長年『自分を名前呼びする女』をやってきたけれど、という話。
ぴろろさんのこちらの記事で、「一人称が名前の女子は自己肯定感高い」とあるのを見て、確かにそういうイメージある!と思う反面、でも実は私も、アラサーになるまでほぼずっと、プライベートでは自分を名前呼びしていたので、何故そうなっていたのか、私の例を書こうと思う。
なお私は毒親育ちのデフォルトとして、自己肯定感は低め……だと思うので、恐らくぴろろさんの「羨ましい」対象の範囲とは異なるのだが、こういう経緯で「名前呼び」になっていたパターンもあるよ、という話として聞いて頂ければ幸いだ。
まず最初の私の一人称は、名前呼びでスタートした。
これは単なる幼児あるあるである。幼稚園は一年だけ公立に通っていたのだが、そこで「私」へとアップデートする教育が行われなかったのだろう。
周囲の子たちの中には「私」の子も既にいたはずだが、私は全く気に留めなかったか、気付かなかったのだと思う。何の疑問も持たないまま、私は小学校へ入学した。
そして小学校の教室で、私は「私」という一人称が、書き言葉だけでなく、世の女性の口語表現のスタンダードでもある、ということを知った。
変えた方が良いのだろうか。そう思って母に相談すると、一人称が「ママ」だった母は「ママもずっと、自分を○○子と名前で呼んでいた」と述べた。そして、「無理に変える必要はないが、授業中には『私』を使っておくように」と指示した。
ここで、私と母の関係性における毒が効力を発揮する。
私はこの時の母のコメントを、「母の前では名前呼びを継続しておいた方が良い」と解釈した。
母が、名前呼びを肯定する感想だけを述べて、「私」にすべきだと言わないということは、「私呼び」を推奨はしていないということだ。「母と同じ」であるために、また母の望む「子供らしさ」を維持するために、名前呼びの方が無難だろう――と、私はそんな風に判断した。
同時に、自分が「女の子だから」一人称を「私」にせねばならない、ということへの反発もあった。
母は、私を「可愛らしい女の子」として飾ることに熱心だった。「女の子なんだから」という理由で、私は服装について非常に細かい注意をしょっちゅう受けていたし、毎日のように叱られていた。髪を短くしたい、スカートを履きたくない、汚しても構わない服を着たい、そういった種類の要望をすべて却下されていた私は、「自分が男の子だったら、こんなことで叱られずに済んだのに」という想いを拭えなかったし、これ以上「女の子らしく」などなりたくなかった。
当時小1だった私にとって、「私」という一人称は「女の子らしさ」の象徴のように感じたのである。
そして、私の名前は音だけで言うと中性的だった。
これは私が生まれる前のエコー診断で、男児と誤診されていたためらしい。母はこの話がお気に入りで、「男の子だってお医者さんに言われたからこの名前を考えた、赤ちゃん用品も水色でそろえた」と繰り返し語っていた。
一人称を「僕」や「俺」にすることは流石に出来ないにせよ、名前呼びならば許される。男になりたかったとまではいわないが、とにかく「女の子」であることが嫌だった私は、「私」よりも「名前呼び」の方が、女の子っぽくないという意味で、好ましいような気がした。
そうした理由で、私は学校の授業中や作文などでは「私」、それ以外では「名前呼び」で小学校時代を過ごしていた。
とはいえ、自分を名前呼びしている子は、学年が上がる度に明らかに減っていく。小学校高学年になって、流石に周囲の目が気になり始めたものの、「私」の採用に踏み切れずにいた私に、救世主が現れた。
一人称「うち」の流行である。
これは素晴らしい、と私は飛びつき、友人との会話では「うち」と自分を呼ぶようにした。
私の地元はガッツリ関東で、関西でのニュアンスは分からない。だが分からないからこそ、固定的なイメージのない「うち」は非常に使いやすく、周囲の子も大半が「うち」になっていたので、見事に集団で目立たなくなることが出来た。
