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物事のすべてがわかってくるのが瞑想です

平安時代中期に政権を握っていた藤原道隆や道長も糖尿病にかかっていたようです

音楽を聴いて「この曲はいいな」と思ったことが誰でも一度はあると思いますが、その瞬間、人は変性意識状態に入っています。

〈一即多〉一つが解れば全体が解る。〈多即一〉全体が解れば一つが解る。───解らないものは具体性を持って説明するとすんなり解る。

物事のすべてがわかってくるのが瞑想です。それは学問的にわかるわけじゃなくて〝明らかにわかる〟ということ

副島隆彦です。今日は2024年1月1日です。
これから私が話すことは、『源氏物語』の、隠された秘密を解き明かすことである
(中略)光源氏とは一体、何者であるか。と、それから『源氏物語』の始めに出てくる桐壺帝(きりつぼてい)、即ち、天皇でありかつ上皇(院)になる桐壺院(きりつぼいん)なる人物は、一体誰なのか。はっきり書く。それは、村上天皇(62代)である。 そして、その隠し子として生まれたのが「光る源氏」だ。天皇の子(親王=しんのう=という)で、臣下の姓である「源氏」の名を名乗った人物である。当時のまわりの人たち(貴族階級)は、この事実を知っていた。それが、藤原道長(中略)紫式部(むらさきしきぶ、973-1031)とされる女性は、キレイな文字で清書をしたのである。本当は、この女性の父親の 藤原為時(ためとき)が、源氏物語の真の書き手だ。為時は、下級貴族(従5位)の優秀な文章家だ。真実は、清少納言も紫式部と同一人物。だから両方の父親は同じ為時だ。女では、中国の故事などの古典教養は分からない。学ぶ機会もない。女は、男との愛のことしか分からない。だから優秀な男たちが、陰に隠れて、文学作品を書いた。女のふりをして書いた。その100年前の、紀貫之=きのつらゆき=の「土佐日記」と同じだ。土佐日記の冒頭の「男のすなる日記=にき=というものを、女もしてみんとてすなり」だ。そして、紫式部と 清書=せいしょ=した 清(せい)少納言と呼ばれた、実の娘が、きれいな女文字=おんなもじ= 手弱女(たおやめ)ぶり=で、源氏物語を清書して京都の貴族社会に広めた。だから「枕草子」も、「紫式部日記」も、この真の文学者たちだった、下級貴族の優秀な男たちが書いた。 当時は、知能のある人間は、死ぬほど本を読みたがった。男の貴族たちは、幼年期から、難しい漢文(儒教や仏典)を習わされた。貴族の女たちは、ほったらかしで、勝手に、ひらがなの多い「愛の物語」に熱中した。男たちも、その愛の物語を読みたくて、女たちから借りた(中略)最初に一番重要な事実から指摘する。なぜ、藤原道長であることがはっきりしている男が、「源氏」という姓なのか。それは、道長が、村上(むらかみ)天皇と、その最後の女御(にょうご、愛人)だった、藤原の芳子(ほうし。よしこ)が生んだ子供である、という事実だ(中略)この芳子(ほうし)という女性が、だから、源氏物語の始めの一巻から出て来る、桐壺更衣(きりつぼこうい)である。そして臣下の藤原兼家(のかねいえ)の子として(隠し子だ)として貰われて行った。だから「光る源氏」なのだ(中略)藤原道長は、このようにして、天皇家の 不義密通(ふぎみっつう)の子として生まれた。西暦966年だ。村上天皇(実力が有って、自ら親政を実行した優れた天皇とされる)と、愛妾の芳子(ほうし)は、道長を生んだ翌年(967年)には同時に死んだ。だから道長は臣下に貰われて行った。私は、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の、源氏物語の現代語訳(戦争中に書き始めた)を調べていて、分かった重要な事は、この「谷崎源氏」の翻訳に対して、「天皇家(日本の王朝)が、性的に乱れていて、近親相姦や不義密通をしていた、という真実を、書くことは罷(まか)りならん。