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私が書けなくなった頃、の話。

私は昔から、アホのように大量に書き続ける時期と、全く何も書かない時期を繰り返す人間である。(この場合の「書く」は創作的な意味であって、仕事や勉強などの事務的な「書く」とは別である。念のため)
何故かは自分でもよく分からない。魂の底から怒涛のように噴出する何かを、書く事でしか処理できない時期があって、その期間中はもう文字通りの意味で寝食も忘れて書き続ける。数か月~長くて1年ほど書いていると徐々にその衝動は落ち着いてきて、穏やかな習慣として書くようになり、やがて興味が他に移るのだろう、忙しいとか時間が取れないといった理由を付けて、緩やかに書く事から離れていく。例えば最近の私の状態がそれである。

この場合の「書かない」は単純に私の選択というか興味の方向の話なので、その気になれば(このように)いつでも書く事は可能だし、書く事が嫌になったりしている訳では全くない。飢餓状態で食べ物にありついて、一心不乱に食べまくった後、ふと満腹になりつつある事に気付いて食べるのをやめる、そんな感覚に近い。そしてしばらく経つとまた「飢える」ので、再び恐ろしい勢いで書き始めるのだ。思春期以降の私は、数年おきにそんな事を繰り返しながら生きている。

だが、そんなループの中で二回ほど、「書かない」ではなく本当に「書けない」になった時期があった。
noteでの話ではない。一度はアラサー独身時代、不安障害を発症しての休職中にボーカロイドの歌詞を書いていた時期。もう一度は流産した時期の前後、育児うつの隙間に「なろう」で小説を連載していた時期だ。どちらも原因ははっきりしている。

ボカロ歌詞屋時代の方は、好き勝手に歌詞を書いて応募していた頃は良かったのだが、作曲者から依頼を受けて受注生産スタイルでの作詞を始めた途端、ダメ出し・リライトが延々続いてすっかり嫌気が差してしまった。自分ではめちゃくちゃ良い感じにハマった!と思った歌詞を、「なんかしっくりこないんですよね。英語に出来ません?」などと雑な感想と共に突き返されて、5回も書き直した挙句に「最初よりは良くなったかな」なんて言われることを繰り返し、しかも言っちゃなんだが完全にタダの仕事で、量もアルバム2枚分、確か25曲ぐらいあった。ボカロ歌詞を書き始めた頃からタッグを組んできた、めちゃくちゃ好みの曲を作る作曲者さんが相手だったし、引き受けた以上はと、何とかかんとか最後までやり切ったものの、やればやるほどやる気がダダ下がりになっていった当時の私を責める人はいないだろう。いたとしても今の私が許す。それはもう自然の摂理である。

なろう小説の方は、読者さんからのコメントでストーリーへの要望が続き、それらを取り入れ続けている内に、そもそも何が書きたかったのか分からなくなったのが原因だ。当時書いていた小説はいわゆる逆ハーレムもので(全年齢です念のため)、ラストで主人公とくっつけるメインヒーローはこいつ!と決めて書き始めたのに、単なる脇役のつもりで登場させた年上キャラの方が何故か感想欄での人気が高くなってしまっていた。その中で特に高頻度でコメントをくれる読者さんの要望に応える形で、そのキャラの出番を増やし、ヒーローに格上げし…とやっていたら、話の本筋をどう収集を付けたらいいのか分からなくなって、結局終盤に入ったあたりでエタらせてしまったのである。長編小説を書くのが初めてだったこともあるが、まぁまぁ黒歴史としか言いようがない。なろう小説の初心者にはよくある現象だと思いたいが、どうだろう。誰かそうだと言ってくれ頼む。

