自分らしさを尊重する学びをを実現するための一手『奈良女の教育』に学ぶ信の教育観(中編)~「令和の日本型学校教育」とは?~ー『日本人のこころ』23ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
あっというまに6月ですね!
そして、
わたしはいよいよ修学旅行です!
毎年、6月は多忙を極め、
あっという間に過ぎ去っていってしまうような気がしていますが
忙しさで自分自身が目指しているものを
見失わないように時間をつくって学んでいきたいと思います。
今回は、
現在の我が国の教育はどのような姿を目指しているのか?
この問いを深堀していきたいと思います。
今回も、
よろしくお願いいたします。
1)「日本型学校教育」の強みと課題とは?
2021(令和3)年1月26日に中央教育審議会より
という答申が出されました。
この答申が出された背景には、
近年における子供の多様性の量的・質的な拡大があります。
発達障害の可能性のある子供
不登校や不登校傾向の子供
経済的な困難を抱える子供
海外のルーツをもつ子供などの増加に加え、
これまで十分に光が当てられることのなかった
特定分野に特異な才能のある子供についても
文部科学省はようやく本格的な検討を始めました。
子供がうまく学ぶことができないのは、
子供の側に障害があるのではなく、
カリキュラムや学習環境の側に課題があるからにほかなりません。
一人一人の実情に合わせて、
可能な限り障害を取り除き改善する必要があります。
我が国もようやくその方向に舵を切り始めたのです。
「令和の日本型学校教育」という独特な表現は、
これまでの「日本型学校教育」の成果や強みを確認するとともに、
現状における課題を明らかにし、
必要な改革を進めることでよりよくしていくという考え方から
生まれました。
「日本型学校教育」の成果や強みについて、
『答申』は、
としています。
さらに、新型コロナウィルスの感染拡大に伴う長期休業を通して、
とも述べられています。
このような成果や強みをもつ「日本型学校教育」ですが、
社会構造の変化に伴い、
克服すべき数々の問題の存在も浮かび上がってきました。
『答申』では、
まず
ことを挙げています。
また、
としています。
さらに、コロナショックによる
としました。
これに加えて、
も指摘されており、
GIGAスクール構想によって、
「令和時代における学校の『スタンダード』」とされた1人1台端末や
高速大容量ネットワーク環境の活用とその日常化が強く望まれてもいます。
2)「個別最適な学び」と「協働的な学び」とは?
このような現状を踏まえ、
「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実によって
「日本型学校教育」をさらに高めていこうという方針で進んでいるのです。
まずは、「個別最適な学び」についてです。
『答申』では、
としています。
「個に応じた指導」とは、
1989年版学習指導要領で打ち出された概念であり、
「指導の個別化」と「学習の個性化」の2つからなるとされてきました。
今回の『答申』でもこれを踏襲し、
・子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、
指導方法・教材や学習時間の柔軟な提供・設定を行うこと
などの『指導の個性化』
と
・子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を
提供することで、子供自身が学習が最適となるように
調整する『学習の個性化』
の双方が必要であることを確認しています。
そして
『指導の個別化』と『学習の個性化』を
教師視点から整理した概念が『個に応じた指導』であり、
この『個に応じた指導』を学習者視点から整理した概念が
「個別最適な学び」であるとまとめています。
もう一方の「協働的な学び」についてです。
『答申』では、
として、位置づけを明確にしました。
そのうえで、
集団の中で個が埋没してしまうことがないよう、
「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善につなげて、
子供一人一人のよい点や可能性を生かすことで、
異なる考え方が組み合わさり、よりより学びを生み出していくようにする
ことが大切であるとされました。
つまり、
「個別最適な学び」の成果を「協働的な学び」に生かし、
さらにその成果を「個別最適な学び」に還元するなど、
「個別最適な学び」と「協働的な学び」を一体的に充実し、
「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善につなげていく
ことが必要だということなのです。
これらを受けて『答申』は、
目指すべき『令和の日本型学校教育』の姿を
「全ての子供たちの可能性を引き出す,
個別最適な学びと,協働的な学びの実現」とすると結論づけたのです。
3)我が国はどのような教育の姿を目指すべきか?
