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小説「モーリス」を読み、映画「モーリス」を振り返ってわかったこと

*ネタバレを含みます。というより映画なり小説なり、少なくともあらすじを知っている前提で書いてますのでご了承ください。
*いまさらそんなこと気付いたの?と思われる方もいるかもしれませんが、どうぞ生暖かく見守る精神でお願いしますw <(_ _)>


はじめに

前記事でP・ハイスミスの話を書きましたが、その流れで、ちょうど図書館で海外文学のコーナーを見ていたら、ふと目に留まった作品がありました。
それはE・W・フォースターの「モーリス」です。

ジェームズ・アイボリーが監督した映画「モーリス」は、当時劇場では観なかったのですが、数年後のテレビ深夜枠で放送していたのを、両親が寝静まった後にコッソリ観た…ような記憶があります😅。なんせ35年近く前ですし、その後も何回か見ているので記憶が曖昧。昔は深夜枠でお色気系の洋画とかやってたんですよね。ポーキーズとかエマニュエル夫人とか。その枠と同じにされたら不本意かもだけど、同性愛を扱っている作品ということで禁忌感があったからか深夜枠で放送され、ゴールデンタイムの金曜ロードショーとか日曜洋画劇場とかでは放送はされなかった。淀川長治先生による「モーリス」の解説、是非聞いてみたかったなぁ~!!

当時の私は純粋で初心な学生だったもので(←あの純粋さはいずこ!😅)、同性愛を扱ってる映画と言うだけで物凄い背徳感を感じながらドキドキし、イギリスの階級社会のこととか、怪しい催眠療法とかはあまり理解できず、なんかそんなのがあるんだなと想像はしながら、主なフォーカスはストーリー展開と、愛を語らい合い、苦悩する登場人物達に殆どが向いていました。
いや…そんなキレイごと言っちゃダメですね。乳繰り合う美青年たちを見てニヤニヤしていた…こっちが正解w。

モーリスがクライブによって同性愛の種を発芽させられ、ゲイを自覚していったのと同様に、私もこの映画で”同性愛(作品)好き”の萌芽を覚えたような気がします。これも言い方がキレイすぎるか…、”腐り始めた”ということですw。

当時、「モーリス」と並んでルパート・エヴェレットの「アナザーカントリー」(1984)と、ダニエル・ディ・ルイスの「マイ・ビューティフル・ランドレット」(1985)もセットで語られることが多く、それらの出演俳優を特集したムック本も買った記憶があります。でも私の中では「モーリス」が一番好きでした。
この英国美青年同性愛映画ブームと同人誌のやおい文化とが合流し、それによって腐女子の層が拡大強化され、90年代のBLブームに発展していった…そんなような勝手な印象です。違っていたらスイマセン( TДT)ゴメンヨー。

「アナザーカントリー」は「モーリス」同様イギリスの寄宿学校が舞台で美しい男性俳優が多く出てきはするのですが(コリン・ファースの映画デビュー作)、共産主義者がどうこうと結構思想&政治色が強い作品。
「マイ・ビューティフル・ランドレット」は、同性愛を扱ってはいるけど移民問題、パキスタン人青年とイギリス人青年の人種や民族間の文化の違いなんかもテーマにありつつ、イギリスの下層労働者階級の閉塞感みたいなものも描いていて、社会派な作品という印象の方が強い。

なので「モーリス」が一番美青年が乳繰り合ってくれる作品(←言い方っw)というか、同性愛に正面から向き合った恋愛がテーマの作品でもあり、美しい俳優たちも出ていて眼福感もあり、まだまだ初心と言うか、単純だった私には一番取っつきやすかったんですね。

それで、その印象深い作品の原作はどんなものなんだろうか?と、最近何気にマイブームの”映画と原作を比べてみる”というのをしてみたくなり、本を借りて見たのでした。

読みくらべ

読んだのはコチラ。2018年初版の文庫本。

分かりにくい用語はページの端に都度説明を併記してくれていたりするので凄く親切。そして巻末にある上智大学教授の松本朗氏の解説も、現在の視点からのもの(先述した同性愛映画ムーブについてや近年のLBGTQムーブメントもおさえてる)なので今の読者に響きやすい気がします。

ただ、どうしても翻訳をすると、それも少し昔の言葉のものだったり、文学的な表現なんかを訳したりすると、少し意味が分かりにくい部分がでてきたりするんですよね。誰が主語だかわからなくなったり。

それで、もう少し昔の、映画「モーリス」が公開された当時の翻訳本があったりしないだろうか?と別の図書館を訪れてみたら、ありました!!
1988年初版、片岡しのぶ氏翻訳の本が。

映画人気を受けて出版されたというのが一目瞭然の表紙。コチラは文庫本ではなく立派なハードカバー。いまだに愛蔵している方も多いかもしれませんね。

読み比べてどちらが優れているとかはないのですが、どちらもイイ所と足らないな、分かりにくいなと思う部分があって、私的には二冊読むことで上手いこと補い合え、より作品の理解度が深まった…という感覚です。(二冊手元に置いて読み比べるなんて作業初めてしました)
この二冊でもわからなかった部分は英語で書かれた原本もさらにチェックして、確認するように努めました。

読み比べてみると、翻訳者の個性があるのがよくわかって面白かったです。特に片岡氏の訳では会話部分のクセが凄くてw、登場人物になり切ってノリノリ書いてらしたのかな~なんて想像してしまうぐらい。

例えば、モーリスが隣人のバリー医師を訪ねて、同性愛を治せるか訊く場面でのバリー氏の言葉。
加賀山氏の翻訳は、
「私はこう思ったものだ、この子が学ぶべきことはまだたくさんある、人生は難しい学校だぞ、とね。われわれにものを教えることができるのは女だけだ。そして女には、いいのと悪いのがおる。いやまったく!」
凄く普通の日本語と言うか、初老の男性医師らしい言葉遣いだなと言う感じ。

一方の片岡氏の翻訳は、
「ああ、こいつはまだまだこれからだ、人生はきつい学校だわい、そう思っておまえを見ておった。われわれ男に人生を教えてくれるのは女だけだ。善い女ばかりとは限らん。悪い女もじゃよ。そう、そうなんじゃて!」

先に加賀山氏の翻訳を読んでいたからか、”そうなんじゃて!”って…クセがスゴイと笑ってしまいましたw。昔話に出てくる田舎爺さんみたいな喋りなんですもん。でもこのキャラに個性を乗せる感じ、段々クセになるというか、好きになっていきましたよ。

地方の肉屋、労働者階級のアレックの父親の口調も、
加賀山版では「まだ時間はある」なんだけど、
片岡版は「時間はまんだあらあな」とかなり訛らしてたり。
原文では“Plenty of time yet,”と書かれているだけなので、そこまで訛ってる感じでもない。キャラの出自、背景等をセリフに込める、メリハリを付けるには大事なテクニックのひとつではないでしょうか。

