『中動態の世界』は情報技術によってあまり良くないかたちで回復してしまっているのではないか(という問題を歴史認識とテラスハウスから考える)話
昨日は僕の私塾(PLANETSCLUB)で、國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんの対談本『責任の生成』を取り上げた。本全体を僕なりの視点で解説する講義と、参加者同士のディスカッションを交えた形式なのだけれど、今回は題材が良かったのかかなり盛り上がった。
参加者の中には現役の医師や介護従事者がいて、それぞれの現場から持ち帰った知見から意見が交わされた。特に話が盛り上がったのが、本の中でも争点になっているパターナリズムと自己決定のジレンマをどう解消するかという問題と、情報技術と中動態の対談だ。
前者は要するに、医師や介助者が障害者を上から「こうした方がいい」と指示するパターナリズムが80年代に「反省」された結果、今度はインフォームドコンセントを前提とした「自己決定」が病院の側に都合のよい責任回避の論理に利用されてしまうという問題だ。この本は、そもそも「自己決定」という概念の前提となる「意思」の概念を疑うところからはじめよう、と根源的な批判を試みているのだけれど僕が今日書きたいのはもう一つの論点の方、つまり「情報技術は中動態の世界を可視化しているのではないか」という問題についてだ。
結論から述べると、僕は「中動態の世界」はこの情報社会の中で、それもあまり良くないかたちで実現されてしまっていると考えている。かいつまんで言えばシリコンバレー的な人間観はむしろ人間を「能動/受動」ではなく「能動/中動」の対立で捉えている。そしてその結果として人間は、「責任」というものにうまく向き合えなくなっているのではないかというのが僕の仮説なのだ。
そもそも、中動態とは何か。これは國分さんの有名な著書『中動態の世界』で広く知られることになった言葉の「態」だ。今日の言語にはほとんど残っていないが、インド・ヨーロッパ語族などに属する言葉の「古語」は能動態と受動態が対立するのではなく、能動態と中動態が対立していたという。
たとえば「謝る」という表現は能動態だ。しかし、この言葉は行為として謝罪するだけではなく、自己の中に謝罪心が生まれていることも意味している。しかし、この表現では単に行為として謝っているのか、謝意があるのかは分からない。逆に「謝される」と受動態にしてしまうと何らかの強制力が働いて、本心に背いて謝罪に追い込まれてしまうというかなり違った意味になってしまう。こうした混乱が起きてしまうのは、この「謝る」という行為が本来は能動/受動の対立では捉えられないものだからだ。
しかし今日の社会の多くは「能動態/受動態」の対立を採用している。これは國分さんの考えでは「意思」や「責任」の概念を人類社会が必要としたために、行為の帰属先を決定する「審判する言葉」が生まれたからだという。
要するに、自由意志というのは少し考えれば分かるように厳密には存在できるはずがない(あらゆる人間の行為には環境が作用している)が、自由意志が「ある」というフィクションを導入しないと「責任」が問えなくなり、たとえば「法」のようなシステムは機能しなくなるのだ。
つまり能動/受動は人間の社会を「回す」ために導入された言葉遣いで、人間にかなり無理をさせている。たとえばアルコール依存症の人に「意思を強く持て」というのは多くの場合は逆効果だし、加害者に「反省」してもらうにはまずはその人が犯罪に手を染めた因果をさかのぼり、つまりその人が置かれた環境等の被害者でもあることを認識してもらうことが有効なのだという。
要するに、一度忘れてしまった中動態の世界を思い出すことで、現在の社会(「自己責任論」とか)をかなり根源的に見直すことができるのではないか、というのが國分さんの立場なのだと思う。
もちろん、僕もこの立場を全面的に支持する。ただ、情報社会論の立場からつけ加えるなら、事態はもう少し厄介なものになっているようにも感じている。
たとえばまだ記憶に新しい『テラスハウス』の事件を思い出してもらいたい。これは同名のリアリティーショーの出演者が、SNS上の誹謗中傷に耐えかねて自殺した事件だ。このとき誹謗中傷をしたユーザー、「炎上」を狙い過剰演出を行ったテレビ局、そして「炎上」を看過どころか、消極的に歓迎していたSNSプラットフォームが、実質的にその「責任」を押し付け合うとう醜悪な光景が展開した。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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