国宝障壁画展示《楓図》《桜図》(智積院・宝物館):茫々60年、あれは夢・幻だったのか?国宝の前のお昼寝
(長文になりますのでお気を付けください)
はじめに
このnoteのどこかの記事で、私がいかに日本美術について疎かったのか、それまではいかに西洋美術偏重だったのかを書きました。そしてその原因の一つは私たちの年代が受けた美術教育ではないかとの推測も。
さて、その西洋絵画一辺倒だった私が「線スケッチ」を始めて、180度態度を改め日本美術に目覚めたことも書いてきました。とはいえそれは「線」という立場での浮世絵版画、新版画の鑑賞が中心で、昨年からようやく水墨画について本腰を入れて理解しようと実物の鑑賞を始めたのです。
昨年はそれぞれの鑑賞結果の記事を書き、今年2月末に東京国立博物館の恒例の正月展示、長谷川等伯の国宝「松林図屏風」についての記事を投稿したばかりです。
その記事の最後で私は無謀にも次のような約束を読者にしました。
”無謀”という表現ですが、投稿した時はもちろんそうは思っていません。しかし作業をはじめてすぐに後悔するはめになったからです。
その理由の詳細はここでは省きますが、一つだけ云えるのは長谷川等伯の画業についてきちんと知る必要があること、《松林図屏風》だけを見ていては、各界の人々の《松林図屏風》についての評の背景を理解できないとつくづく思ったからです。
そこで、3月の下旬に関西に出かけたおりに、長谷川等伯のもう一つの国宝《楓図》の実物を見ようと決め、智積院・宝物館を訪れたのでした。
茫々60年、あれは夢・幻だったのか? 誰にも話していない若い日の秘密
さてここで《楓図》の感想を述べる前に、60年近く誰にも話していなかった私と智積院および《楓図》についての秘密を打ち明けます。
その秘密とは、
さて、皆さんは不思議に思われませんか? 「一体なぜ国宝の絵がむき出しで置いてあるのか? あり得ない。またなぜ何度も入ることが出来るのか? 拝観料はどうした?」とおそらく思われるはずです。
ところが、私の記憶では、絵はむき出しのまま、すなわち建物の実用の襖であり単なる建物の一部として存在していました。また今思うと縁側の前は「利休好みの庭」として知られる豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺の名勝庭園なのです。
そのような場所にもかかわらず、無料で入れたのは間違いないのです。
と、私の記憶では確かにそうなのですが、日本美術に関心を持って以来、日本の絵画がその脆弱さのために厳重に隔離保管され、しかも短期間しか展示されない事実を知るようになって、自分の記憶をあやしく思うようになってきました。
しかも、ご承知のように、現在京都の歴史的なお寺はどこもかしこも拝観料をとっています。「智積院」も「大書院」に入るのに拝観料が必要ですし、何よりも「楓図」「桜図」の国宝が隔離保管されてしまいました。
ですから先に述べた「秘密」も「そのようなことはあり得るはずがない」と私自身の記憶もぐらつき始めたのです。
まさに「茫々60年、あれは夢・幻だったのか?」という心境です。
ということで、うかつにそのようなことを人に話せばほら吹きぐらいにしか思われないだろうと、誰にも話していなかったのです。
しかし《松林図屏風》の各界の人々の評価を調べる中で、私と同年代かより年配の人たちの似たような思い出話が目に入りました。
一つは、「戦後昭和30年代、京都のお寺は拝観料をとっていなかった、今はどこもとるようになってしまった」という嘆きの言葉です。おそらく私の記憶の昭和41,2年頃もまだその傾向が続いていた可能性があります。
事実最近図書館で手に取った高幡勲氏の「一枚の絵から 日本編」2009(岩波書店)の中に、たまたま次のような一節を見つけました。
それは、狩野永徳《花鳥図襖 梅に水禽図》についての文章です。
