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『関心領域』 感想〜闇バイトと謎解きゲームは区画できない?〜
・読み飛ばし可かもしれない一般的な前提(生きる演技と働く倫理の融合)
『関心領域』、究極のお仕事もしくは闇バイト映画。
そもそも世界にはなにもない。あってもそのままでは知覚できない。その茫洋たる漂いの耐え難く無目的な広がりを、人類はさまざまな“区画”の導入によって自らが認識可能な次元にまで引きずり下ろしてきた。
昼と夜、祈りと労働(朝課・晩課)、hour,minute,secondという線的な歴史把握を可能にする時間という区画の導入、猟場と洞穴、都市と農村、生活空間と公共空間、ことに鍵のかかる自室やマイホームという人工的な空間設定による区画整理。そして両者の複合によって仕事と余暇(プライベート)という身体的と精神的とが一体になったような区画の概念が生まれ、自然のままの認識不可能な世界に規律と秩序をもたらし、同様に元来無目的で怠惰な人間(サルトル「実存は目的に先行する」)に生きる動機(モチベーション)や欲望を与え、さらにはその反語としてなんらかの目的なり欲望がそれを達するために個人が実際的に取り得る限られた手段から徐々に乖離し肥大していくことによって、新しいタイプの無気力(フランスの社会学者デュルケムの言った“アノミー”)や近代的自我の葛藤、現代でも会社が従業員に対して社訓の中で禁じているような、ということは今や誰もがそれをプライベートな時空間において抱え込んでいることが自明視されている「感性的な悩み」、人生においてなんとなくもやもやするあの感じを生んだ。
つまりわれわれは人工的に区画整理された世界のそれぞれの舞台上でその場に見合った演技を要求され、審査員と観客の期待に応えることで役者(脱輪用語に言う“演技者”)になる。そうして複数の舞台でカメレオンのように役柄を取り替える器用な役者であり続けることによって、ソレソノモノになっていく。
ここにおいて生きることと演じることは一体化し不可分のものとなる。わたしは限定的な舞台の上で与えられた役をただ演じるのみであり、塀の向こう側の別の舞台でなにが行われているのかについては知らない。知っているが、知らない。知っていると同時に、知らない。少なくとも演じている間はこの舞台が世界のすべてであるかのように振る舞うべきだ。
こうした生きる演技についての倫理意識は、マックス・ウェーバーが資本主義を加速させたプロテスタンティズムの倫理の重要素と喝破した“天職理念”(べルーフ)=「少なくとも労働時間中はあたかもそれが天職であるかのごとくサボらず真面目に働かねばならない」という自己調律の内的義務感と重なり合う。
まさにこの一致点、近代に発生したかつては厳密に区画されていた祈りと労働の時空間のなし崩しの混濁、あるいは労働の劇場化(生きる演技と労働の倫理が重なり合うポイント)こそが資本主義システムに理論的な前提を与え、その発展を強力に推し進めた原動力なのだ。
とすれば、フロイト=ラカンの功績は、“超自我”(「あたかもAであるかのように振る舞わなければならぬ」という命令を自己の内部から発してくる父)や“象徴界”(言語を中心に様々な区画を敷きその敷居を跨がぬことを要求する社会秩序)といった概念の導入によって、19世紀末に急増した新しい病であるところの神経症の発症要因を、生きる演技と働く倫理が不可避的に交わるポイントを日常の各所に配備することによって起動する資本主義システムの構造それ自体のなかに求めた点にあると言えるだろう。
今さら言うまでもなく、フロイトはウェーバーら社会学者の思想とも共振する早過ぎた構造主義者であり、ポスト・モダニストでもあった。