許されないことだ」と、釘を刺されて、政治的な圧力が掛かった(中略)谷崎は、軍部からの政治弾渇を怖れて、中央公論の社長の嶋中雄二(しまなかゆうじ)と話して、この「源氏物語の谷崎による現代語訳では、天皇家の性的な乱れのことは書かない」という態度を決めた(中略)さらにはっきりと書くが、この藤原道長に5歳年上の実の姉がいる。これを藤原詮子(せんし、962-1002年、40歳で死)といって「あきこ」とも読む。この詮子(せんし)は、後に出家して、東三条院(ひがしさんじょういん)という院号をもらった。天皇の母親に当たる女性が、院号をもらい始めたのはこの藤原詮子が初めだ。女でありながら実質的に大きな権勢を誇っていないと院号(いんごう)は貰えない。この詮子(せんし)は当時、梅壺女御(うめつぼにょうご)と人々に呼ばれていた。 この詮子が、源氏物語の 藤壺(ふじつぼ)女御でもある(中略)この詮子は、道長の5歳上(数え年でいえば4歳の違い)の、実の姉である。彼女が、弟の藤原道長を徹底的に守って庇(かば)って大きく出世させた。事実として、藤原道長とお姉さんの詮子は幼いころから一緒に暮らしている。実の姉ということになっている。この2人の間には性関係があった。姉と弟の関係で深い性交渉があった。かつ、この藤原詮子は、円融天皇(えんゆうてんのう、958-991年、32歳で死。アホ。本当は虚弱で子供を産めない。その前の冷泉=れいぜい=天皇も軽い精神病だった )の女御から始まり、中宮(ちゅうぐう)すなわち皇后(こうごう)である。円融天皇の正式の妃(きさき)でありながら、実は自分の実の弟の道長と出来ていた。そして子供を作った。だから、この円融天皇の、次の次の天皇である一条天皇(いちじょうてんのう)の実の母親と父親は、まさしくこの藤原の詮子と弟の道長(中略)ちょっと話を逸(そ)らす。私が、今、書いている本は、『ヨーロッパの王と大(だい)知識人たちの真実』という本だ。はっきり言う。イギリス文学で、一番重要である、誰でも知ってる、文豪(ぶんごう)のシェイクスピアとは何者だったか。この隠された真実を、イギリスの、一番上の支配階級と真に頭のいい国民だけは知っている。だが多くのイギリス人は知識人層を含めてアホだから知らない。シェイクスピアは、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1st Viscount St Alban(s)、1561-1626。65歳で死)という若い貴族だ。一時、、エリザベス一世(女王)の、宰相までやった。この男だ。 そして、まさしく、このフランシス・ベイコンが、エリザベス一世の隠し子で、実の子供(中略)大(だい)思想家のニーチェとアメリカのマーク・トウエインがはっきりとこのように書いた(中略)ニコラス・ベーコンの家に、エリザベス女王(21歳の時に産んだ。1554年。25歳で女王に即位した )の隠し子( bastard バスタード。私生児。現在は婚外子=こんがいし=と言う)(中略)フランシス・ベーコンは大(だい)思想家、哲学者であって、大(だい)知識人だ。このベーコンが秘書として使っていたのが、トマス・ホッブズ(中略)(※ホッブズ)が、政治動乱を嫌って、大陸に渡って、オランダのハーグで、デカルト(René Descartes、1596-1650年、53歳で死)と、そして、恐らくガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564-1642年。77歳で死)とも、1624年頃、どうも3人で会っている(中略)エリザベス一世は、14歳の時に、初めて自分を犯した(初体験)トマス・シーモアという貴族を愛した。この貴族の男を、死ぬほど愛していた。だが、このハンサムで女貴族たちに人気者のトマス・シーモアは、断頭台で死んだ。この時から、エリザベスは冷酷になった。それでも21歳の時に、○○○・セシルという大貴族と、隠し子を作っている。このセシルがフランシス・ベーコンの実の父親で、彼の友人のベイコンと奥さんどうしが姉妹だったので、そっちの赤ちゃんにした。これがイギリス史の真実(中略)このように国家体制の中で、一旦ついてしまった大きな嘘は、どうしても500年間も隠し通さなきゃいけないことになる。