。毎日1時間読んでいたので、50時間もかかった。500ページの本なので、1日10頁しか進まなかったのか。とほほのほ。
政治家の回顧録というものを、いままで読んだことが無かった。カエサルの『ガリア戦記』もチャーチルの『第二次世界大戦』も『わが人生』も読んでいない。しかし、この本は。政治家の回顧録というものが、なぜ世界文学の一ジャンルとして成立しているのか、ということの意味を思い知った。というのはどういうことかについて、ここでは書いていきたい。それ以外にも、今回の戦争で僕も初めていろいろ興味を持った、EUという組織の中の、各国の力学とか。そしてまた「緊縮・反緊縮」をめぐる、これは日本国内の政治課題としても重たい問題への示唆を読み解く素材としても、様々に読めるわけだが。(この本の翻訳陣も、日本における反緊縮派の知識人が総動員、と言う感じで、解説も松尾匡氏がその視点から書いている。)
しかし、今回、このnoteでは、ひとまず、「政治家の回顧録が文学である、というのはどういうことか」という切り口で書いていく。
読み終えて、改めて序文を読み返すと。
序文でバルファキスが書いていることが、読み終えて、なるほどと納得できたので、その序文を抜粋しながら紹介。この本が何について書かれた本であるかを、実にうまくまとめている。
物語は、初め、悪玉善玉がはっきり分かれた設定でスタートする。
悪玉は、まず、前政権の首脳たち、そして欧州中央銀行ECB、IMF、EUの財務大臣たちによる作業部会「ユーログループ」とその実働部隊の官僚たち。ECB、IMF、EUの三者=トロイカ絶対権力が悪の帝国なわけである。ギリシャの貧しい民衆から、仕事も年金も奪い、税金を上げろと迫り、公的資産もすべて売却させて借金を取り上げようとする。彼らが押し付ける解決策を呑め。飲んだら、また金を貸してやるぞ。それを唯々諾々と受けるだけの現政権。しかも悪質なのは、ギリシャの中の富裕層・既得権益者たちは、脱税、汚職に染まりこの仕組みの中で甘い汁を吸い続けている。ECB、IMFは様々な仕組みで、本当はもう破綻しているギリシャに融資、追い貸しをしては、その返済を手にすることで、利益を上げ続ける。EUの中心、ドイツは、経済的に弱い国々を借金漬けにして、ドイツの言うことを聞くしかない隷属的な国にして支配する。イタリアもスペインもアイルランドも東欧諸国もそういう「借金で奴隷状態」の国になっている。実はフランスさえもそう。ドイツとベネルクス三国と北欧などの富裕な国が、貧しい国を経済的に支配する体制がEUであることが描かれる。
それに対して立ち向かう、正義の側として、左翼政党シリザの、アレクシス・チプラス党首とその盟友ニコス・パパス、この二人が、アメリカの大学で教えていた経済学者である筆者、ヤニス・バルファキスを財務大臣候補として、同志として迎える。
実は、シリザは「グレクジット」、EUからの離脱を主張するのが主流派だったのだが、チプラス、パパスは、EUに残りつつ、ギリシャを債務地獄から抜け出すことを目指し、それを主張するバルファキスを財務大臣候補に迎えて、総選挙に臨もうとしていた。
政権奪取をして、トロイカと交渉して、債務を整理し、経済成長に向かう解決策・改革プランを作る。既得権益者からは税金を取りたてるが、貧しい人には減税をする。EUに留まりその中でギリシャを立て直す。前政権のように借金漬けの自国にハマり続けることは拒否する。トロイカにnoと言う。こうした公約を掲げて、シリザは選挙に勝つ。バルファキスは国会議員にならず学者の民間人大臣になるという選択肢もあったのだが、国民からの負託を得て大臣になりたいと、何の地盤も組織もなく選挙に出るが、見事に当選して財務大臣になる。シリザの党員とはならず、そことは距離を置いて、自らの信念に従って、トロイカと対決しようとする。アレクシス首相の信頼だけが頼りなのである。
この組閣のあたりから、シリザの中も一枚岩ではなく、トロイカに協力というか服従屈服したがる者から、すぐにグレクジットを志向する左派まで温度差があることがわかってくる。しかし、バルファキスは、アレクシス・チプラスを信じ、また自分の学者時代からの盟友を閣僚に加えてもらったり、スタッフに迎えたりして、トロイカとの対決に向かっていく。
結末として、バルファキスが政権の中で孤立し、トロイカとの対決にも敗れて辞任することはわかっているのである。いったい、誰が政権の中でバルファキスを裏切るのか。どんな経緯で孤立していくのか。初めにあれほど深く信頼していたアレクシス首相との関係は、どうして崩れてしまうのか。
