(前回の記事より続く)
この回では、ヘレン・ハイドに続き、1900年に来日した第一世代の外国人作家、エミール・オルニックを紹介します。
ヘレン・ハイドの項でも紹介した、外国人版作家の活動の概観した年表を再掲載します。
2.エミール・オルニック Emil Ornik 1870年~1932年
■略歴
■作品例
(1)日本に関係する作品
(2)日本に関係しないテーマの作品
■作品について
エミール・オルニックの日本で制作した版画は、今回の千葉市美術館の「新版画展」では出品されていません。
しかし、この記事を書く過程で調べたところ、2019年に同じ千葉市美術館が「ミュシャと日本、日本とオルリク」と題する美術展を開催していたことを知りました。(下記参照)
出品目録から、この美術展の中で、エミール・オルリックの木版画、リトグラフ、エッチングの作品が50点近くも展示されていたのです。
今にして思えば、タイトルの最初にある、「ミュシャ」に目を奪われて、「オルリク」の名に気づいていませんでした。当時はおそらく、ミュシャは別の展覧会で十分見たと判断して行かなかったのだと思います。残念なことをしました。
私がオルリックの版画を始めて見たのは、江戸東京博物館の「よみがえる浮世絵 ーうるわしき大正新版画展」です。この時は図1に示す木版画の中で、左上の「日本の摺師」と右上の「日本の彫師」の2作品が出品されていました。
今回、wikimedia commonsに掲載されている作品 および大英博物館所蔵の作品で、全体像を把握しました(図1~図8)。下記に日本で制作した作品、帰国後の作品も含めて、個人的な感想を以下にまとめます。
注目したいのは、図7における右上(1899年)と右下(1904年)の作品です。黒ベタを使ったプリント作品ですが、これを見た瞬間ヴァロットンの版画を思い出しました。
実際、1987年頃、パリでヴァロットンと知り合ったとwikipedia 日本版に記載されています。 もしそれが事実なら、図7の版画はおそらくヴァロットンの影響を受けて制作されたのは間違いないでしょう。
■閑話休題:ヴァロットンと私
少しオルリックから話がそれます。
フェリックス・ヴァロットンの作品を始めて見たのは、2010年に国立新美術館で行われた、「オルセー美術館展2010「ポスト印象派」」の油彩でした。当時ナビ派の画家の中ではあまり知られていなかったので、こんな画家がいたのかとその油彩に新鮮さを感じ印象付けられました。
その後、同年に世田谷美術館で開催された「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール スイス発―知られざるヨーロピアン・モダンの殿堂」展でヴァロットンの作品に思いもかけず多くの作品に触れたのでさらにこの画家に関心が向かいました。
その後、2014年に新たなヴァロットンを知ることになったのです。それはこの年三菱一号館美術館で開催された「ヴァロットン 冷たい炎の画家」展です。この美術展では、油彩のほかに多くの木版画が展示されていたのです。その黒ベタの黒と対比となる白、そして輪郭の線描とに強い衝撃を受けました。直感、あきらかジャポニスムの影響を受けていると感じましたが、その後調べてみるとその通りでした。
なお、黒と白の対比で言うと、ビアズリーの絵を思い出します。ビアズリー本人も日本の版画に影響を受けたと語っているので、この時代の画家達がいかにジャポニスムに傾倒したかが伺えます。版画家ならなおさらでしょう。影響を受けて制作するだけでなく、ヘレン・ハイドやオルリックのように思い切って日本に来てしまう版画家が続出したのも無理からぬことだと思いました。
なお現在、三菱一号館美術館では「ヴァロットン ー黒と白」展が開催されています。2014年の展覧会で十分見た気がしたので改めて見るべきかどうか迷っています。
■ エミール・オルリックの欧州における評価
前々項で示したオルリックの作品に対する私の評価はあまり芳しいものではありませんでした。もしかすると選んだ作品が、wikimedia commonsと大英博物館所蔵の作品からだけでしたので偏っている可能性があります。
一方、参考資料を読む限り、彼の作品は生前欧州で高く評価されていたように感じます。
そこでオルリックの名誉のために、実際の評価はどうだったのか、来日前、帰国後の制作活動についてマーラー財団が詳しく紹介しているので、以下に抜粋してまとめます。
実は、この項を書くまで、マーラー財団のオルリックの経歴紹介は読んでいませんでした。あくまで先入観を持たずに作品だけから評価しようとしたからです。
しかし、このマーラー財団の経歴紹介文を読んで、次のことがよくわかりました。
オルリックを評価するには、版画や油彩だけでなく、舞台美術、衣装、ポスター、肖像画、イラスト、ブックデザイン、蔵書票、挿絵、写真などファインアートからコマーシャルアートまで幅広い分野を総合的に見て判断しなければならないと。
オルリックの足跡を見ると一つの分野を突き詰めるよりも、新しい分野に興味を持つと、ファインアートかコマーシャルアートかを気にすることなく次々に手掛けていくように見えます。
その結果「当時の著名な芸術家の一人」とまで言われるようになったのです。けれども現在その名前は、おそらく当時ほどは欧州でも覚えられていないのではないでしょうか。 もしかすると完全に忘れ去られているかもしれません。
ここまで読んで読者の皆さんは日本のある作家を思い出しませんか?
「小村雪岱」です。
日本画家でありながら、それだけに飽きたらず、木版画、本の装幀、舞台美術などそれぞれで一流の仕事をして戦前名を成した画家です。ポスターを除けば、手がけた分野がほとんどオルリックと重なります。ところが、戦後はその名声も忘れられ、最近ようやく見直しがされてきました。
こうしてみると、どうも洋の東西を問わず、コマーシャルアートを手掛けると、生前は有名でも死後忘れ去られる傾向があるようです。
(次回、その5.に続きます)
参考にした資料
(1)エミール・オルリック wikipedia 日本版
(2)エミール・オルリック(1870-1932) マーラー財団
参考:前回の記事を下に示します。