これと、ほとんど同じ問題が、日本の源氏物語にも有る、と言うことだ。光源氏の実像である藤原道長が、実のお姉さん(本当の真実は、血のつながりはない)の詮子(東三条院)と一緒に若いころ作ったのが、後の一条天皇だ。この一条天皇を道長が最大権力者になったときに、上手に操った(中略)一条天皇は、最後には怒り狂って、「巍臣乱国(ぎしん・らんこく)」と言う文を、宸筆(しんぴつ。天皇の直筆の、きたない字で書かれた文章 )で、書いて今も残っている。道長のことを、自分の実の父親だ、と、薄々(うすうす)知っていただろうに。「臣下のくせに、天皇である自分を蔑(ないがし)ろにして、良いように国家を動かし壟断(ろうだん)している(乱国)」と、一条天皇は発狂寸前で書いた。そして譲位させられすぐに死んでいる。そのあとの三条天皇(さんじょうてんのう)も、藤原氏を嫌って、呪って死んだ。後一条天皇も、道長の娘が生んだ子なのに、やっぱり怒り狂っていた(中略)藤原道長のお父さんは藤原兼家(ふじわらのかねいえ、929-990年、61歳で死)と言う。兼家の5番目の息子が道長です。兼家は藤原北家(ほっけ)といって、そのころは京都が都(中略)権力者になっていた兼家が死んで、長男坊の藤原道隆(ふじわらのみちたか、953-995年、42歳で死)がもう既に右大臣、左大臣をやって太政(だじょう)大臣になっていた。で、この道隆が995年にコロリと死ぬんです。ということは藤原北家としては、兼家の次の息子たちが重要になる。おやじの兼家と一緒に動いて、自分の朝廷内にいる敵対勢力を潰して回っていた、藤原道兼(ふじわらのみちかね、961-995年、34歳で死)という次男坊がいた。ところが、こいつも7日後に疫病で死んでしまった。この長男次男は優秀な男たちだったと思う。だが次の三男(道綱[みちつな])と四男(道義[みちよし])は、アホで能力がなかった。それで五男坊だった道長が、一気に内覧(ないらん)という職につく。この内覧というのは、右大臣左大臣とは種類が違うが、高級官僚だ(中略)光源氏であるところの道長は、若い頃、元気で、遊びほうけている。ものすごい遊び方をしている。13,4歳から激しく女遊びをしている。もう、すさまじい女遊びだ。周りは、その事をほったらかしだ。誰もそれを止めない。なぜなら天皇の隠し子で、権勢のある藤原家の息子だから。だから貴族のいろんな女たちに手を出して回って、ものすごい数の恋愛、性体験をしている。同性愛や、幼女性愛(現代のペドフィリア Pedophilia だ)も。それが源氏物語の前の3分の2だ(中略)終わりの「宇治10帖」よりも前の、「葵上(あおいのうえ)」を、道長=光源氏 が、のちに理想の正妻にした。が、それでも浮気をやめない。それが男だ 。このあたりから、熟年になった、道長が、憂鬱になって深く反省を始めた。それで若い頃に遊んで、自分が生ませた子供たちを、次々の自分の豪邸の、六条殿(ろくじょうどの)に、引き取って、面倒をみる、という話になる。 10代、20代の頃の道長は、のぞき(垣間見=かいまみ=る、と言う)をやったり、強姦したり、頭中将(とうのちゅうじょう)という悪い友達たちと、下級貴族の女たちを誘拐して犯したり、いろんなことをやっている。それが『源氏物語』の真実の話だ(中略)道長は5男坊(本当は、村上天皇の隠し子。だから、源氏)だから、遊び呆(ほう)けていて構わなかった。遊びがあまりに酷(ひど)いうことで、一時は、須磨(すま)さらに明石(あかし)に、危険を察知して逃げている。またそこで女性たちと遊んでいる。ところが、兄たちが死んで、それで、自分が最高権力者になってしまった。かつ、一条天皇の真実の父親だ。 道長は、極めて優秀な頭脳をした有能な為政者(いせいしゃ)だ。良く国を治めた。かつ独裁者である。天皇たちを、次々に取り替えた。自分の娘たちと結婚させていたのに。 道長は、多くの日記を自筆で書いて残している(国宝に指定)。こういう全体の骨格が、私たちの源氏物語の真実 ※引用者加筆.