この文章から、大徳寺のような名だたる名刹でも高畑氏が学生時代(1950年頃)は勿論、1980年頃も拝観料を取っていなかったことが分かります。ですから、智積院でもおそらく私が訪れた当時は拝観料を取っていなかったと推測できます。
さらに、次のような文章が続きます。
高畑氏の落胆ぶりが目に見えるようですが、私にとっては、ああやっぱりそうだったのだな、狩野永徳の国宝の絵もやはり昔はむき出しでそのまま襖として使われていたのだと確信できたのです。
加えて今回の智積院宝物館の訪問中、「昭和43年に、それまでの大書院から襖をはずして収蔵庫に移した」との説明文を目にしました。
ですから私が寝転んで観た昭和41,2年当時はまだ本物の襖だったことはおそらく間違いないでしょう。
以上、長々と記述してきたのですが、ようやく「あれは夢・幻ではなかったのだ」と確認できたので、この場所で秘密を公開することにしました。
少し胸のつかえがおりた気分です。
とはいえ、これからは「昔はよかった・・・・等伯の絵を寝転んで独り占めにして見た」と若い人をつかまえては自慢げに話す、過去を懐かしむ典型的な老人になりそうで心配です。
長谷川等伯《楓図》、長谷川久蔵《桜図》、その他の国宝障壁画を見る
さて、ようやく本題です。鑑賞時間をたっぷり取りたいので、宝物館の入場するや否や「前室」「特別展示室」を通り抜けて「国宝障壁画展示室」に直行しました。
なお言い忘れましたが智積院の宝物館は、昨年4月に開館したばかりです。障壁画は、常時空調管理のためガラス越しに見なければなりません。
しかし鑑賞者の不満を解消するためか、壁画面とガラス面との距離が30㎝程度と通常の美術館の展示に比べて狭くなっており、そのため細部を見るためにオペラグラスや目を凝らす必要はありません。
以下、長谷川久蔵の《桜図》、長谷川等伯《楓図》、《松に秋草図》、《松に黄蜀葵図》の順に感想とコメントを述べていきます。
長谷川久蔵《桜図》
以上の各感想項目に対応する拡大図(部分図)を以下に示します。
コメント:桜の花がすべて正面向きなのは、装飾性を際立たせるとともに、400年を経た現代の日本画家、加山又造氏の桜の絵や、同じく桜の絵で人気の中島千波氏の絵にまで桜の花の正面描きのスタイルが受け継がれているのは驚くべきことだと思います。
中島氏の桜の絵は下の動画をご覧ください。全て桜の花は正面を向いています。
それは根強く日本人の心に響く描き方なのでしょう。しかしこのことは、海外、特に欧米人の目から日本美術がどう評価されるのか、日本美術の特徴は何か、欧米人から見て中国の水墨画と日本の水墨画が何が違うのか、今回の《松林図屏風》の評価にも関連します。次の《楓図》その他の作品の感想を終えてから改めて考えてみます。
なお、桜の花の不自然なほど大きなサイズへのデフォルメはおそらく広大な部屋の中で遠くから襖絵を見るときに、現実の比率の大きさの花ではインパクトがないために大きくしたのではないかと推測します。
長谷川等伯《楓図》
感想の各項目と内容は、久蔵の《桜図》とほぼ同じです。
以上の感想項目に関する拡大図(部分図)を以下に示します。
コメント:《桜図》、《楓図》ともに大書院の襖に対として設置していることから、それぞれ構図、描き方の特徴が共によく似ています。
主幹を中心に大きく描くのは狩野永徳の《檜図》と同じ構図ですが、今回《檜図》に比べて画面下の草花がこの二人の絵に目立つ特徴ではないかと感じました。下に狩野永徳の《檜図》を示します。
案の定というか、少し意外でしたが、ここには草花がまったく描かれていません。草花がない分、逆に全体にみなぎるエネルギー、雄渾さが半端ありません。逆に、等伯親子の絵は永徳の力強さには及ばない感じです。むしろ色彩の華やかさ、優しさが前面に出ています。