とはいえ、モーリスの母親がモーリスのことを”あんた”呼びで書かれていたりもする。上流階級のご婦人言葉(~あそばせ、みたいな)との差を付けたかったのかもしれないけど、そこそこいい家庭の夫人(モーリスの家は中産階級)が子供のことを”あんた”呼ばわりはしないんじゃ…と、時々私の感覚との食い違いもあったり…。
「モーリー、私のモーリー」なんて言って猫かわいがりしてるのに、突然「あんたの言うとおりよ」なんてなるから違和感が…。私的には「モーリー、あなたの言うとおりだわ」の方がしっくり来るんだけどな~なんて思いながら読んでいました。

まあ好みですよね。私は片岡版の方がより親近感をもてたような印象です。

ということで、翻訳本二冊、そして時々原本もチェックして、いざ映画「モーリス」も再度鑑賞。そして、そこから発見した違いや、改めてわかったこと、気付いたことなどをこの記事では書いていきたいと思います。

映画と原作の違い

作者の想い

で、原作を読んでみて、私は今まで、(映画によって)ある意味大きな勘違いと言うか、ミスリードさせられていたんだということに気が付いたのでした。

前掲した「モーリス」のトレイラーのサムネ、ヒュー・グラントでしょ?(以降ヒュー様と書くので了承願います(^^ゞ)
↓この4K版のトレイラーもサムネがヒュー様。


この記事のトップ画像に並べた各ポスターもモーリスとヒュー様演じるクライブが写ってる。

このポスターなんて、知らない人が見たらヒュー様が主役なんだろうな…と思ってもおかしくないくらい、ある意味かなり強引なミスリード。

手前でボヤ~っと映ってる方、彼が主役のモーリスです。

英語版ウィキはプロットを全て載せてくれてるので誤解はそれほど生じないと思いますが、日本語のウィキのあらすじはこんな感じ。

同性愛が犯罪とされていた、20世紀初頭のイギリス・ケンブリッジ。凡庸な青年モーリスは知的なクライヴと親密になり、ほどなく互いに恋愛感情を抱くようになるが、高潔なクライヴは肉体関係を拒み通したまま学生時代を終える。社会に出て大人になってからも付かず離れずの友情は続くものの、自らの性衝動を御しかね孤独に苛まれるふたりは、やがて互いを傷つけあうようになっていく。政治家を目指すクライヴが上流の女性と結婚したのを機に、友人関係が復活する。モーリスはクライヴ邸の若い猟場番アレックに性指向を見抜かれる。

モーリス(小説)wikiより

最後の一文だけ太字にしましたが、そこまではモーリスとクライブの関係のことしか書いてない。まるでアレックとのパートはオマケかのような扱い。それも”アレックに性指向を見抜かれる”って、それだけ!?😲いやいや、二人はちゃんとその後カップルになるんですよ!せめて恋に落ちるぐらいは書いてもいいんじゃ?と思わずにはいられない。

映画のラストシーンも、クライブが在りし日のモーリスを思い出し、物思いに耽りながら窓の外を眺めるシーンで終わる。凄く”クライブが”印象に残るような演出になっている。

このラストシーン、映画と小説とでは少し時系列が入れ違っているのです。

映画:サウサンプトンの港からモーリスはまずクライブに話しに来る
→ボートハウスでアレックと再会&抱擁
→クライブが窓の外を見ながら在りし日の回想と沈思。

小説:サウサンプトン港から真っすぐアレックのいるボートハウスへ
→アレックと再会&抱擁
→それからクライブに話をしに来る
→話してる最中にモーリスがいなくなり、クライブはモーリスに対して少し腹を立てつつ、選挙のゲラをチェックをする。

小説では、この時点でモーリスにとって一番大事なのはアレックであり、クライブは二の次。そしてクライブもモーリスに対してそこまで感傷的になったりしていない。しかし映画ではまずクライブに話をしに来て、最後も余韻たっぷりにクライブの少し悲しげな顔を映して終わる

小説は4部構成で、前2部はモーリスとクライブの話。後2部はモーリスとアレックの話に一応ほぼ半々に分かれている(アレックは3部の後半にならないと出てこないけど)。小説を読んだ読者の感想では、クライブはモーリスがアレックと巡り合うための前置きでしかない、なんていう辛辣な意見もあるくらい。
映画でも大体上映時間の半ばぐらいにアレックは登場する。でもそこからの後半で小説ほどフォーカスされているかと言われると…う~ん、どうだろう?どうしても画面上だとヒュー様の華やかさとアレックの小汚さを比べてしまって、ヒュー様にスポットが多く当たっていたような気になってるかも?

ということで、監督のジェイムズ・アイボリーがどれほど意図していたかは分かりませんが、映画はモーリスとクライブ、それもかなりクライブ推しの映画として撮られ、さらにポスターなんかを見ても、そのプロモーションはあからさまなクライブ推し。そして映画を観た人の推しカプもモーリス&アレックよりもモーリス&クライブ推しが圧倒的に多かった印象があります(あくまで私の感覚ですが)。Youtubeのコメント欄や海外掲示板でもクライブ人気…いや、人気というのとは違うか…。モーリスを振り回して捨てる訳だから嫌な奴だとは認識されてる。でもモーリス&クライブカップルにフォーカスした話題が多い。

なんでここまでクライブ推しになったのか?それはヒュー様のスターパワーが影響したんじゃないかな~?と言う気がしないでもない。主要3キャストそれぞれ良さはあるんだけど、やはりヒュー様が目を引く美しさを放っているし、あのタレ目は母性本能くすぐるし、アイボリーもある意味ゾッコンになってしまって、ついついヒュー様をフィーチャーしたような映画になってしまったんじゃないかと(笑)。

ヒュー様が自分の出演した映画について語る動画。モーリスのオーディションを受けた経緯とベネツィア映画祭でズボンが脱げた事件を語ってるw。

「フォー・ウェディング」で組んだリチャード・カーティスの映画になると(「ノッティング・ヒル」「ラブアクチュアリー」など)前とは違う演技をしないと批判されると言いながら、結局毎回同じキャラ、気の弱い優男キャラになってしまう?されてしまう?とボヤくのが面白いw。でもああいうキャラこそヒュー様の当たり役で、皆も好きなんですよね~。母性本能くすぐるタイプが。

あとモーリス&クライブは二人にとっての初恋の物語。初恋幻想というか、初恋は特別で尊いもの的な考えは世界共通あるのか?どうしても皆そこに感情移入しやすい&感傷的になる部分があるんでしょうね。そちらに人気が出てしまうのも無理はないかなと言う気もする。相手の一挙手一投足が気になってドキドキするあの感じ。キュンキュンしますもんね~。それに比べるとモーリス&アレックはちょっと唐突な感じ、プロセスが雑とは言わないけど分かりにくいんですよね。特に映画だと。小説ではもうちょっと二人の鞘当て的なものがじっくり描かれていて、テンションが上がっていく感じがある。