以上のことから今の我が国の教育は、
「日本型学校教育」という
・すべての子供たちに一定水準の、
しかも広範囲にわたる全人的な教育を提供していること。
・身体的、精神的な健康を保障する福祉的な役割を担っていること。
などにおいて、大きな成果や強みをもっていることが強みであり、
課題である
・「正解主義」と「同町圧力」からの脱却。
・自立した学習者への育成。
・「正解」ではなく、「最適解」「納得解」を求め続ける思考への転換。
を解決することで、
学校で学んだことが
子供たちの「生きる力」となって、
明日に、そしてその先の人生につながってほしい。
これからの社会が、
どんなに変化して予測困難な時代になっても、
自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、判断して行動し、
それぞれに思い描く幸せを実現してほしい。
そして、明るい未来を共に創っていきたい。
そのような教育のかたちを目指しているのです。
そもそも我が国は、長い間
個別の学びで年齢に関係なく学びたいことを学ぶ「寺子屋方式の教育」で
庶民の識字率を驚異的に高めていった国でした。
たとえ大勢の子供が一つの部屋に居合わせても
学習は個別的に進められ、教材も一人一人違っていました。
ほとんどの時間、
子供たちは師匠がその子のために準備した教材を各自のペースで自習して、
それを一人一人順番に師匠が呼んでは、
少しの時間、個別に指導するのが基本だったのです。
家庭教師のようなマンツーマンでの指導は、
その子のペース、知識や思考の状態、
意欲や体調などを徹底して寄り添うことができるため、
子供から見た学びの効率はほぼ最大になり、
無理なく着実に学びを保障することができるのです。
認知倫理学の研究(J・T・ブルーアー、松田文子・森敏昭『授業が変わる―認知心理学と教育実践が手を結ぶとき』)によると、
マンツーマンでの指導では、
教室での一斉指導の4倍の速さで同じ水準に達することが知られています。
それが明治期に入ると、
国民すべてに初等教育を施そうとする考え方が広がっていきます。
問題は、大勢の子供にどのようにして教育を施すかでした。
個別のでの指導は子供の学習効率は高いものの、
1人の教師が面倒を見られる人数には限界があり、
人件費面でどうにも採算が合わなかったのです。
そこで採用されたのが、
学級集団を相手にした一斉指導だったのです。
これにより、
一度に多くの子供(明治期には80人を今と同じ広さにすし詰めに)が
学ぶことができ、
さらに安価に教育を行うことができるようになったのです。
個性よりも団体規律が優先され、
効率よく指導するために一斉画一型の伝達方式がとられ、
学校は競争原理の評価システムのなかで
優秀者を選抜する装置となっていきました。
一斉授業を基本とする明治維新後の授業スタイルは
今日でも多くの学校で踏襲されていますが、
我が国の教育者は子供同士が学び合うことのよさを追究し、
社会性を同時に育む授業研究を積み重ねてきました。
しかし、
多くの教育者にとって、
一斉授業のなかでどの子にも自分らしく学ぶことができる
チャンスをつくることは至難の業です。
教育者それぞれに学習スタイルがあるように、
子供にも自分に合った学ぶスタイルがあるからです。
近年では、
深刻な少子化に逆行するかのように、
「通常学級」から離脱する子供の数が増え、
特別支援学級の対象者と不登校の子供の数が急激に増えています。
これは、今日の学校を取り巻く環境において、
多様な子供たちを相手に一斉授業スタイルで
横並び的な教育内容を全員揃えて指導することには
限界があることを示唆しているとみるべきです。
今、我が国は過渡期を迎えています。
我が国が目指そうとしている
『令和の日本型学校教育』が目指しているものは、
家庭教師や寺子屋など近代以前の子育ての習俗である
「個別指導方式に由来する教育方法」であり、
を取り戻すことなのです。
そして、大正期に
「個別最適な学び」の成果を「協働的な学び」に生かし、
さらにその成果を「個別最適な学び」に還元する学習法を
体現している学校がありました。
それが、奈良女子高等師範学校附属小学校、
現在の奈良女子大学附属小学校なのです。
次回は、奈良女が確立した「奈良の学習法」から
自分らしさを尊重する学び方について考えていきましょう。
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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。