見出し画像

「君たちはどう生きるか」ハードモード。原作を読んで映画をみよう。「路傍の石」。

2023年に話題となって通り過ぎた「君たちがどう生きるか」は、単に宮崎駿が言及から読まれたのではなく、何か人生的な、何か社会の指針的な、何か誠実な生きてゆく人間の姿が、文章の平明さのなかに表現されているからこそ、多くの読者に読まれたところがあるだろう。

今回紹介するのは、その著者:吉野源三郎ではなく、当初この本を執筆する予定であった吉野源三郎の盟友、今は忘れられた作家:山本有三の作品「路傍の石」だ。
山本有三の作風は「君たちはどう生きるか」と同じ。なすべきことを只管にやって行く人間の誠意、義務、試み、感激の裡にこそ人生の価値がかくされている、という一貫したモラルを描いている。

その一つ「路傍の石」とは、身も蓋もない言い方をすれば、愛川吾一という少年が田舎から身売りされてまずは地元の商家で、やがて東京の商家で懸命に働く、というはなし。この手の物語では異色なことに、吾一は奉公務めをはっきり嫌っており、学業に専念したいのだが、母子家庭の経済状況がそれを許さない。苦難の果て、最終的に恩師との再会によってその第一歩を踏み出すまでの過程を記したぶつ切りエンドの長編小説だ。
どこかフワフワしているコペル君と違って、吾一は、少年に一人のなかなか人生にくい下る粘りをもった、負けじ魂のつよい、浮世の波浪に対して足を踏張って行くガッツがある。苦難を「持って生れたものを誤らないように進めてゆく、それが修業」という体でそのまま受け止めるのではなく、あくまで学業という目的のために理不尽や差別に対して食い下がろうとする。それが吾一少年の持つ魅力だ。

それは原作者の山本有三の実人生の軌跡と同じ。彼は呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれ、跡取り息子として裕福に育ちながらも、高等小学校を卒業し12歳となった後、父親はそれ以上の学問を許さず、無理やり東京浅草の呉服商に奉公に出される。
案の定、変りものの、役に立たない小僧として扱われ苦痛から翌年逃げ出して家にかえる。それでも父親には、学問を許さず、家業の手伝いをさせられた。
十八歳になって、漸く母のとりなしで高等教育を受けるため上京できるのだが、12から十八の間の6年間、何もできなかったもがき、苦難が、吾一という人物に投影されているのは、間違いない。

と同時に、父親・愛川庄吾が当時流行りの民権運動に深入り、そのくせ他人を信じない打算だけの人生であっという間に先祖代々の遺産を食い潰して妻子に迷惑をかける、そして「情けは人のためならず」と自身の信念を子供に押し付けて将来の進路すら狂わせる、現代はもちろん当時としても「親父」としてもなかなかストロングなナチュラルヒールっぷりと、母親・愛川おれんの生活やつれした薄幸ぶり、主人は愚かその子息まで名前を言わず「小僧」呼ばわりして吾一を人間としてではなくモノとしてこき使う呉服商・伊勢屋の面々も、また印象に残る。

原作も良いが、映画版も捨てがたい。

今や忘れられた戦前戦後を代表する映画監督:田坂具隆の手による1937年の映画版では、原作のエッセンスを漏れなく抽出。小学校期の少年たちの抒情の世界、中学校期に一転、日陰においやられた少年への共感を詩的にまぶしている。主演は1941年の映画版「風の又三郎」の又三郎となった片山明彦少年とあって、純粋ながらもどこか気高い心を持つ悟一少年のイメージとピタリ合致。
丹念な描写の積み重ねによって生みだされるそのヒューマンな映画世界。よく言えば折り目正しい、悪く言えば修身的な作りで、退屈な作品といえば作品。(「君たちがどう生きるか」をそのまま映像化すれば、まさにこの映画の通りになるだろう。)

唯一映画らしい映像マジックが光るのが、鉄道を用いたシークエンス。時代背景は明治末期とあって、まだまだ機関車が珍しかった時代。原作にはない「汽車が横切るのを少年たちが足踏みをして見届ける」シーンを序盤に挿入することで、鉄道が重要な役割を果たす原作の2つの名場面の見事な伏線となっている。

ひとつは吾一が、同級生同士の度胸試しの話となって、その場の行きがかりで「汽車がゴーッと走ってくるところを、鉄橋の枕木にぶら下がってみせる」とやってもないことを言ってしまい、それを自ら敢行してみせるシーン。
鉄道唱歌を歌って茶化していた同級生たちも、汽車が近づいてもなお動かない吾一を見るや、散り散りに。やがてレールを伝わってゴーッと地響きがしてくる。枕木が唸るのを吾一は耐える。吾一がしがみついているかへばりついているかすらわからない、知覚も感覚もなくなった無表情をカメラは捉える。汽車の車輪が恐ろしい速度を出して通り過ぎていく。
けしかけた中で一人残った同級生:京造と、息を吹き返した吾一のが抱きしめ合い、友情を確かめる一連の流れが、起承転結の「起」を締めくくるハイライト。

もうひとつは、吾一が風呂敷包みを抱え、決意して東京行の汽車に乗るシーン。少年の顔は、はじめて、自分が自由になったことを感じて晴々としている。自分が乗っている列車が、周囲のものを蹴飛ばしていくのを窓から顔を出して見る。
その自由の気分も束の間、東京に着いた途端に、その人混みに圧倒される(そしてまたも吾一は人に騙される)ことになるのだ。

まとめると、映画を見ても原作を読んでも同じなのは、コペル君同様に多感な時期の少年が、コペル君以上の苦難と、身勝手な大人たちや、他方でコペル君のおじさん同様に尊敬できる人々との交流を通して、精神的に成熟していくさまは、さながら「君たちはどう生きるか」ハードモードといった感触。

環境に恵まれている優等生タイプのコペル君に感情移入できず、家業の豆腐屋を手伝う浦川くんにむしろ感情移入するタイプであれば、戦前はあって当たり前だった困難の中で藻がきつつも成長していく悟一少年の心の動きに、いつか感じたことのある感情を重ねて、引き込まれてしまうのは間違いないだろう。
「君たちはどう生きるか」の底抜けの純粋さに途中読書を挫折してしまった、それでもなお純粋な情念を忘れられない大人であれば、この長冬場の読書に手に取って損のない作品だ。


なお、作者の山本有三は、著作権の確立、戦後憲法における口語体使用など、日本文学は愚か日本人の精神に強く寄与した人物であることにも、最後に触れておこう。

いいなと思ったら応援しよう!

ドント・ウォーリー
この映画の話は面白かったでしょうか?気に入っていただけた場合はぜひ「スキ」をお願いします!

この記事が参加している募集