そういう私も、この映画はモーリスが主人公ではあり彼の成長物語的側面を追いかける作品だとわかっていつつも、貴族、政治家、権威社会というホモソーシャルに潜むホモフォビアの呪縛から逃れられず、その檻の中に残されたクライブの悲哀が最も印象に残った部分でした。だからこの映画をハッピーエンドだと思ったことがなく、悲しい映画だと思っていました。

しかし原作を読んでみて、さらに作者フォースターの解説が巻末にあるのですが、そこにはハッキリと、

「ハッピーエンドにするのは必須だった。そうでなければ、そもそも書き始めなかった。とにかく小説の中では、二人の男が恋に落ち、その小説が許す限り永遠にそのままでいることにしようと心に決めていた」

と書かれている。
フォースターはハッピーエンドの同性愛作品を書きたかったのです。

この小説が書かれたのは1913~1914年。しかし長年仲間内に読ませるだけで世間に発表されることはなかった。上記の解説は1960年にフォスター自身が書いている。その時点でもイギリスではまだ同性愛は違法で、だからこそハッピーエンド=同性愛を肯定=違法行為を奨励していると捉われかねないので発表しないままでいた。しかし1967年にソドミー法が改正され、1970年にフォースターが死亡。そして1971年に漸く「モーリス」は出版される。
つまり、フォースターにとってハッピーエンドは絶対譲れない部分であったということ。だからこそ長年発表せずにいた。そこには信念があるわけです。

では映画「モーリス」はその著者の信念をしっかりメッセージとして観客に届けたか?と言うと…上記したように少しブレてしまっているわけです。確かに映画としてはこれはこれで良作ではある。しかしフォースターのメッセージをちゃんと届けてあげて欲しかったなぁ~と、なんだか悲しいというかちょっと残念な気も感じてしまった次第。だって55年近くも秘めて守ってきた想い&信念ですよ!彼が何度も推敲した上での伝えたいメッセージなのに。そこはブレないように最大限のリスペクトをしてあげて欲しかった…ともやっぱり思ってしまいます。

ハッピーエンドになった方のカップル、今回観直すまでの私の印象をぶっちゃけると、見事カップルになったものの二人の未来を考えた時、全てを投げうって本当に幸せになれるんかいな?と、どちらかというと否定的に考えていました。今は肉欲を満たせる相手が出来、頭の中がセックスのことでいっぱいいっぱいのバカップル状態。でもそのうちお金が無くなったり、ゲイバッシングに苦労したり、階級差から障害が生じたら口論ばかりになったり、浮気したり、碌な結末にならないんじゃ…と、嫌~な未来しか想像してなかった(←ペシミストなもんで(^^ゞ)。二人がHappy Ever Afterになる未来なんて、申し訳ないけど1ミリも考えたことなかったです(←考えたげて~)。私の想像力の欠如のせいかもしれませんし、この映画のモーリス&アレックカップルの扱い方の影響があったからかは厳密には分かりませんが…😅。

ということで、原作を読んで一番良かった点は、原作者フォースターの想いを漸くちゃんと受け取れたということでしょうか。

そしてこれだけ原作に忠実に作られているような映画でも、制作陣によるミスリーディングというか、印象操作とまで言ったらいい過ぎだけど、著者の想いを汲み取らずに改変して作ってしまうんだなぁ~と。まあ監督脚本のジェームズ・アイボリーは「君の名前で僕を呼んで」でもSad Endだったわけで、そういう方が好きなだけかもしれませんが…。でも個人的な感想だけど、本ってハッピーエンドの方が読み終わった達成感とハッピーエンドの相乗効果で評価高くなりがち。逆に映画はハッピーエンドだとSad Endに比べると記憶にあまり残らないような気がする。2時間程度しか向き合わないわけで、鑑賞後も余韻を持たせて考えさせるにはSad Endの方がいいのかな?その違いについて語れる作家兼監督みたいな人の意見を訊いてみたい。その辺りを意識して終わり方を変えますか?って。

そういうことを考えていた時に、たまたま観たドキュメンタリー映画「The Celluloid Closet」(1995)

ハリウッドにおけるゲイ映画の変遷を追ったドキュメンタリー。昔から様々な映画にクィア・コード(同性愛の文脈やシンボル)を潜ませていたんだなと、スゴク興味深い映画でした。

検閲のあった時代でも見る人が見れば(お仲間なら)分かるクィアな文脈を潜ませていたり、検閲が無くなってもゲイは笑いものにされる役とか、犯罪者とか、そういう役しか最初は与えられなかった。それが徐々に同性愛者も恋愛をする普通の人間だと描かれるようになっていくも、結末はSad Endが大半。やはりキリスト教的概念がしぶとくあって、同性愛=罪と捉える社会を反映していたからでしょうね。あまりおおっぴらに肯定しても社会の反発を招きかねない。今の日本でのメディアによるLGBTQ推しに根強く反発があるのと似た構図。ただ80~90年代のそういうSad End映画の制作陣のメッセージとしては、「同性愛者は罪深く不幸になって当然だからSad Endなんだ!」では勿論なく、「彼らをこういう悲しい結末に追い込むのは社会に蔓延る同性愛差別のせいではないですか?彼らが人を愛しただけでどうして差別を受けないといけないのですか?皆さん、よく考えてみてください!」と、現状を変えるきっかけにして欲しいということだったはずです。そういう意味を考えれば、ジェームズ・アイボリーが「モーリス」でSad Endを強調したのも、80年代後半でもまだまだモーリスとアレックが幸せになれない社会に対して、もっと考えてみて欲しかったからなのかもしれませんね。じゃあ、まあいいか?w アイボリーに対してモヤモヤしていたけど、そこに大義があるなら、それはそれで納得できる。どちらの巨匠のメッセージも意味があって今に繋がっている…ということですね。

金髪と黒髪

今回原作を読んで知った衝撃の事実。
モーリスは金髪ではなくて黒髪だった!!
そして反対にクライブは黒髪ではなくて金髪だった!!
(これは作中では書かれてなかった気がするけど、フォースターによる解説の中にケンブリッジ時代の知人でモデルとなった人物の描写があり、そこでブロンド、金髪白晳(肌が白く金髪)と書かれている)

さらには物語の終盤、クライブは”禿げてきている”なんていう描写もあって、え~ヤメテ~!!眉目秀麗なクライブのイメージがぁ~と結構ショックでした(苦笑)。

映画では金髪と黒髪の違いぐらいで体格的に差がある感じではなかった。しかし原作だと、モーリスは黒髪(多分セクシーなイメージなんだと思う)で体格も良い美青年。一方のクライブは金髪で白い肌、少し小柄な美少年タイプ…という感じ。なので小悪魔系で賢いクライブが”誘い受け”で、それに振り回される少し鈍めな脳筋”攻め”のモーリスが寸止めを食らい続けるという構図が原作では強調されてるんですよね(笑)。

