指示の裏側を想像する
仕事とは一定の質を決めて担保し、それを安定的して出力することである。
偶然の成功は仕事ではない。再現性のないものは仕事ではない。それらは確かに成果を作り上げたことに違いはないが、仕事を作り上げたことにはならない。
仕事の質とはひとえにプロセスの質である。
美しいプロセスからは美しいアウトプットが生み出され続ける。
プロセスを設計することこそ究極の仕事の姿であり、消費者と生産者を隔てる境界線である。
わたしの仕事にも数多くの既存のプロセスが存在する。それらは指南書であったりマニュアルであったり、はたまた無形の暗黙知的に存在するものであったりする。
決められた時間までに決められた方法で決められた場所にいること。決められた手順で決められたボタンを押し、それによって出てくる何かを決められた場所に納めること。それらはすべて、元は誰かが決めたものであり、設計されたプロセスに従っているに過ぎない。決められた通りに選択肢が提示され、決められた通りに裕福になったり貧乏になったり、決められた通り死ねば決められた通りに処理される。
誰もが同じように悩む手間を省き、従わせ、一定の方向に誘導する。
それらはすべて誰かの仕事によって設計されている。
プロセスを決めるのは簡単ではない。
決して複雑なプロセスでなかったとしても、何もないところに枠を作ろうとすることには多大な思考コストを要する。真っ白の紙に絵をかくときに、構図から線の太さから下書きから、全体の色味やコンセプトまですべて明確に設定することは並大抵の労力ではない。普通にできることの方が特異なことで、さらに習得するまでいこうとすれば誰もができることではない。
しかし現代のわたしたちはプロセスが決められていることに慣れてしまっているので、平気でそれを求めてしまう。当然のように指示が与えられて当然と思ってしまう。
なんなら、あいつの指示は適当だとか、あいつはわかっていないとか、贅沢にも多くを望んでしまう。
その方が楽だからだ。自分が考えなくて済むように、無意識に相手に依存して委ねようと考えてしまう。
ただ一歩引いて考えてみてほしい。
わたしは誰かに指示をするときに、的確に意図を伝えられるか。なぜそのプロセスが必要なのかを直感的に理解させられるか。
それは不可能だ。わたしの思考を完全に言語やチャートで表すことなどできないのだから、何らかで表現した瞬間にそれはある側面だけを切り取ったモノに変換されてしまう。
世の中の既存のプロセスも、所詮はそのようなものであるはずだ。
指示は指示通りに受け取ってはいけない。
その心に思いを馳せ、完成形を相互に補完し合わなくてはならない。
指示を受けるだけ、指示をされるだけというのは何とも贅沢で、傲慢な態度であるということを自覚しなくてはならない。
既に設計されたプロセスの裏側に回り込める者だけが、次のプロセスを設計する側に進むことができるのだ。