本が好きな人よりも本が好きな自分が好きな人が多い時代に、物書きや本屋はどう生きるべきか
今日は前回に続いて、「世間」的な話をしたい。僕も小さな出版社のようなものをやっていたり、自前のウェブメディアを運営しているので、実はこういうことそれなりの頻度で考えている。普通に考えれば、ここでこのような時代だから本の文化を大事にしたいと毎日訴えてセルフブランディングして、自己啓発本やビジネスマン向けのエセ教養系podcastを批判してムラの中の株を上げる……みたいな戦略が短期的には有効なのかもしれないし、そうしたほうが同世代や年上の業界人から優しくされるのかもしれないが、まあ、そういうのは他の人がやればいいと思う。僕が考えているのはもう少し根本的なことで、ここまでメディアが多様化した今、「本」という形式の、それも日本のローカルな出版事情によって細部が決定されているものを死守する必要はどう考えてもない、ということだ。
大事なのは他人の考えが文章という形式でまとまっているものを読むというコミュニケーションの豊かさを、現代の環境に合わせて最大化することで別に既存の出版文化を守ることじゃない。いや、そのいい部分は守ったほうがいいと思っていて、僕なりに、少なくともSNSで吠えているだけの人よりは身を削っていろいろ試行錯誤してきたと思うのだけど「本」は「手段」であって「目的」じゃない。ここは絶対に忘れてはいけないと思うのだ。
この問題を考えるときに参考になる本が3冊ある。稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』、レジー『ファスト教養』、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』だ。
この3冊の共通点は、まず(SNS社会で少なくとも従来の形式では共有されなくなりつつある)文化的な「教養」の重要性を訴えている本であること、「表面的には」この種の「教養」を軽んじたアプローチをしがち(だと思われている)「若者」や「ビジネスマン」を批判し、「文化系」の溜飲を下げるパッケージを採用していること、そしてその文化系自己啓発ヒーリング的な「外見」は完全に「罠」であり、むしろそういったエサにつられて集まってきた読者に著者の訴えたい裏の(真の)メッセージを届ける(レジーなら国策としての殖産興業と「教養」概念の関係、三宅なら出版史と労働文化史の相互参照による書き換え)という「戦略」が取られていることだ。
要するに、これらの本は「教養」の変質を嘆く本というパッケージを釣り餌として利用して「教養」を伝えているのだ。これは、「本が好きな人よりも本が好きな自分が好きな人が多い」ことが前提にした戦略だと言えるだろう。
まあ、この3点目についてはもしかしたら編集者の戦略かもしれないし、著者の無意識の産物かもしれないし、結果的にそうなっただけかもしれない。しかし少なくとも3冊とも実際にそう機能しているのは間違いない。
ちなみに僕はこの3人をそれぞれ、個人的に知っているのだが僕は自分の周囲の人たちが、次々とこのような「戦略」を取り始めているのを眺めながら、どこかでもうちょっと川の上流からアプローチしないと消耗戦になるのではないか、とここ数年ずっと思っていた。そしてまだ発表する段階ではないけれどこの半年は仕事としてもこういうことを真剣に考えないといけない状況になっているのだ。
ざっと論点を整理しよう。
まずは、人間は少なくとも前世紀ほどには本を読みたくなくなっている。悲しいことだがこの現実を否定しても、ある方面へのポイント稼ぎ以上の意味はないだろう。
しかし知識や情報への欲望は健在だ。ただしSNS上の承認の交換を優先する人のほうが多いのは間違いない。
そして知的な生活に憧れている人は多く、知的に周囲から見られたいと思っている人は(残念ながら)もっと多い。
その上でいま、何が不足しているかを考えたい思う。
まず不足しているのは「ポスト本」的なものの存在だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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