ど~でもイイと言われそうですが😅、私的には結構大事なんですw
何といってもこの映画で映像的に一番美しくて印象に残っている場面が二人がバイクで遠出をして、草原で寝ころぶこのシーンだからです。

(久々にじっくり見たら、モーリス、クライブのシャツの中に手を入れて乳首いじってません?コレ。愛撫しまくりやんw。設定ではこの時20歳前後の男子だったわけで、ここから二人の蜜月期間の三年間、よく我慢させた&できたもんだ。モーリスは性欲でいろんなところがはち切れそうだったろうに…w。クライブ、そこまで触らせたんなら相互手コキぐらい許してあげなよ…な~んて下世話なことを考える私←それをしたら話が成立しない😝)

緑に包まれた二人、モーリスの金髪が太陽に透けて輝き、風に揺れて美しいんですよね~。この脳内に焼き付いたイメージが覆されるようで、衝撃を受けた訳です。

このシーン、この草原に来るのに二人はサイドカー付きのバイクでやってくる。そして映画ではチラッと映っただけですが、近くに用水路がある。つまり水辺。
私がこの記事↓で書いたバイクと水辺の法則。「モーリス」もちゃんとなぞっていたことに気が付きました。

原作の方では、このバイクが故障し、二人は近道の為にこの用水路を横切ろうとする。すると思った以上に深くて頭まで水に浸かってしまう。水辺で戯れるところまでちゃんと書かれていて、これが書かれた20世紀初頭からこのゲイの定番シンボリズムはあったんだと驚きました。二人が愛を認め合って、幸せの絶頂の時間。自然の中での人間性への回帰を表す自然と水辺の描写。

そして構想だけで書かれなかったエピローグでは、その後のモーリスとアレックは緑林に入り、そこで木こりになるというようなことが書かれている。ここでもやはり愛に従って生きるという人間性への回帰=自然回帰なんですよね。

この場面は「君の名前で僕を呼んで」のエリオ&オリバーのファーストキスのシーンでオマージュされてるくらいレジェンダリーなシーン。モーリスと言えばこのシーンと言っても過言じゃない。

この二人の髪の色は原作通りだったような…。一応アンドレ・アシマンの原作を頑張って原文で読んだんですけど…完全に忘れてしまってます(;^ω^)。

で、アレックはというと、”茶色い目”というのは出てくるけど、髪の色についての描写は無かった気がする(あったらスミマセン)。巻き毛というのは書かれていたかな?映画のアレックもクルクルとした巻き毛だったからピッタリのキャスティングだな~と思った記憶はあるので。

モーリスの誘惑(したりされたり)

原作と映画では尺の関係もありカットされている部分はもちろんあります。
上述のラストシーンのように少し時系列を入れ替えたりも。

カットされた部分で、ヘェ~そうだったんだ、と思ったモーリスに関してのことが2つ。

ひとつは、グラディス・オルコット嬢のエピソード。

モーリスがケンブリッジでクライブに惹かれていっている時期、実家に帰った際に家族の友人でモーリス家を訪れていたオルコット嬢に対して、強引に女はこういう風にされれば嬉しいんだろ?と言わんばかりにアプローチする。バイクで遠出してピクニックしたり、手を握ろうとしたり。それに対してオルコット嬢はゾッとして嫌悪感のあまりモーリスを拒否して家を去っていくというエピソードが語られる。

この時点でモーリスはクライブに惹かれてはいるものの、まだ自分が同性愛者だと自覚していない。薄っすら気づいてはいたかもしれないけど認めていない状態。というか認めたくないからわざとそういう行動をして自身を騙そうとしていたのかもしれない。だから世間が求める男とはこういう風に女性を楽しませエスコートするものだという男性像を必死に演じている。これまた無自覚に。
その形ばかりの男性性、全く愛情なんか感じない行為の数々にオルコット嬢は薄気味悪くなったというわけです。「あんた、目に好きという想いがこれっぽっちも宿っていないのに、なんで積極的に言い寄るのよ?キモッ!」って感じでしょうか。

このエピソードはモーリスがクライブに完堕ち、白旗上げて自分が同性愛者だと自認し、クライブのことが好きで仕方ないと認めるまでの過程において結構重要な部分。
この記事の中でも書きましたが、

自己のセクシュアリティ確立の過程で女性と付き合ってみたり、自認が遅れると結婚までしてしまう場合がある。そういう意味ではモーリスの表面上の行動に騙されることなく、断固拒否したオルコット嬢はファインプレー!!自分も、ましてモーリスも不幸な結婚で苦しむことを未然に防いだわけですから。

そしてもうひとつはディッキー・バリーとのエピソード。

ギリシャから帰ってきたクライブに別れを切り出され、二人の関係が終わり、その後、クライブがアン・ウッズ嬢と婚約したという手紙が届いた時。
隣家のバリー医師の甥であるディッキーがモーリス家に数日滞在する。

数年前はまだ子供だと思っていたディッキーが美しい青年に成長している姿を見て、モーリスは彼が第二のクライブになり得ないだろうか?と暗い欲望を募らせる。

ディッキーが部屋から降りてきた時の場面はこんな感じに書かれている。

”モーリスは彼の神を迎えるために立ち上がった。(略)優美な体は服に隠されていたが、並外れて美しいことには変わりなかった。この若者には新鮮さがありーーー花とともに登場したかのようにーーー節度があって人がいい印象を与えた”

花とともに登場したかのように…って(笑)、まるで少女漫画の王子様キャラ登場シーンの背後に花が描かれる場面そのまま。この小説が1971年に出版され、いち早くこのイメージが70年代から活躍した日本の少女漫画家「花の24年組」で共有されて定番化し広まっていったのかと思うほど。いや、マジで原点はここなんじゃ?アッ、でもまだ当時は日本では翻訳本も、原本さえも出版されていなかった可能性もあるのか…。だとしたら興味深い偶然の一致。古今東西、美しい人物の後ろにイマジナリーフラワーを人は見ているんですね~w。

そして情熱がたぎりすぎたモーリスは、ついにディッキーにこんなことを言い出す。

「ここは(元は)僕の部屋なんだ」
「(君に部屋を譲ったから僕は)いつもここ(屋根裏部屋)にひとりで寝ている」←少し罪悪感を植え付けようとしている?(苦笑)
「この上の屋根裏にーーもし何か用があればーーひと晩じゅう、ひとりきりでいる。いつもそうだ」

このモーリスの誘惑虚しく、ディッキーは部屋に(身の危険を感じて)鍵をかけようと思いつつ(結局は失礼だから?鍵までは掛けない)、翌日には去っていく。

その後もモーリスは職場で会った元気が良くてハンサムなフランス人男性に欲望の眼差しを向ける。しかしなんとかそういう好みの男性たちから距離を取ることで自制心を保つ。

そしてこの止まらない欲望との葛藤の最中、映画でも描かれたシーンが訪れる。
電車の中で鬱々と考え込んでいたモーリスに、恰幅が良くて脂ぎった男が淫らな行為を仄めかす合図を送ってくる。それにモーリスは激昂して彼を殴り倒す。
”モーリスは足元の卑劣で汚らわしい老人のなかに将来の自分の姿を見た”

