物事を「つくる」快楽は確実に存在する。しかしそれを「感じる」のは「相対的に」難しくなってきているのではないかという話
今日は昨日の続きで、制作(work)の快楽をどう評価するか、という問題について考えたい。
一般論として物事を制作する(work)それ自体に、快楽は宿る。これは、よくよく考えてみると少し変わった快楽で、共同体や他の人間から承認を得る快楽とも、ゲームを「攻略」する快楽とも異なっている。もちろん、制作することで他の誰かから承認されることもあるだろうし、うまくつくれたことにゲームの攻略の達成感を得ることもあるだろう。
しかし0から1を生むこと、自分が作らなければ世界に発生しないものを生み出したときの快楽はそのどれとも違う。もっと言ってしまえば、自分が欲しいものを他の誰も作ってくれないので自分でつくるしかない、という思いを実現したときの快楽は他のもので代替できない。
当然、それは自分の中の理想の制作物にはならず、できあがってからここはこうすればよかった、やっぱりそうしておくべきだったと後悔ばかりが湧き上がってくる。その後悔が次の制作に人間を動機づける。
これはやはり、人間や共同体から承認されることとも、それが金銭や名誉という形で評価されることとも、ゲームの攻略のもたらす達成感とも、そして単に走ることそのものの快楽、ともまったく違う。
ただ、この制作の快楽は、覚えるハードルが高いが一度覚えるとなかなか手放せない中毒性がある。この中毒をどうもうたらすか、というところに結局のところは場の生成力としてのクリエイティビティの問題は集約されるように思う。
つまり、そこにいる人たちに制作の快楽を知ってもらうことが必要になる。このとき、重要なのは事物と人間が偶然に出会うことだ。人間は自分が自覚した欲望を満たしてもあまり変化しない。むしろ横や斜めから刺されたときに結果的に新しい欲望が芽生え「変身」する。しかしこのとき共同性が働くと周囲の人間との協調の中で恒常性が発揮され、変身が失敗する(通常の心身に回復してしまう)のだ。特に今日においては、人間が検索ワード「ではない」事物の襲撃を受動的に受ける場所、というのがクリエイティビティの鍵になる。そしてそのとき人間は「孤独」であることが望ましい。
ここで問題となるのは「共創」をどう考えるかだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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