やさしい秋の味わい
昨日、高校時代の友人と3人で呑んだ。
1年半ぶりくらいだろうか。
僕の入院・手術などもあってなかなかそういう機会に恵まれなかったのだ。
1人は呑み屋の開拓が趣味らしく、近場は知り尽くしているようだ。
カウンターだけのうまい小料理屋があるから、そこで呑もうという。
常連の彼は、店から「11周年の日にぜひ」と招待を受け、おかげで僕たちもドリンクすべて半額という周年記念価格にありつけた。
聞けばその彼、1か月に3度はその店に通っているそうで常連の極みだ。
そんなに通って、さらに新規開拓にも余念がないとなると、家でメシを食べることはあるのだろうかと少し心配になったりもする。
カウンターは常に客で満たされ、人気のほどがうかがえる。
地鶏の刺身、ミョウガの天ぷら、ズリもやしなど、いやぁうまい。
ビール2杯、焼酎5杯くらい呑んだだろうか。
17時から始めて、気がつけば22時を回っていた。
この歳にして弾む話はやっぱり「これからどうするよ」だ。
1人は子供が社会人になるまでのメドがついたとして、あと2年で退職し、ボランティアなどで社会との接点は持ちつつ、悠々自適を目指すと言う。
1人は今の仕事にまったくおもしろみを感じないものの、子供がまだしばらく学生なので耐えるしかないと言う。
そして僕は、まだ高校生の息子がいるが、他人の夢につきあうだけの人生はつまらないから自分の道を歩みはじめたと言った。
3人とも会社勤めにほとほと嫌気が差しているのは同じだ。
めまぐるしい社会の変化、テクノロジーの進化にさらされて、常にアップデートを求められるが、それについていけない自らの衰え。
加えて昭和の残党である僕たちの働き方は、平成の若者のそれとは大きく乖離して、進むも八卦、戻るも八卦という状態なのだ。
だから、自分のこれからを考える。
子供にもうお金がかからないから自由にいく、まだお金がかかるから耐える、まだお金がかかるけど自由にいく。
判断は三者三様だけど、子供が気にかかるというのは共通していた。
高校時代、口を衝いて出る言葉のすべてがボケかツッコミで、まともな会話なんて何一つしなかった僕たちも、ちゃんと親になっているのだ。
で、いま何しとん?と訊かれ、資格を取ってキャリコンをし、本を編集し、地域活性化の講演をしとう、そうそう開業届も出したでと言った。
このnoteではそんな話は幾度となくしているが、リアルの友人に説明したのはそういえば昨日が初めてかもしれない。
なんやそれ、どこまで進むつもりやねんと2人はしばし考え込む。
皆、それだけ現状に満足していないということかもしれない。
僕とて、残された1分1秒を後悔しながら送りたくないだけだ。
またちょっと相談乗ってや、息子と娘の相談にも乗ってやってくれへん?と言われ、えぇでいつでもと答え、再会を約して別れた。
*
かみさんはここしばらく東京の上の息子のところに行って不在。
だから、呑みに出るには下の息子の食事を用意してから。
昨日は季節の炊き込み、舞茸ごはん(と焼きうどん)。
かみさんは今晩遅く帰ってくる。
晩ごはんまで二人きりやなと言うと、息子は少し顔を歪めた。
(2023/9/24記)