さて、この二つのエピソードは、ネガティブな言葉でダメ出しを受けたか、ポジティブな誉め感想の中でやんわりと要望されたのか、というレベル感の差はあるが、恐らく同一の現象である。
つまり、自分が良いと信じて楽しく書いていたものに、信頼する他者から異なる意見を突き付けられて、「自分が良いと信じたもの」と「書いていて楽しかった時間の価値」を見失った。正確に言えば、「自分が良いと信じたもの、楽しく書けたものを、他人はそうは思わないらしい。他人が良いと思ってくれるものを書かねばならない。だが、それは何か?」という思考に陥って、身動きが取れなくなってしまった。

肝となるのはこの思考、「他人が良いと思ってくれるものを書かねばならない」である。

この思考は、少なくともアマチュアには不要だ。そのはずだ。
というかプロの作家も、この思考と上手く距離やバランスを取りながら書いているのではないかと思うが、何にしてもここを気にする必要がないのが、アマチュアの良い所だ。多分そうだと思う。そうであって欲しい。

少なくとも私はそこを信じてnoteを始め、あらゆる批判を覚悟して、私自身と家族に関する記事を書きまくった。今の所は批判を受けずに済んでいるが、それはただ運が良かっただけだろう。あるいは私のPV数が少ないために、攻撃的な人や、その日たまたま機嫌の悪かった人の目に触れずに済んだだけだと思う。noteの住民たちは非常に心が広くて優しい方々だが、それは他のSNSと比較して、そういう人が多いという話にすぎない。どんな集団にも例外はいるし、同じ人でもその日に限って例外的な行動を取ることもある。
「99%の確率で批判をしない人」を100人集めた時、誰からも批判を受けない確率は0.99の100乗で、今Googleの検索窓に入力したら、0.366032…と出てきた。約36.6%だ。逆に言えば「99%の確率で批判をしない人100人に読ませた時、誰か1人以上に批判される確率」は100-36.6=63.4%なのである。わぁ怖い。

noteを始めた頃の私はこんな数字は知らなかったが、とにかく書く事に飢えていて、何が何でも書かずにはいられなかった。恐らく、当時の私が実際に批判を受けたとしても、例えば批判を避けて別のテーマにするとか、アカウントを変えるとかはしたかもしれないが、とにかく書き続ける方法を探しただろう。
一方でそれより前の私が、ボカロ曲の歌詞やなろう小説を「書けなく」なったのは、そもそも飢えが満たされてきた時期だったからでもある。ただ自分の欲望に突き動かされ、自分自身のためだけに書き殴っていた時期を通過して、周囲との交流を――特に信頼する数人との交流を楽しみながら書いていた時期だった。だからこそ彼らの意見に左右されたし、その意見が私にとって重大だった。「書くこと」だけが目的ではなくなっていたからこそ、起こった事象だった。

一人でも書く事は出来るが、書き続けることは難しい。
だがそれを可能にしてくれる力が、コミュニティにはある。私が歌詞を書いていたピアプロや、小説を書いていた「なろう」、noteや現実世界も含めて、創作を行い続ける人々の原動力はいつも読者やリスナーだし、仲間だし、コミュニティだ。違う人もいるだろうが、大多数の人がそうだと思う。

そうした仲間や読者との交流を原動力に創作をすることを、ある意味で邪道だと――「書く」ことの本質ではないと主張する人はいるだろう。でも、私はそうしたエネルギーを基に創作することもまた、間違ってはいないはずだと信じる。客に美味しいと言って貰うために料理を作る料理人、受け取る人を笑顔にしたくて花束を作る花屋さん、道を通る人が気持ちいいと感じるように家の前を毎朝掃除するおばあちゃん、彼らを間違っているという人は誰もいない。同じように「書く」ことの原動力が他者からの評価であったとして――それを優しさや思いやり、サービス精神と呼ぶ人もいるし、承認欲求や自己顕示欲と呼ぶ人もいるだろうけれど――全く、全然悪くないし、人間としてごく自然で当然なことだと思う。