玄人を称する陰陽師なる者が登場して、これが暦づくりの専門家となって、まったく論理性のない暦算天文学に基づいて「吉凶占いの暦」が作成され、奇怪にもこの怪しげな暦が、民衆を統治する者──天皇や将軍──の権威となっていたのだ。すべてが迷信に動かされる当時にあって、吉凶占いが人心を惑わしたと言ってわれわれが馬鹿にすることはできまい。現代でも神社仏閣で御神籤(おみくじ)を引いて、大吉・大凶に何となく喜怒哀楽を感じたり、宝くじを買って招き猫の前に置いて縁起をかつぐこともあり、血液型が何か、何の星座の生まれか、といって性格を判断したり、二酸化炭素温暖化説の迷信を信じることは、誰にもあることだ。昔の日本では朝廷の役所である “陰陽寮” の陰陽師の中でも、安倍清明以来続く陰陽道の家柄の土御門(つちみかど)家と、幸徳井(こうとくい)家(本姓は賀茂)だけが暦づくりの権利を持ち、暦に関して一切を管理して牛耳っていた。彼らが説く陰陽道とは、古代中国に生まれた易学の一種で、「一切の万物は、相反する陰と陽の二気によって生じる」とし、たとえば「陽」は日・春・南・昼・男、「陰」は月・秋・北・夜・女とし、ここに火・水・木・金・土の五行を加えて、陰陽五行と呼ぶ迷信である。これらによって天変地異、災祥、吉凶を占うのが陰陽五行説であった。しかしどれほど手の込んだ細工をしたところで、科学的な計算ではないのだから、一年の長さと一ヶ月の長さの関係は、次第にずれてくる(中略)日本が進歩したのは、土御門家と幸徳井家に代わって天文方が暦の計算をおこなうようになった点にあり、暦を編纂する実権が、京都の陰陽師から江戸幕府の天文学者に移ったのである。だが陰陽師は全ての実権を手放したわけではなく、暦の全体編集権を握って放さなかった。そのため、まず最初に江戸天文方が暦の下書きを作ると、これが朝廷の暦学者である幸徳井家に送られ、幸徳井家が日々の吉凶を占って、占いなどの怪しげな説明や意味を書き入れ、これをまた江戸天文方へ送って修正がほどこされ、再び幸徳井家を通じて京都で印刷される。次にこれを再び天文方で校正して全国の版元に配られると、各地で刷られた暦がまた天文方で見直され、間違いがなければ、ようやく全土に配られる、というきわめて手のこんだ手順が踏まれたのである。この作業全体を統括したのが、土御門家(安倍家)であり、暦の作成に関する認可権を持ち、天文学者の認定にまで、その支配力がおよんでいた。およそ何の道理もなく金と時間をかけてつくられるこの高価で不正確な暦を、みなが恭(うやうや)しくおしいただいている馬鹿バカしさに反発したのが、ほかならぬ金銭感覚に鋭い大阪商人(中略)天才児・関孝和は、ニュートンとほぼ同時期に微分・積分の一歩手前までたどり着いた(中略)(※関は)ピタゴラスの定理を証明した。ケプラーの法則を理解するのに必要な楕円の面積を求める公式を発見した。いやいや、まだある。 のちに伊能忠敬たちが測量で利用する三角関数表も、門弟と共につくりあげていた。 彼は、一七〇八年(宝永五年)という早い時期にこの世を去っている。 惜しむらくは、日本の暦学・天文学は、朝廷を支配する “陰陽寮(おんみょうりょう)” でおこなわれ、星占い師と言ってもよい陰陽道の家柄の人間がこれを牛耳っていたため、関孝和本人の頭脳は、天文学に直接影響されなかった ※引用者加筆.

源氏物語の続きの解説は、副島隆彦氏の掲示板に直接お伺いください。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/nba7dcf1f8237

https://note.com/wandering_1234/n/n5d30d1ae9219

https://note.com/wandering_1234/n/nd7c6f7393882


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