とはいえ、永徳の場合現存作品数が少ないので、草花を描いた絵もあるのかもしれません。もう少し調べてみることにします。
次節に示す長谷川等伯《松に秋草図》では、草花がさらに大きく描かれているので、長谷川等伯が狩野永徳描き方に対抗心を燃やして、草花を大きく配した構図を始めた可能性があります。
長谷川等伯《松に秋草図》
《桜図》、《楓図》についての感想と相応しますのでこの絵の感想は簡単に記しますが、もともとの記事の目的である《松林図屏風》の松の葉の描写の比較という意味では、この絵は大変重要です。
コメント1:《桜図》、《楓図》、《松に秋草図》の順に草花の描写が水墨画の花鳥画と同じ写実描写で、どうやら長谷川等伯が、狩野永徳の様式に対抗して試みたのではないかという上述の私の感想は、絵を見れば誰でも気が付く内容なので、先行事例がないかと検索したところ、題名もそのものずばり、「長谷川等伯の草花表現」、出光美術館の黒田泰三氏の論文が見つかりました。
黒田泰三「長谷川等伯の草花表現」出光美術館研究紀要 第十七号(2012)
以下、黒田氏の結論を引用します。詳細は上記論文を参照ください。
論文なので固い表現が目立ちますが、著者が言いたいのは、長谷川等伯は、永徳の金碧画の様式を採り入れつつも、狩野派にはない自然景の中の草花をそのまま再現する表現を作ったというのです。
狩野派との対比を重視するあまり、「自然景の中の草花を描写した」とあたかも現代の画家が行うような意図的な狙いだったと強調していますが、以前、私が雪舟の「四季花鳥図屏風」の記事で述べたように、水墨花鳥画における通常の写実的な草花表現を単に採用したという私の見方でも成り立つのではと思うのですが・・・。
コメント2:この《松に秋草図》で一番注目したのは松の葉の描写です。というのは、この記事のもともとの目的は、同じ長谷川等伯の《松林図屏風》がなぜ日本の水墨画の最高傑作と言われるのか、等伯の他の作品と比べて探ることにあるからです。同じ松の木を描いた《松に秋草図》はその目的にかなっています。
図17に松の描写の部分拡大図を示します。どう見てもこの松の葉の描写は写実的ではありません。今日でも能舞台の背後に見られる形で、完全に様式化、図案化された造形です。それは日本独自の造形、すなわち「やまと絵」の描き方と云えます。
ちなみに、昨年東京国立博物館で開催された「やまと絵」展の図録を確認すると、すでに平安時代に描かれた秦致貞筆《聖徳太子絵伝》に同じ形の松の葉の描写がみられることから、その造形の始まりは平安時代にまで遡ることがわかります。
一方、図15、16の部分拡大図に示す秋草の描写は、大きさのデフォルメはあるものの水墨画の描き方、すなわち写実的な描法に従っています。その結果、《松に秋草図》の中に極端にデザイン化された松の葉の造形とリアルな描写の草花が存在するわけで、これほど異なる二種類の描写が共存することに改めて驚きます。
ここまで記述して、昨年12月3日に、雪舟等楊の《四季花鳥図屏風》の樹木、草木の描写を「やまと絵」との対比で記事にしたことを思い出しました。
当時は、樹木の枝と草木の奥行き描写に焦点を当てていましたが、松の葉までは注目していませんでした。
《四季花鳥図屏風》の右隻にも松の木と葉が描かれているので、今回あらためて模写を行い、長谷川等伯の《松林図屏風》、《松に秋草図》の松の葉と、雪舟等楊の《四季花鳥図屏風(右隻)》の松の葉を比較してみます(下図)。
水墨画という共通点で《松林図屏風》の松の葉と雪舟の《四季花鳥図屏風》の松の葉を比べると、雪舟の松の葉の描写は、一本、一本松の葉を丁寧に描き分けているのに対し、《松林図屏風》の松の葉は、藁筆で一気に描いたと云われるように、あまり例が見られない描写です。