映画ではこのシーンに至るモーリスの肉欲との葛藤が描かれていなかったので、少し唐突と言うか、いまいちこのシーンの意味が伝わってきませんでした。まさに将来の自分の姿を見た嫌悪感からあそこまで激昂したんですよね。それでバリー医師や催眠療法のジョーンズ氏に頼るところまで追いつめられるわけです。

今まで映画しか知らなかった私には、電車内での暴力シーンと、この催眠療法に至る部分が理解はできるんだけど少し唐突だし、そこまで同情的な感じでは見れていなかった。しかし原作を読むことで、なるほど、そういうわけで追い詰められたんだ…とスゴク理にかなっている展開だと納得できたのでした。

これまた余談ですが、ゲイに言い寄られる美青年がディッキーというのが、「太陽がいっぱい」でリプリーに好かれるディッキーを思い出す。ハイスミスは出版前の「モーリス」を読んで(何と言っても彼女もクィアな作家グループには属していたでしょうから、アングラネットワークから入手して読む機会はあったかもしれない)そこから引用したのかな~と思ったり。いや意外なところでゲイ作家が繋がってるなんてことありますからね。

そして、こういうことを考えていた時に、「モーリス」のカットされた場面を集めた動画を見つけました。(ヌード・シーンが多いからか制限かかってますが…😅)

3:30ぐらいから、ディッキーが登場し、モーリスがディッキーに欲望を抱き、モーションを掛ける場面が実は撮影されていたということ。そしてオルコット嬢とのエピソードも。やはり尺の関係でカットせざるを得なかったんでしょうね。職場でのフランス人にトキめいてるシーンも。

あと、リズリーが裁判の後なのかな?自殺したという結末も描かれている。これはそこまで悲惨にしない方が良いということでカットしたのでしょうか?
アレックが女中たちといちゃついてる場面にモーリスが出くわすという二人の初対面の場面もある。

あともうひとつ、映画で描かれていなくて原作にある印象に残った箇所がありました。それはクライブから「I love you」と告発された時、ラビッシュ!何をバカなことを言っているんだと拒絶してしまったモーリス。映画では距離ができてしまったクライブを遠くで見つめるくらいの描写でしたが、原作では凄く苦悩します。まずああいう対応をしてしまったことを後悔し、徐々に自分の気持ちを理解し始めていき、それを認めるまでに数日かかる。一方で友人が共通だったりするので、クライブと一緒にテニスをすることになったりもして非常に気まずい時を過ごす。しまいには夜寝ようとすると涙が滝のように流れ出し、声を殺して泣く。キスを想像して身悶えし、壁に頭を打ち付け、陶器を叩き割ったり。パジャマが破れ、手足が震えているのを見て驚く。泣き続けることが止められない…。

私も自分の感情を理解するのに結構時間がかかったりする質なので、このモーリスの苦悩していくプロセスは凄く共感したんです。彼みたいに壁に頭はぶつけたりはしないけど😅、顔を枕に押し当てて叫びたくなるような、あのどうしようもない感じが伝わって来て、グッと親近感が湧いた場面でした。

映画「モーリス」はどうしても尺の長さのせいで、こういうモーリスの感情を掘り下げたシーンが少ないのが残念な点でしょうか?余韻を感じる暇なくテンポよく進み過ぎるきらいがある。一方「君の名前で僕を呼んで」は溜めのシーンが結構あって、そこで観客は登場人物の苦悩なんかの感情を想像する”間”が結構あった。それによって余韻を与えたり、感情移入をしっかりできたり、シーンごとにメリハリがあった様な気がしました。

クライブの恐怖

原作にはなく、映画で創作された一番のパートは、ケンブリッジの学友であるリズリーがバーで兵士を誘って路地裏で淫行に及ぼうとするが警官に捕まる。そして裁判にかけられ全てを失う。その裁判をクライブが傍聴しているという場面。

この動画内で監督のアイボリーが説明しているのですが、
「スポットライト 世紀のスクープ」の監督Tom McCarthyトム・マッカーシー(俳優もやっている)と、「モーリス」を観ながらの対談。監督同士ならでは興味深い視点で語られる動画です)

確かに原作を読んでいると、クライブはギリシャ旅行に行って帰ってきたら完全に同性愛を断ち切り、異性愛者となっている。女性に興味が出てきた、愛することができると思っている人物にスッカリ変身している。そのパートは確かに今の時代なら尚更だけど、説得力がいまいちなんですよね。その前段部分もよ~く読んでいると、変化の兆候は書かれているにはいるんだけど、それでもそこまで変わる?欺瞞だという意識をクライブが持たないなんてことある?という疑問は頭の中をぐるぐる巡る。確かフォースター自身もこの部分は弱いと思っていたというような記述もどこかで見たような気がします。

監督のアイボリーとパートナーのイスマイルマーチャント、そして彼らとチームで脚本を書くことが多かったRuth Prawer Jhabvalaルース・プラワー・ジャブヴァーラ。彼女はこの時期は自身の小説執筆中且つ「モーリス」の小説はあまりよくないから興味ないということで脚本に参加はしなかった。しかし色々とアドバイス、指摘はしてくれたそうで、このクライブの異性愛転身の弱い部分に説得力を出すためにリズリーのエピソードを創作したら?とアドバイスしたんだと語られています。自分もリズリーと同じようになってしまうのではという恐怖を理由付けに持ってきたわけです。

この動画後半でトリビア的な話もしている。この裁判傍聴シーンのクライブ、唇をケガしているのを必死で隠そうとしている。実はこの後のモーリスとの別れのシーンでケガするんだけど、撮影の順番が前後し、時系列として先のシーンで既にケガしているから帽子で隠そうとしてるんだとか。そこまで注意深く見ていなかったので、ホントだ!唇ケガしてるぅ~ってなりましたw。ていうか、モーリス役のジェームズ・ウィルビーはケガするまでヒュー様の唇に嚙みついたの?血糊でなくて?そこまで体張る+一発撮りだったんだこのシーン…ということに驚きました。

呼んだ?呼んでない?論争

これはまだ私の中で、その意味の違いの重要性に対する答えが出ていないのですが…。

原作におけるモーリスは、部屋の窓から夜の暗闇に向かって「Come! 来い!」と二晩続けて叫んでいるんです。
それを聞いたアレックが「アレ?俺呼ばれてる?」となり、一応呼ばれたからハシゴ登ってきましたよって感じになっています。