結局のところ以上のような“資本主義の精神”こそ、人間がたとえどんなに残酷な仕事でもそれが仕事である限りにおいてあたかも自分にとっての天職であるかのように誠実に勤め上げてしまえることの理由であり、闇バイトに手を染める者の罪悪感を軽減するシステム作りのためのいつも変わらぬ参照源なのだ。
即ち、闇バイトはほとんど必ず仕事化される。秩序化され、会社化され、区画整理され(〜エリア担当など)、出世や昇給の制度が整えられ、役職が用意され、同僚あるいは先輩後輩のやり甲斐を軸にした人間関係のネットワークが張り巡らされ·····要するに倫理的な劇場空間が整えられるわけだ。
お客さんとして外から観察しているぶんにはわかるまい。だが、ひとたび整えられた舞台の上に上がってしまえば、われわれはたちまちその芝居を上演するために適当な役者であるかのように振る舞い始めてしまうだろう。なぜなら、そうする方が一般的に言って“倫理的に正しい”態度であるからだ。
したがって、闇バイトに手を染める者の罪悪感の希薄さを云々するのはナンセンスだ。ウェーバー以後、フロイト以後、そしてアウシュビッツ=アーレント=アドルノ以後、問われるべきは常に個人の倫理ではなく「少なくともあなたがAである間はあたかもAであるかのように振る舞うのが倫理的に望ましい態度である」という二重化された命令を内から(ウェーバー/フロイト)、外から(ベンサム/フーコー)発し続ける資本主義の精神=構造的な倫理の方であるはずだからだ。
だいたいドイツはヒットラーを生んだ国でもあるが、ウェーバーを、そして元祖プロテスタントであるルターを生んだ国でもあるのだから、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とはまさに骨絡みの関係にあるわけだ。
・『関心領域』映像の分析と批評
本作は実在したアウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスの日記(『アウシュビッツ収容所』、講談社学術文庫)をもとにしたマーティン・エイミスによる同題小説(『関心領域』、早川書房)を原作としているらしい。もっとも、小説の内容は映画とはかなり異なるようなので、映画はこれら二作を独自にミックスしたものと考えた方がよいかもしれない。
まず示されるものは、“区画”。
パンフォーカス(フレーム=画面内のすべてのものにピントが当たっている状態)によって、画面前景と中景にヘス家の立派なお屋敷と愛らしく綺麗な庭(全部自分でデザインしたの、とヘスの妻は鼻高々)が、後景に高い塀の仕切りを挟んでアウシュビッツ収容所の煉瓦造りの煙突がにょきっと飛び出しているさまが同時に捉えられ、画面手前と奥を整然と分かつ塀の区画がいかに揺るぎないものであるかが、右から左、左から右へのカメラの水平移動によってしつこく強調される。カメラがどれだけ動こうとも、塀はどこまでもその移動に合わせて伸びていき、彼我の相違の変わらぬ強固さをあくまで主張し続ける。
また、妻が母の来訪を受け庭を案内するシーンでは、カメラが左から右へゆっくりパン(水平移動)を続け、優雅な会話を嗜む二人とは対照的に忙しく立ち働く使用人たちの姿がワンショットで捉えられる。
区画は秩序の象徴であり、アウシュビッツ収容所自体も無数の区画に分割されることで効率的に管理されている。
無論、高く聳え立つヘス家の塀はユダヤ人とそれ以外という人種の区画にも通じる。これまた世界の無目的な広がりに耐えかねた人類が人工的に措定した分類区画だ(例えばこういう本がある
)
もっとも、実際にはナチスはユダヤ人以外にも病者や不具者、文学者やインテリなど体制にとって都合が悪い/利用価値がないと判断した人間をひとまとめにして収容所送りにしたわけで、そうした一事をもってしてもナチスの人種主義の怪しさを指摘するに充分であるわけだが。
カメラによる水平区画の強固さの執拗な表示は、ヘス一家が無意識に抱いている恐れの所在を観客に伝えもする。即ち、彼らにとっての最大の恐怖は“区画を侵されること”なのだと。