ただ、「書けなくなった」当時の私が何故あんなに混乱して取り乱し、途方に暮れたのか、と考えると心当たりがある。あの当時、私にとって書く事・読んでもらうことは、自分の存在意義だった。
そもそも自分の存在意義を見失っていた時期が前提にあって、創作によってそれを取り戻したばかりだったのだ。私自身に価値がなくとも、私の書いたものには価値がある。読んだ人が誉めてくれる。次を楽しみにしてくれている。応援していると言ってくれる。だから私は書き続ける。「書いている私」には価値がある、「そうでない私」に価値がなくても。そんな風に思っていた。
それなのに、今書いたものではダメだと言われたら。書いた作品を否定されたら、それは「書いている私」を否定されたことになり、私は再びあらゆる意味での価値を失ってしまう。魂の奥底から噴出する「書きたい」エネルギーは既に落ち着いてしまっている。書きたくて書きたくてたまらないものは、もう一通り書き尽くしてしまった。次に書くべきものは、「書いて欲しいと望まれたもの」であるはずなのに、それに失敗してしまうなら、じゃあどうすれば良いのか。書かなければ私は私でいられないのに、私に他に価値などないのに、何をどう書けば「上手く」書けるのか、それが全く分からない――

そんな状態に陥って、私はボカロ曲の歌詞を書くのを辞めた。当時は結婚による多忙を理由にしたし、あながち嘘でもなかったけれど。
なろう小説もエタらせて以降、そのアカウントはROM専用だ。こちらは言い訳の一つも書かずに突然更新を止めたので、その後心配するコメントをいくつか貰っていたことに気付いた時には、非常に胸が痛んだ。しかし私は返信の一つもせずに、そのまま逃げ切ってしまって今に至る。

今にして思えば、この事象自体が「生きづらさ」全開なわけだが、私はただただ不義理をしたと、当時のコミュニティの人々には合わせる顔がないと、そんな風にずっと思ってきた。これもまた生きづらさという奴である。

さて。曲がりなりにも自己受容が出来てきた今の私は、当時と比べるとかなり厚顔無恥になっている。
最近はゲームにかまけて滅多に記事を書いていない癖に、書く書くと言って放り出したままのテーマもいくつもある癖に、さっぱり書きもしないまま、こうしてふらっとまたnoteを覗いては気まぐれにいくつかフォロワーさんの記事を読んで、ちょっと思い出したからと隙あらば自分語りをして、多分また明日はゲームにかまけて何も書かないだろうと思う。

でも。
書いている私も、書いていない私も。ゲームをやっている私も、やっていない私も。今日は夫と息子が午前中に外出するというので、マックでお昼を食べて来てもらうことにして昼食作りをサボり、しかも自分だけこっそりラーメン屋に行ってラーメンを食べて、更にトッピングに味玉を付けたらウズラの卵のトッピングまで無料で付いてきたせいで若干食べ過ぎて、ちょっと胃がヤバくなった私であっても。

どんな私であれ、存在意義は揺るぎなく在り続けるのだと、今の私は疑うことなく生きていて、それは、「書くこと」だけが自分の形を何とか持たせてくれていると信じていた頃よりも、ずっと楽だ。

だからどうという話では断じてない。
ここまで読んで下さったフォロワーさん方の中で共通の方は既にお気づきだとは思うが、この記事はただただ、大好きなnoterさんに、ひたすらにこの先の一文だけを伝えたくて書いたものだ。
もし傲慢に見えてしまったら申し訳ないけれど、本当はちゃんと慰めとか励ましとか、そういうものを書いた方が良いのだろうけれど、私はどうにもそういう言葉を捻りだすのが下手くそで、だからこういう自分語りしか書きようがないのだけれど。

何を書いても書かなくても、私が私であるように。
何を書いても書かなくても、何を言われても言われなくても。誰に影響を与えても与えなくても。あなたとあなたの愛するものは決して価値を損なわないし、ちゃんと、ずっと、そこに在り続けていて、それを見失う必要はどこにもないはずですよ、と。

過去の私に。そして読んで下さったあなたに。とにかくそれを書いて、この記事を終わりにしておきます。


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