一方の映画では、モーリスは窓から顔出して雨に当たったり、屋根に上って夜の冷気を感じたり、梯子を揺らしたりはするけど「Come!」とは言っていない。それなのにアレックが梯子を登ってきて、「俺のこと呼びましたか?旦那」と、超不穏なBGM共に寝込みを襲ってくるから怪しさ満載😅。

なぜ映画ではこの「Come!」を入れなかったのか疑問。

原作でも誰を想定してモーリスが「Come!」と言ったかは明記されていない。寝る前に逢ったアレックかもしれないし、何度も夢に出てきた「あれがお前の友達だ」と告げる謎の顔に向かって叫んだのかもしれない(悪夢を見た後だし)。それともジョーンズ氏の治療を邪魔して、同性愛に引っ張り戻そうとする肖像画の幻覚かもしれない。


原作読んでて気づいたこと

原作読んだことによって気付いたこと、改めて映画を観直して気付いたことなどをツラツラと書きたいと思います。

「A Very English Scandal」のアイロニー

先述したヒュー様の出演作品振り返り動画。
あの中で最後に出てくるのが「A Very English Scandal 英国スキャンダル〜セックスと陰謀のソープ事件」(2018)
BBC制作で3エピソードのドラマシリーズ。

余談ですが、この時のヒュー様の顔が皺だらけで、最初予告を見た時にビックリしました。元々目元の皺とかは目立っていたけど、こんなに劣化したなんて…と。でもこれはメイクなんですかね?それとも作品後にお直ししたのかな?先述の動画のヒュー様は随分若々しくなってる。でもドラマの中のジェレミー・ソープ、出てくるのは35歳くらいから。それなのにどう見ても50歳以上にしか見えないくらい老け過ぎてて違和感が半端なかった。まあ今や「WONKA ウォンカとチョコレート工場のはじまり」ウンパルンパを演じたりするぐらいですしねぇ…、見栄えよりもキャラのインパクト重視なのかも(苦笑)。

とはいえヒュー様はまだ本人だと認識できる。一方のモーリス役ジェームズ・ウィルビーはエッ、誰!?状態になっていてビックリ😲。

どこのお爺さんかと思った(;^_^A。最初「タイタニック」で設計士役していたビクター・ガーバーの老けた姿なのかと思ったほど。言われれば面影あるけど、街ですれ違っても絶対モーリスだ!と気付けない自信がある。この動画は6年前のもので(多分「モーリス公開30年記念とかで撮ったんだと思う)当時ウィルビーは60歳。ヒュー様は2コ下なので58歳。大病でもしたのかな?心配になるぐらい老けてる。

で話し戻して、このドラマでのヒュー様の役どころは、隠れゲイである自由党の議員で、後に党首にもなるジェレミー・ソープ。スキャンダルで失脚しなければ首相の可能性もあったのかな?そんな人物。

今回「モーリス」を振り返っていてふと気づいたんです。ジェレミー・ソープは庶民院(下院)の政治家。「モーリス」でヒュー様演じるクライブも国会議員の政治家を目指していた。クライブの場合は貴族院(上院)かな?多少の違いはあるかもだけど、どちらも国会議員

ということは、国会議員になった後のクライブの未来の姿とジェレミー・ソープの姿を制作陣は重ねようとしていたのでは?と思ったのです。だからヒュー様にこの役のオファーを出したのでは?と。勿論時代的にはかなり隔たりはあるのですが、それでもまだソドミー法が適用だった時代が含まれています。面白いことにこのジェレミー・ソープがそのソドミー法改正に賛成して、同性愛が違法ではなくなるんですよね。

で、クライブの未来の姿であるジェレミー・ソープは8:2で男の方が好きなほぼゲイ寄りのバイ。気に入った男を見つけてはやりまくってるわけです。そして1961年に知り合ったノーマン・ジョシーフ(のちにノーマン・スコットに改名)という21歳の青年を囲って面倒を見る。しかしノーマンは段々ウザいメンヘラ系になり耐え切れず破局。そしてノーマンから脅迫めいた連絡が何度かあり、政治生命が絶たれては困ると彼を暗殺しようと試みる。しかしそれがバレて一大スキャンダルになるというお話。

このノーマンも最初は馬小屋番の青年として登場する。狩猟番で犬の世話をしていたアレックとも被る。アレックも一応モーリスを脅迫しかけますし。

「モーリス」のクライブも、政治家になった後に結局セックスレスの妻との関係も行き詰まり、ジェレミー・ソープのように魅力的な男に手を出すように…そしてそこからブラックメールの憂き目に遭い、ドツボにハマっていく…なんてのを想像してしまった(苦笑)。

フォースターは「モーリス」でゲイ、同性愛のハッピーエンドの関係を望んみました。彼らが自分を偽ることなく、ありのままでいられることこそが幸せに繋がるんだと信じて。そういう世界になることを望んでいることも解説から伝わってくる。

で、一方の本当の自分を押し殺し、偽りの仮面をかぶり続けた男(クライブ)はどうなるのか?それをこの作品「A Very English Scandal」は伝えたかったのかなと言う気がしてならなかったんです。
何といっても脚本が「Queer as Folks」ラッセル・T・デイビス。彼自身もゲイであり、皮肉やパンチの効いた作品を作ってきた。
そして監督は「マイ・ビューティフル・ランドレット」スティーブン・フリアーズ。「モーリス」と同時代にゲイ・ムービーを撮り、クローゼットのゲイの抑圧については彼も深く考えたはず。それでやはり社会からの無意味な抑圧は不幸を生み出すだけだということを伝えたかったんだという気がします。今回はコメディタッチで笑いにしながら。時代が変わった今なら、当時の彼らの必死さも滑稽な笑い話にして、これを教訓にしてさらに前に進んでいこうという感じでしょうか。

それにしても「A Very English Scandal」の最後でもヒュー様はクライブの時と同じように、失われた愛の尊さ(それも自分から捨てた)に気付いて悲しい顔をするんですね。あ~やっぱり「モーリス」のあの演技意識してない?30年の時を越えてヒュー様が再びクライブと重なった瞬間でした。

余談ですが、監督のスティーブン・フリアーズがケンブリッジ出身。彼こそ英国カレッジの寄宿舎を舞台にした「アナザーカントリ―」や「モーリス」を撮っていても良さそうなのにね。あえて身近過ぎて撮れなかったのかな?最近の監督作では「あなたを抱きしめる日まで」とか「ロスト・キング 500年越しの運命」とかも面白かったです。

チャイコフスキー

映画を観ていた時は全く気付いていなかったのですが、今回原作を読んでいてチャイコフスキーがこの作品の中で”ゲイ・コーディング(ゲイの文脈、シンボル)”として使われていることにやっと気付きました。