自作自演の手紙(「同志ヘスの働きぶりや素晴らしく、転属はふさわしい処置とは言えず〜」)を出すなどの涙ぐましい工作も空振りに終わり、アウシュビッツからの転属を通達されるルドルフ。妻にそのことを報告すると、彼女からは「あなただけ行けばいい。わたしは子供たちと一緒にここに残る」とまさかの答えが返ってくる。いや気ぃ強っ!(転属の話を耳にした直後、大股でドスドス家の中をのし歩きつつ使用人に当たり散らす場面が印象的)ってのもあるが、庭を自慢するシーンからも明らかな通り、彼女はようやく手に入れた念願のマイホーム、その整然たる区画秩序に夫よりいっそう強い執着を抱いているのだ。
さらに、ルドルフが子供たちとボート遊びをする序盤のシーン。川上からなにかが流れてくるのを見て取った彼は慌てて子供たちを退避させ、その後入念にからだを洗い清める。流れてきたものは収容所で焼却されたユダヤ人の遺灰と思しい。身体的・政治的な穢れの感覚に対する恐怖と同時に、“ユダヤ性”が区画を貫通してくる事態に対する無意識の心理的恐怖を感じ取ることができよう。
川、水、灰、煙、粒状のもの、空気、ウィルス。区画を凌駕し貫通する“広がり漂うもの”(人工的な区画の秩序を再び無の混沌に引き戻そうとする自然。反対に庭は管理調整された自然 art natureの象徴)は「区画の外にも別の舞台が存在する」事実を強烈な臭いやいがいがする喉の違和感において告げ知らせ、役者としての労働者の欺瞞的なあり方を暴き立てる。映画のラスト、ルドルフはまさにこの“広がり漂うもの”によって復讐を受けることになるだろう。
シューティングゲームの横スクロールにも似たカメラの水平感覚があれば、より映画的と言っていい奥行き感覚の表出もある。本作は、登場人物たちが、とりわけ主人公であるルドルフが、さまざまな場所のさまざまな通路を奥から手前へ、手前から奥へと通り抜けていく様子が繰り返し映し出される“通路映画”にもなっている。塀を挟んで職場と家庭の反復横跳びを続ける彼が妻と決定的に異なるのは、区画を貫通する者としての不可避的な性格にあるわけだ。
男であり労働者であり闇バイトの中の人であり日々その場に応じた複数の役柄を取り替える真面目な役者であるルドルフは、その倫理意識の高さゆえ労働災害に遭うハメになる。
塀の向こう側に広がる職場の風景を観客に見せることなく伏せ続ける本作にあって、唯一開示されるお仕事シーン。いかにも人体に有害そうな真っ白い煙に包まれながらなにかを真剣に観察している様子のルドルフの首から上だけの姿が確認できる。おそらく部下がユダヤ人たちを射殺する様子を監督しているのだろう。その成果が焼却炉の効率化に向けた提案、一度に500もの遺体を処理できる焼却炉の開発計画へと繋がっていく。
しかしこれほど仕事熱心で「働き詰め」、日々至近距離であの煙を身に浴び吸い込んでいるとあっては·····彼が秘かに健康上の問題に悩まされていたとしても不思議ではない。
「やった!そっち(アウシュビッツ)に戻れるぞ!」妻に喜びの電話をかける直前、ルドルフは医師の診察を受け腹部を触診されている。そしてナチス事務所の暗い階段を一人で降りていく最中、二度立ち止まり嘔吐する。あるいは精神的なストレスのゆえかもしれないが、直後にカットが切り替わり、現代の収容所博物館でかつての犠牲者たちが履いていただろう大量の靴がガラスケース越しに展示されているさまが映されることから、おそらく彼の命は、そしてヘス家とナチス・ドイツがポーランドのアウシュビッツの地に築いた区画は、これより以後そう長続きはしないだろう。
・『関心領域』感想と個人的な展望
序盤で早くもネタが割れる。
「塀を隔てたこちらとあちらの空間をパンフォーカスで同一画面の奥行きに捉え水平方向のカメラ移動によってその差異を淡々と強調する」作風であると知れるのだ。