実は、長谷川等伯自身も、例えば《山水図襖》(京都・隣華院)、《山水図屏風》(三重・等観寺)や《列仙人図》(京都・壬生寺)の水墨画の中で松を描いていますが、雪舟の松の葉とまったく同じ描き方をしています。すなわち、松の葉を一本、一本描く中国の水墨画のオーソドックスな描き方に従っているのです。
一方、《松林図屏風》と《松に秋草図》の松の葉を比べると、その差は一目瞭然です。ただ、最初はもこもことしたマツタケのような形の緑の葉の塊に目が行くのですが、必ずその下に何本もの小枝が鳥の巣のように緑の葉の塊を支えるように描かれており、やまと絵における松の葉の描写は、それもセットになっていることを今回はじめて気が付きました。
なお、松の葉だけでなく、幹の描き方も興味深いと思います。《松林図屏風》の幹は、ザザザーとシルエットのように塗りつぶされているのですが、《松に秋草図》では表皮がひび割れた松に特徴的な模様をしっかり描写しているのに対し、感想の項で述べた様に輪郭線は薄いかほとんど描かれていません。
一方、雪舟の《四季花鳥図屏風》の松の幹は中国の水墨画には見られない太さですが、輪郭は一般の水墨画の樹木の幹の描き方のくっきりとした輪郭線で描写されています。
なお、12月3日投稿の記事で、雪舟の《四季花鳥図屏風》の松の幹の太さを指摘して、雪舟こそ桃山障壁画の祖ではないかと仮説を提出しました。
今回の松の葉と幹の比較を、他の狩野派の画家、特に巨木を据える様式を開発した狩野永徳の作品などを併せて比較するとよりその仮説の裏付けができそうですが、長くなるので別の機会にしたいと思います。
長谷川等伯《松に黄蜀葵図及菊図》
宝物館の「再現展示」ゾーンには、《松に黄蜀葵図及菊図》が書院造の違い棚の壁面に描かれています。
実は、それらはもともと大きな絵だったものを細分して貼ったもので、日本画家の安原成美氏が大学院での研究結果をもとに復元模写しています。
この研究内容も興味深いのですが、ここでは省きます。興味のある方は下記をご覧ください。
ドクター論文のPDFファイルは下記です。
http://yasuharashigemi.com/research/doctoral_dissertation_yasuhara.pdf
ここでは、この復元模写の松の葉の描写および草花の描写法が、《松に秋草図》の場合とまったく同じであることを指摘しておきたいと思います。
西欧人、中国人の目になって《松林図》、《桜図》、《楓図》、《松に秋草図》を見てみた
以上、智積院・宝物館の「国宝障壁画展示室」の主要な作品を見てきました。いわば長谷川派の主要な金碧障壁画を見てきたのですが、もう一度ここで、当初の動機を確認したいと思います。
それは、昨年年初から、線スケッチの観点で「水墨画」を理解しなければならないと思い実物の鑑賞を始めた時から始まります。最終的に下記の疑問が残ったのです。
そして、誰もが日本の水墨画の最高峰と称える長谷川等伯《松林図屏風》の実物を見た結果《松林図屏風》だけでは上記疑問の手がかりは得られず、長谷川等伯の全画業を見たうえで考える必要があるとの動機から始めたわけです。
長谷川等伯の画業は幅広く、もともと仏画や肖像画、中国画(着彩)、やまと絵、水墨画(山水、花鳥)、彩色屏風絵、障壁画など驚くほど多彩な分野でそれぞれ質の高い作品を生み出しています。
これらの全ての作品を取り上げるわけにはいかないので、今回の障壁画と《松林図屏風》を用いて、一つの試み(遊び?)をしてみます。
それは日本美術をまったく知らない、すなわち西欧の「芸術観」しか知らない西欧人がこれらを見たときの反応を予想するのです。次に同じく中国人が見たときの反応も予想してみます。ただしこの場合は、日本の水墨画が発展した室町時代と同時代すなわち明の時代の中国人としましょう。当然この中国人は、西欧の「芸術観」はまったく持っていません。
もし日本美術を知らない西欧人、中国人(明代)が《松林図屏風》、金碧障壁画を見たならばどのように目に映るのだろうか?
