都市に「複数の時間」をインストールする方法
さて、今日は一昨日紹介した渋谷ヒカリエでの「庭プロジェクト」のメンバー(小川さやかさん、門脇耕三さん、鞍田崇さん)との議論を通じて考えたことについて書いてみたい。前回は鞍田さんのいう都市の「奥行き」の問題を考えたのだけど、今日は門脇さんによる「遺跡」的なものの都市における位置づけについて考えてみたい。
門脇さんの言う「遺跡」とはなにか。それはピラミッドとか、法隆寺とかそういうものではない。それが僕なりに翻訳すると、「都市の内部にありながら、日常とは異なる時間の流れ、スケールを感じさせるもの」だ。僕はこの話が、感覚的に分かった。僕は20代の頃、京都の妙心寺という大きな寺の南門の近くに減縮していたが、付近の住民はこの広大な敷地を自動車の通らない抜け道として、北側の一条通りとをショートカットする生活道路として使っていた。ここはかなり有名な古い寺で、建物によっては応仁の乱の矢傷がまだ残っていたりする。こういう建物の前を、お好み焼き屋や喫茶店や銭湯の行き帰りに行き来していると、普段は強く意識していないのだけど、なにか自分の人生とは無関係に大きな時間の流れが世界には存在していることを体感する。門脇さんが言いたかったのは、たぶんこういう感覚なのだと思う。都市に、生活空間に複数の時間が流れていること。そのことで、複数の時間が流れていること。こうしたものが、人間がその場所に行くことで暮らしの中で自然と外部につながってしまう経験をもたらす。だからそのために「遺跡」的な場所や建物が都市には必要だということが言いたかったのではないかと思う。(これは、前々回記した鞍田崇さんの「奥行き」の問題に通じているだろう。)
だから、圧倒的に古いものである必要はない。たとえば、今の渋谷駅前のバベルの塔たちの中に、昭和末期や平成初期くらいの雑居ビルが混じっていて、そのビルのもたらす「違和感」がしっかり機能していればそれは彼の言う「遺跡」としての力を発揮することになる。実際に門脇さんのここ数年の関心は「近過去」にある。彼がコロナ禍中にヴェネチア・ビエンナーレ建築展の日本館キュレーターを務めたとき、昭和の住宅を一度解体し、家具や遊具などにリメイクして展示したことを覚えている読者も多いだろう。
さて、そこで僕が考えたいのはこうした過去のものが正しく「遺跡」として機能する条件だ。
僕は京都に住んでいた頃から感じていたのだが、そこが観光地としてパッケージ化され、テーマパークの一部のようになってしまったおき、それは都市の「内部としての外部」としての力を、門脇さんのいう「遺跡」としての力を失ってしまう。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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