「ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画」千葉市美術館 美術出版(2015):西洋の知は日本美術の独自性をトポロジカル空間にあると見た!(その3)
(その2)より続く。
前回の記事、(その2)では、ドラッカーが日本美術の収集を始めた初期の頃に購入した尾形光琳の《蔦図(団扇)》を取り上げて、日本美術の特徴がデザイン性にあり、新たな空間の創造であること、それは西洋絵画の「幾何学」、中国絵画の「代数的(アルジェブラティック)」に対して「位相幾何学的(トポロジカル)」とみなせると指摘したことを述べました。
次にドラッカーは日本の「禅画」に話題を移します。
禅画(白隠)
講演原稿では、このとき示したスライドは(白隠)とだけなっており、自身が所有の白隠の絵なのか、それとも他の代表的な白隠の絵を示したのかわかりません。
ここでは、ドラッカーが所有している絵を示したと仮定して、記事(その1)で引用した千葉美術館HPの写真の中から、白隠の「達磨図」を再掲載します。参考までに、同じくドラッカー所有の仙厓の「鍾馗図」も併せて示します。
ドラッカーはのっけから「禅画」について驚くべき発言をします。
ドラッカーは「ガイジンが」と一応限定していますが、ここで述べられている「反体制文化」、「ヨーロッパで失敗した表現主義を成就したもの」という見方は普遍的な内容を含むと思うので、日本の専門家の言及があってしかるべきだと思います。
しかしこれまで私が知る限り禅画の入門書や一般書では見たことがありません。実はドラッカーが提案した「トポロジカル」についても、同じことが云えます。
なぜなのか、この点についてはこの場所は適当でないので最後に章を改め考えてみたいと思います。
さて、ドラッカーは冒頭の発言に対して次のような事実と補足の説明を示します。
ドラッカーによれば、西欧人から見れば禅画は表現主義の完成形であり、さらに優れてもいるというのですが、その理由を下に直接引用します。
いかがでしょうか。これまでに比べて、かなり熱のこもった語り口だと感じられませんか?
要は、西欧の表現主義との違いは信仰の有無にあり、禅画には信仰と精神性が存在すると言っているだけなのですが、所有している禅画を自宅の壁に掛けて飽かず眺めた時のドラッカーの精神的高揚を感じる語り口です。
一般に信仰心が薄いと言われる日本人としては、ドラッカーの精神的高揚はピンとこない部分もあるのですが、戦前から欧米人を中心に「ZEN」に惹かれる知識人が多いことと関連するように思います。
これは、次に述べる日本の山水画収集つながるドラッカーの精神的背景だと思われます。
なお、禅画については、次の言葉でしめくくっています。ここにはドラッカー個人の気持ちがさらにあふれ出ているように思います。
如水宗淵《柳堤山水図》
いよいよ、ドラッカーが愛する室町時代の山水画の話に移ります。
実はドラッカーは、自身が勤める大学で日本美術のセミナーを長年続けており、ある時、足利時代の山水画を壁に掛けた時に、一人の優秀な学生が「絵につかまってしまい抜け出せません」と冗談ではなく大真面目に感想を述べたエピソードを引き合いに出して、日本の山水画の特徴の述べます。
ここでもドラッカーは、記事(その2)で、牧谿の「柿図」を引き合いに出して述べたときの様に、西洋絵画と中国絵画と比較しつつ日本絵画の特徴を浮かび上がらせています。
西洋絵画と中国絵画は観る者を中に入らせないのに対し、日本絵画は入り込むだけでなく絵に同化さえさせてしまうというのです。
ドラッカーはさらに具体的な例を示します。西洋絵画の場合、自然との関わり持つものはほとんどなく、人間の営みを扱っているとしてフランドル派の風景画を例に示します。また、中国の山水画もいくつもの例外を除いて人間を描いていないと述べ、例として日本人に強い影響を与えた元時代の画家、倪瓚の絵を取り上げます。
ドラッカーによれば倪瓚は人物を全く異質で相容れないものとして山水画には描いていないのに、倪瓚に倣って画風を忠実に写した日本の山水画では人物を描いていると違いを述べます。従って倪瓚の山水画の自然が荒涼としているのに対し、日本の山水画の自然は人間の住む環境として描かれ、人は自然の一部になっていると指摘して、日本の山水画の特徴を説明します。
参考までに、倪瓚の山水画の例を下に示します。
この西洋絵画、中国絵画の比較による日本の絵画の特徴についての考察から、ドラッカーは地球環境問題にまで言い及びます。
1960年代にすでに今日の知識社会、起業家精神の時代、グローバル社会の到来を予言していたドラッカーは、単なる「経営学者」の枠を超えて、社会全体、地球全体まで視野に入れ、未来の姿を考える「社会生態学者」として、絵画もその考察対象であり、日本人の自然との関わりに大いに関心を抱いたと思われます。
野々村仁清《水差》
■ファイン・アーツと工芸
講演の最後に、絵画ではなく工芸品について日本美術の重要な特徴に触れます。
最初に、西欧社会ではFine Arts とその作品を作るFine Artsts はどんなに洗練され美術的であっても職人とは厳密な一線が引かれているとし、中国でも工芸家、職人は非常に低い地位で、文人画家は生活のために絵を描いた人ではないと指摘します。
日本人は、この中国流の考え方を消化しようと努力し、巧みに取り入れることに成功したことは事実だけれど、問題はそこではないというのです。
本講演の題名が「ガイジンの見た日本美術」ですから、絵画だけでなく、広く工芸品にまで話を拡げているのは当然のことです。
実は、一連の水墨画の記事を書く動機は「水墨画をどのように見たらよいか、日本の水墨山水は本当に独自なのか」という私の問題意識に関連して書き始めているので、水墨画に直接関係しない最後のこの部分を最初は省略しようと考えていました。
しかし記事を書くうちに、ドラッカーが言うまでもなく幕末、明治初期に訪れた西洋人が例外なく指摘した、日本人の日常生活のあらゆる場に浸透している美意識の問題は、水墨画を含むすべての日本美術に関わるという意味で、欧米や中国と比べる上でかなり大きな問題ではないかと思い直しました。このシリーズの最後で、日本の水墨画との関連であらためて述べたいと思います。
なお、中間まとめとして、本講演でドラッカーが指摘した日本美術の特徴の一覧を下記に記します。
(その4)に続く。