そうして私は、母との会話がある自宅では「名前呼び」、オフィシャルな場では「私」、友人との会話では「うち」の3種類を使い分けながら、長年過ごした。
恋人との間では、交際を開始した時点で「実は家では名前呼びしてて」とカミングアウトし、相手の反応を見てどの一人称で接するか決めた。――が、私が付き合った相手は全員名前呼びに抵抗がなく、むしろ好意的な反応を示したため、恋人との間も一人称は結果的に「名前呼び」になっていた。
とはいえ、である。
思春期を通過し、20代も過ぎかけてくると、流石の私も考える。
アラサーともなって、プライベートだけとはいえ、名前呼びはいかがなものか、と。
そして私は、後に夫となる彼と付き合い始めた時に、一人称についてのカミングアウトを行わず、「うち」と「私」を混合した状態で話し続ける選択をした。その余波として、出産後に同居を始めた両親との会話でも、一人称を「私」にじわじわと変えていった。
これには若干の勇気が要ったが、結婚・出産というイベントを挟んだためか、母からは特に何もコメントがなかった。
「母の子供」であるという表示を兼ねていた「名前呼び」から、「母と対等の人間」であるという表示を兼ねた「私」へ。
私にとって一人称の変更はそういう意味を含んでいたが、母は恐らく、特にそうは受け止めなかった。単なる私の独り相撲だったのだろう。
そして、結婚や出産というイベントを経た私は、「私」という一人称を常時使えるぐらいには、自分が女であることを受け入れられるようになったのだと思う。
大人の目線で言うならば、「私」は男性も標準的に使う一人称である。
だが、私は「私」という一人称を使う時、どうしても「女性である自分」を意識してしまう。恐らく私のジェンダー観として、そこが固定されてしまっているのだろう。
私が過去に書いていた詩や歌詞などでの一人称は、8割以上が「僕」だ。音の数の兼ね合いや、表現として女性性が必要な場合は別だが、特に問題がない場合、私は一人称として「僕」を好んで使う節がある。
そして、私の思考の中での一人称は、「僕」でも「私」でも「名前呼び」でもなく、はるか昔から「自分」か、主語を省略した形だ。
この辺り、何らかのLGBT的な――「表現したい性」が中性か男性に寄っているのかもしれない、と思わなくもない。私の体は(そこそこ不本意ではあるが、明白な事実として)女で、性自認は(これも体に準じて仕方なくだが)女性で、恋愛対象も(これは躊躇なくハッキリと)男性なのだが。
息子の成長に従い、私の一人称には「ママ」が増えた。
現在の私の一人称は、一日の大半が「ママ」、シーンによって「私」、ごく稀に友人と連絡を取るときは「うち」の3種類となっていて、名前呼びはほぼしなくなっている。逆に名前呼びの方には違和感があるように感じるので、そこは恐らく完全に卒業できたのだろう。
だが、今もこうしてnoteを書いていたり、声として「私」を使う時、若干の硬さや不自然さを感じる。これはまだイマイチ使い慣れていないからなのか、それとも女性的なイメージを「渋々受け入れているから」なのか。
自分でもよく分からないが、この先10年、20年と「私」を使い続けていれば、その内馴染むのかもしれない。
どうあれ、私のような人間を作らずに済む、男女の性差が「私」よりも更に少ないような一人称が、日本語にもいつか出来てくれると良いなぁ、とこっそり思っている。
英語なら全部「I」で済んで便利なのに。ただ十分に一人称の多い日本語で、これ以上一人称が増えるのも難解すぎるから、そういう意味で「吾」とか「我」って良いなと思う。口語表現でもメジャーになってくれないもんだろうか。
……いや。それはそれでアレだな。
「ただいまー!我、おやつ食べたいー!」
「○○ちゃんが吾のノートに落書きした!!」
なんて小学生が喋り出したら怖い。失礼、やっぱり取り消しておきます。