また、初めは「全員悪役」に見えたトロイカ側の人間の中にも、まさにシェイクスピアの悲劇の登場人物のような複雑さを次第に見せていく人物が出てくる。その最たるものは、EUのユーログループを牛耳る、ドイツの財務大臣、ジョイブレ。しかし、その後ろにはアンゲラ・メルケルが。初めはジョイブレが、ダースベーダみたいな悪の権化で、それと戦うには、メルケルを説得しなければ、となるのだが。スターウォーズが進むにつれ、ダースベーダにも人間としての感情も歴史もあることが分かってくるように、ジョイブレの描き方も終盤に行くにつれ変化していく。
アメリカの人たちと言うのは、これはかなり幅広く、バルファキスを支援してくれる。学者ではジェイミー・ガルプレイスやジェフリー・サックスが、きわめて深く知運協力してくれるだけでなく、あのバーニー・サンタ――スも、何度も強力な支援の策を講じてくれる。全く反対側にいそうなラリー・サマーズ元・財務長官も、バルファキスを応援してくれる。バラク・オバマ大統領まで登場する。このあたりは、なんでなのかな、と思うが、直接利害が薄い場合は、「論理的に正しいことを素直に応援してくれる」感じなのかもしれない。
欧州の政治家の中で、いちばん味方になってくれるのが、今、まさに大統領選を戦っているエマニュエル・マクロンで、当時は経済相だったのである。ちなみに、割と悪役度高く登場するECB総裁のマリオ・ドラギは現在、イタリアの首相である。本当に、欧州のトップの中のトップの人たちと、ついちょっと前まで一回の経済学者だったバルファキスは、協力をお願いしたり交渉したり戦ったりするのである。
初めは善悪敵味方がはっきりしている戦いと思われたものが、次第に混沌としていき、味方だと思っていた者が、どんどん敵と手を結んだり、屈服したりしていく。敵と思っていた人物が、ときどき、理解を示したり、人間的な一面を見せたりする。
「凡人」の中でもわりと最悪なのが、各国の社民勢力の要人たち。会議の前の根回しで、会食をしたり、個別に話したりするとバルファキスの示す解決策に、全面的に賛成してくれて、素晴らしい、言う通りだ、と絶賛するくせに、ユーログループの会議の場になったり、記者会見になったりすると、態度が豹変する。ジョイブレの顔色を窺い、無言になったり、全く支持しないような発言をする。「ドイツに借金していて弱みを握られていて、ギリシャのように責められたくない」ということなのである。全く頼りにならない。
政権を取ってすぐ、何千億円という単位の借金の期限が次々に押し寄せてくる。それを、どうやって払うか。伸ばしてもらうか。すぐにも銀行取り付け騒ぎが起きそうになるのをどう防ぐか。かといって、トロイカの要求を呑んだら、さらなる地獄が待っている。トロイかに、新しい改革プランを認めさせ、債務整理を受け入れさせることはできるのか。バルファキスはありとあらゆるアイデアと行動力と交渉で、なんとかこの解決しようと奮闘するが。途中では、中国とだって国債を買い入れてくれ、その代わりに港湾の運営権を売るから、と言うような交渉もするのである。
もう、結末は分かっているわけなのだが。敵が、トロイカがわからんちんなのは初めからだから仕方がないが。なぜ、政権内部が、腰砕けになっていくのか。なぜバルファキスを悪者にしていくのか。読んでいて、もう最後の方ははらわた煮えくりかえり状態なのだが、たしかに、これは、バルファキスをが言う通り、悲劇に向かってすべての登場人物が不可避的に進んでいく、「悲劇」なのだ。そういう文学なのだ。そう思わないと、とても読み進められないのである。なぜこの人は。なぜこの人まで。
この本、主要登場人物の顔写真が、ところどころに挿入されている。バルファキスから見た、その人物の捉え方、印象にふさわしい写真が選ばれているのである。誠実な人は誠実そうに。融通の利かないやつは、いかにもそういう表情の写真が。しかし、物語の展開ともに印象が変わる人物の写真というのは、何度も見返すたびに、うーん。そうなのか。なんか、悲しい気持ちになる。
ひとり、最終盤の方で、どんどん重要人物になっていく人がいて、「あれ、この人、どんな顔だっけ」と写真を探したが、出てこない。あれれ、と思って、Wikipediaで検索しても、何にも出てこない。その人の初登場シーンを読み直して経歴を見てみると、なるほど、普通の意味で、政治家ではない。
人間の複雑さ。それが組み合わさって、悲劇につながる。大人物もそうだが、ドラマの中で、一瞬、すごく重要な役割を果たして消えていく人物というのもいるのだよな。
そんなところも含めて、政治家の回顧録というのは、なんというか、文学なのでした。第一級の。必読。読むの大変だけど、必読です。
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