映画では全く言及されていなかったですが、原作では中盤、コンサートで偶然モーリスと再会したリズリーによって、チャイコフスキーがゲイだったことが言及されます。

ちょうど今、チャイコフスキーがゲイであるということを扱った映画「チャイコフスキーの妻」も上映中。

ゲイであるチャイコフスキーに積極的に求婚して妻の座を勝ち取るも(彼女は結婚時点ではゲイであることはわかっていなかった様子。チャイコフスキーの方は世間の(ゲイであるという)噂を払拭したくて結婚する)、わずか6週間で別居になり(チャイコフスキーが一方的に拒絶する)、チャイコフスキーが死ぬまで会って貰えなかったという、彼の悪妻として有名なアントニーナを描いた作品。

早速観てきましたが、アントニーナはチャイコフスキーの才能に惚れた部分もあるんだろうけど、なぜにそこまで執心したのか?もう意地だったのか?他の男との子供を3人も産んでは孤児院に預けることを繰り返すとか…本当に狂気。観てるのが辛かった。ロシアの強固な男性社会、そのホモソーシャルな文化に追い詰められたという気もしないでもない。
これも隠れゲイと結婚しても本当に誰も幸せにならないという教訓を強烈に教えてくれる作品と言いましょうか、ゲイとかどうとか関係なく、偽りの関係というのは必ずどこかにひびが入り、当事者を確実に蝕んでいき、やがて崩壊する運命という超分かりやすい歴史的実例。

モーリスを拒絶したオルコット嬢のように、アレ?この人おかしいな…と思ったら、やめておくのが賢明。そしてこの人おかしいと気付ける眼力を磨いておくことも大事。とはいえ恋は盲目に陥らせるわけで、だからこそいまだに不幸な結婚が繰り返されたりしてるわけですけど…。

でもこの映画と小説「モーリス」を読むまでチャイコフスキーがゲイだったとは知りませんでした。いくらゲイに関心のある私でも世界の偉人のセクシュアリテイをイチイチ調べ回ったりはしてませんもん(;^ω^)。ロシア政府も国の偉人の醜聞(彼らにとってのね。なんと言ってもホモフォビア国家ですから)は広めたくないということで極力この事実は伏せておきたいらしい。よってそこまで浸透してない感じなのかなと。この映画も彼をゲイだと描くなら補助金は出さないと言われたんだとか。それで監督は亡命し、お金も自分で集めて作ったんだそうです。その監督のキリル・セレブレニコフもゲイ。

で、「モーリス」に戻りまして、原作でも映画でもチャイコフスキーの名前が出てくるのは映画の序盤、モーリスがリズリーの部屋を訪ねた時、彼は不在で代わりにクライブがチャイコフスキーの楽譜を探している(正確には自動ピアノ(ピアノ―ラ)の巻き取り譜:大きなオルゴールみたいなものを鳴らす譜面)。彼らが初めて二人っきりで会うという重要な場面

この場面でチャイコフスキーの名前が出てくる時点で、これはゲイ・コーディングの可能性があるな…とピーンと来ておかないとダメなわけです。ゲイ・リーディングをもっと極めたいなら(←普通の人は別に極めたいなんて思ってないからw)。

更に、そのクライブが探している楽譜と言うのが、”悲愴交響曲”
”悲愴”なんですよ、奥さん、悲愴!!www
もうこのクライブ初登場の場面で、このゲイの男:クライブは悲愴な結末を迎えることがフォースターによって示唆されていたということです。楽譜を求めるがのごとく自分から悲愴な人生を求めるキャラなんだと。かぁ~、こんなサイン、どれだけの人が気付いていたんだろう?

フォースターはチャイコフスキーより少しだけ後の時代の人物なので(チャイコフスキーの死は1893年。「モーリス」が書かれたのが1913年)、彼の結婚がどういう結末を迎えたかも知っていた。国は違えどゲイ知識人のネットワークは強いので、一般的に知られてなくても絶対にその噂は耳に入っていたに違いない。
だから悲愴の内容もチャイコフスキーと同様に偽りの結婚をし、悲愴な想いを味わうようにして、まさにクライブにチャイコフスキーを二重に投影(ゲイ&偽りの結婚による悲惨な結末)しているんですね。
”チャイコフスキーの悲愴交響曲”と言う言葉だけでココまで意味を込めていたのかと思うと、フォースター、仕込みアッパレ!!と言いたくなります。

映画でのリズリーは中盤で兵隊にオイタをして捕まってしまうので、モーリスとコンサートで会う場面はない。よって二度とチャイコフスキーについての言及はありません。しかし原作では、コンサートでモーリスにあったリズリーが「近親相姦で悲愴な交響曲だ」と言い、チャイコフスキーはみずからの甥を愛してこの傑作を捧げたのだと解説する。

ここのパート、個人的にスゴク面白いw。
この時のモーリスは、”いざ秘密を打ち明けられる相手が現れると、いなくなれと思ってしまうのは不思議だった”と書かれていて、ゲイの同族嫌悪、近親憎悪がうっすら書かれているんですよね。まあリズリーは最初からウザいタイプの人間として描かれてはいるけども。これ、フォースター自身のゲイ仲間間での自身の感想を反映しているんだろうな~と思うわけです(苦笑)。モーリスはある意味でフォースターの分身だなと感じる場面がチョイチョイ出てきます。

リズリーのことをウザ~と思いつつ、いいこと聞いた!とすぐさま図書館に行ってチャイコフスキーの結婚生活を調べ始めるモーリス。そして初めて文学作品が役に立ったとありがたく思ったりする。

こうしてモーリスはチャイコフスキーの破綻した結婚生活を知ったので、バリー医師の助言に従って自分の真の欲望を隠してクライブみたいに女性と付き合っても、チャイコフスキーのような未来が待ってるんだと分かって恐怖するんですね。あ~、バリー医師の言うことなんて聞いちゃダメだ。この件に関しては医者なんて役立たずなんだと。ここ気付けたのはクライブより偉いわけです。
ただ、それでもまだゲイとして生きることは考えられず、抵抗して変な方向に向かう。それがリズリーから聞いた催眠療法。催眠療法なら自分を騙すのではなくて完全にストレートになれると思い込んで、胡散臭いものでもいいからとにかく最後の頼みの綱的にラスカー・ジョーンズ氏にすがったというわけです。科学的な療法というより魔法をかけて貰う的なイメージだったのだと思う。

映画ではなんだか唐突にベン・キングスレー演じる催眠療法師のラスカー・ジョーンズ氏が出てくる印象でしたが、原作では順序立てて分かりやすい流れになってる。映画はリズリーを別のところで使ってしまったので、逆にこの部分の流れが悪くなった気がしないでもないです。


ギリシャ旅行

クライブが原作でも映画でもギリシャ旅行に行きます。
小さい頃から自分の中の同性愛指向の答えを探して、プラトンの「饗宴」などギリシャ時代の作品を読みまくってきたクライブ。そしてその先達たちの思想に従ってプラトニックを貫いてきた。そんな彼がギリシャに憧れを持っているのは当然。だからギリシャに行ったんだろうな~ぐらいにしか以前は考えていませんでした。