といったところが西欧人の主な感想ではないでしょうか?
それでは、明代の中国人の感想も下に示します。
と、やはり中国の絵画から受ける厳しさ、隅々まできっちりと構成、描写されている感じ、無駄な余白はなく絵全体が計算されている感じ、抒情的な要素が無いなど、書画一致という観念はないにしても、精神性、宗教的意味を絵画に求める点、西欧人と共通の絵画に対する見方を中国人は持ち合わせているので、以上のような感想になるのではないでしょうか。
特に、自然と人間との関係は、日本人と、中国人、西洋人とは基本的に異なっており、それが絵画にも反映されていると思います。
等伯自身は、当然西欧の芸術観は知る由はありません。
西欧人の観点からすれば等伯が手掛けた画業は、信じられない程の広さに見えるはずです。しかも画家としての「水墨画」「肖像画」作品から「仏画」「やまと絵」「金碧屏風絵、襖絵」などの装飾品、調度品など西欧人の範疇では職人としての作品制作まで行っているのは理解できないでしょう。
しかし等伯にとっては、西欧の芸術観、画家としての在り方はあずかり知らぬことです。ですから、このような現代の価値観で言えば、芸術作品から装飾調度品まで様々な様式を一人の画家が描き分けた例は西欧(おそらく中国でも)ではあまりないと思います。(やまと絵と水墨画の落差を見比べてください。これほどまでの大きな違いの絵を、最高の水準レベルで一人の作家が描いた例は西欧や中国でかつてあったでしょうか?)
ようやく近現代になって欧米の画家、例えばピカソなどに見られるようになったのではないかと私は思うのですが・・。
さて、以上私が推測した、日本の代表的絵画に対する西欧人、中国人の一方的な見方に対して反論すれば、そのまま日本美術の特徴に繋がるはずですが、それは別の記事で述べたいと思います。
最後に
突然突飛なことを書きますが、《松林図屏風》の記事と、その2についての記事の準備、そして今回の記事を書いている最中に、次のような疑問が頭に浮かびました。
私はその理由をこれまで疑いもせず「浮世絵が西洋にない日本絵画の特徴を持っていたから」すなわち「線描だけによる深い表現、陰影のない、明るい色彩」「北斎や広重の大胆な構図、モダーンな表現」と、専門家が述べていることをそのまま受け入れて、今に至るまでそう思い込んでいましたが、はたしてそうだろうか?と疑問が浮かび、根本的に考え直すことになったのです。
実を云うと最近の一連の作業でまったく正反対の、以下に示す考えが芽生えました。
そのきっかけは、以前小村雪岱の「日本橋」について記事を描いていた時に、浮世絵、特に後期では「線遠近法」が多用されていることに内心驚いたことです。それが私の思い込みを変えることになりました。
ということで、日本美術の特徴や評価を考える上で、西洋絵画のその後の変遷、抽象絵画からポップアート、グラフィックアート、現代の漫画、アニメに至る相互作用にまで見渡す必要があると思うようになりました。
なお、長谷川久蔵《桜図》の花の正面描きに関連して、現代の日本画作家の加山又造氏、中島千波氏の例を出しましたが、実は京都に滞在中に、同じ現代日本の代表的作家の村上隆氏の個展のポスターをたまたま見かけたことを今思い出しました。
それは、京セラ美術館限定開催の「村上隆 もののけ」展です。
私自身は、村上隆氏の絵画の実物をみたことは無いのですが、「スーパー・フラット」の概念など、日本美術に基づいた考えで制作された作品が国際的に評価されていると聞いているので、もしやと思い調べたところ、やはり推測があたりました。
展覧会ポスターに採用された作品《金色の夏の空のお花畑》をご覧ください。
ものの見事に、こちらに花が顔を向けているではありませんか。
日本を代表する画家が、伝統的絵画手法を採用していることにある種の感慨をもちました。
次に関西に行った折に訪問してみようと思います。
(おしまい)
前回の記事は下記をご覧ください。