なるほど意図はわかるけど、さすがにそれだけやったら映画としてはきついなーと思っていたところ、焼却炉の煙突から出る煙、犠牲者の悲鳴や兵士たちの怒号、銃声といった音(冒頭からしばらく観客の耳に逆撫でするヘス家に産まれたばかりの赤ん坊の泣き声がやがて塀の向こうから漏れ聞こえてくる不穏な音の予告になっている)、つまり煙と音という区画を貫通する二大“広がり漂うもの”が意識的に画面内に導入される工夫のおかげで最後まで退屈せずに見ることができた。
が、全体に破綻なくこじんまりとまとまっていて「小賢しい」という印象は拭えない。
ここまで縷々述べてきたような人工的なカメラの動きや、ソレソノモノを見せず観客に想像を促すいかにもA24っぽいオシャレな作りは、あらかじめわれわれが抱く感興の幅を狭め誘導を行っているようで少しく腹立たしく感じられる。
実際にも「あえて説明せず淡々と進んでいくぶん、意味がわかると恐ろしい」「日常は残酷さと隣り合わせ」「人間は見たいものしか見ない」「わたしも知らないうちに見て見ぬふりをしてしまっているのかもしれない、と反省させられた」といった予想通りの反応を幾つか目にしたが、そもそもそうとしか言えないように作られている、というつまらなさなり窮屈さがあるように思われるのだ。
そしてなにより、これほどのシリアスなテーマを選んでおいて昨今流行の“意味がわかると怖い話”=一種の謎解きゲームの形式に落とし込んでしまっていいものだろうか?という倫理的な疑問が残る。
案の定、ネットでは「意味がわかると怖い!?」「胸糞映画」「徹底解説」「深読み考察」といった文言が散見されるが、それはなにも受け手側の問題とばかりも言えまい。明らかに本作は最初から謎解きゲームとして構成されているのだから。
その際立った証拠が、ルドルフが子供たちにベッドタイム・ストーリーとして語り聞かせるヘンデルとグレーテルのおとぎ話(法官だったグリム兄弟が往時の民族意識の高まりから政府に要請され、ドイツ各地の民話を採録したグリム童話中の一編。つまりその出自がナショナリズムの発露である点においてナチズムの精神と呼応している、との批判がある)に重ね合わされつつ、童話の内容とリンクする形でこれまたわざとらしく暗視カメラによるネガポジ反転した幻想的な映像(あいまいさと人工性によって謎解きゲーム感覚を強める)の中にある少女の謎めいた行動を捉えるパートの存在だ。
おまけに二度繰り返されるこのパートの開始時にいかにも「不穏ですよ〜」といったふうのMica Leviによる叫びにも似た効果音が挿入されるざーとらしさには辟易してしまう。Micachu名義などでニューヨークのアヴァンギャルドシーンで頭角を現し、数年前から映画音楽を手掛けるようになり注目を集める新鋭のセンスには僕自身期待を寄せているところではあるが、本作の劇伴における安直な効果の付け方には、過剰にマッチしているぶんアンマッチ、あるいはトゥーマッチなのでは?と首を捻らざるを得なかった(ぜひとも『MONOS』におけるレヴィの卓越した仕事ぶりと比較してみてほしい)。
いったい、現代において謎解きゲーム感覚を排した明るく楽しい話題作を輩出することは不可能なのだろうか?
その成否が送り手と受け手双方の肩にかかっていることを、われわれは強く心に留めておくべきだろう。
(*`ノω´*)コッソリ・・・
『関心領域』なんてあんなたいしたことない映画になんでこんなに書かなきゃいけないんだ(笑)
— 脱輪 @野生の批評家 (@waganugeru2nd) February 9, 2025
なんについてでもいくらでも書けてしまう、ついついしゃべりたくなってしまう自分に腹が立つ(笑)
コスト配分とか「いいところ」を覚えろや(笑)
10代20代じゃないんだぞ(笑)
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