しかし、ただの憧れだけではなく、もう少し意味があったんだとわかってきました。

アテネを中心にディオニュソス劇場に行ったり、アテネ近くのサラミス島やアエギナ島を回ったり、ペンテリコン山(ペンデリコン山)というヘンテコリンな名前の山に登ったりする(ググったらペンテリコ山だった。原文の英語ではPentelicus。訳する時にヘンテコリンに引っ張られたのかな?w)

原作ではこんな感じで本当にギリシャに行っていますが、映画では古代ギリシャ領の一部になるのかな?現在のイタリア、シチリア島の北西部、パレルモの近くにあるセゲスタのギリシャ劇場遺跡がロケーション。

こちらに映画「モーリス」のロケーション場所が紹介されています。

今でもイベントや演劇なんかで使われているみたいですね。山の上と言う絶景のロケーションのおかげで、それを借景にしてセットなんかいらないみたいなことも書かれている。

映画の中で遺跡にいるクライブがモーリスからの手紙を読んでいる時に、顔にハエがとまって鬱陶しそうに追い払うシーンがあります。昔ならそこに意味なんか見出そうとはしませんでした。しかしこれには意味があるんだと今回漸く気付きました。

この”ハエがとまる”という描写は原作にはありません。映画のみの演出。
ここで思い出すのはアイボリー脚本の映画「君の名前で僕を呼んで」。あの映画も幾度となくハエが出てきます。極めつけはラスト、真冬の室内なのにハエがいる。
これはハエが死のメタファーであり、二人の愛の終わりを意味していたからだと言われています。

「モーリス」でも、このギリシャ旅行がクライブにとってモーリスへの愛を完全に絶ち切り、終わらせる旅なわけで、そこにハエが出てくるのは”モーリスとの愛の死”を意味していたんですね。アイボリーが書いた「君の名前で僕を呼んで」の脚本をチェックしてみましたが、そこに特にハエの記述はなかった。ということはアイボリーによるセルフオマージュではなくグァダニーノ監督によるモーリス・オマージュ演出だったのかな?

先述した「チャイコフスキーの妻」でも意味深げにハエが出て来てました。二人の結婚式のシーンで顔にハエがとまるというイヤ~な描写。これも、この結婚は既に死んでいる、上手くいかないというメタファーだったんだなと。こういうシンボリズムがわかってくると面白いですよね。

そして”ギリシャ”というのも同じような文脈なんだなと。同性愛が盛んだったギリシャ文明は滅びたわけで、「モーリス」にしても「君の名前で僕を呼んで」にしても、ギリシャ旅行やギリシャの彫像が意味していたものはその同性愛関係が終わるということだったんだなと。

面白いことに、原作ではモーリスとクライブは一緒にイタリア旅行には行ってるんです。それでモーリスはイタリアは結構気に入る。しかしギリシャには全く興味がない。ギリシャにこだわるクライブにプラトニックを強要されてるわけで、段々ギリシャのことが嫌いになるほど。
私なんかにしたらイタリアもギリシャもそんなに違わないんじゃ?と思わなくもないけど、ここ重要なんです。
フォースターはギリシャとイタリアをシンボリズム的に使用しているんですね。モーリスはクライブとの愛を終わらせたくないから同性愛が終わることをイメージするギリシャが嫌いなわけです。でもイタリアは好きなのは、そのギリシャ、ローマ時代の復興を謳ったルネッサンスの国だから。同性愛も含めた人間性の復興を謳った=同性愛をも肯定したわけですから。このイタリアは気に入ったという一文だけで、この後同性愛者として突き進むモーリスの傾向を既に暗示していたわけです。そういうことを全て考慮し文脈に潜ませているんだな~と。フォースターによるゲイ文学におけるゲイ・コーディングの奥深さに感心しまくり。こういうの理解できるようになってくるとホント面白いですよね。

作品の舞台と登場人物相関図

映画「モーリス」のロケーション場所を見ていて、そういえばモーリスはロンドンとクライブの邸宅があるペンジを行ったり来たりしていたけど、実際はどういう位置関係にあるのだろう?と、ふと気になりました。

ということで調べてみました。
クライブの領地があるペンジウィルトシャー州サマーセット州の境にあるそうで、地図で見てみると↓この辺り。

「モーリス」に出てくる主要な場所をマークしてみました。

ロンドンからブリストルまで、今の電車で1時間半ぐらいらしい。
ペンジまで、当時の汽車なら2~3時間?はかかったでしょうか?

ペンジの正式名称はPendersleigh。しかしググっても出てこないので架空の地名だと思われます。実際に撮影がされたのは、上の地図のペンジとサウサンプトンの間ぐらいにあるNewton Toneyという村。そこのWilbury ParkにあるWilbury Houseウィルベリー・ハウスというマナーハウスだそうです。案外小説の場所に近いところで撮影されていたんですね。

当時イギリス人女優のMaria Britnevaが所有していて、彼女はアイボリーの「眺めのいい部屋」にも出演。監督の友人でもあったのでロケに使わせてもらったのだそう。そして「モーリス」にも出演している。モーリスが初めてペンジを訪れる時に馬車で同乗しているMrs. Sheepshanksシープシャンクス夫人役。彼女はこの地に愛犬たちと一緒に埋葬されているそう。その後、屋敷はギネス・グループの家族(創業家?)に購入され、修繕を施されて現在に至るらしい。

モーリスの家はロンドン近郊という設定。
学生時代にモーリスはチョイチョイ実家に帰っていた描写があったけど、クライブはあんまり帰ってなさそうだったのは、この位置関係を見るとちょっと納得。ケンブリッジからペンジまでは結構遠そうですもんね。

アレックの実家があるのがペンジの南の方にあるDorsetドーセット州のオスミントン。映画で出てきたクライブの領地のボートハウス。あれはドーセット州にあったものがロケで使われたそうです。

そしてスカダー家がアルゼンチンに渡航しようとしていた港サウサンプトンは近くの入り江の奥辺り。タイタニックも出航した港です。

ケンブリッジでのシーンは大学に許可を貰って撮影をしたようですが、当時の苦労話をアイボリーとパートナーのマーチャントが話していました。

キングス・カレッジのチャペルでの合唱シーンの撮影。制作陣が合唱隊に衣装を着させたのが気にくわなかった合唱の指導者(←かなり面倒くさい人物だった模様)。文句を言いだし撮影許可時間内に終わらなくなりそうだった。撮影するなら私の死体を乗り越えてからにしろ!と、頑なでにっちもさっちもいかない。それでマーチャントはちょっとお話しましょうと彼を外に連れ出して話している間に、アイボリーはさっさと撮影を完了したという見事なチームプレーのエピソードを披露してくれています(笑)。

ケンブリッジにはいくつかの学寮(カレッジ)があって(その集合体がケンブリッジという大学であり、そこに形成される学園都市)、リズリーはトリニティ・カレッジの生徒と書かれているが、モーリスとクライブは同じカレッジ所属と書かれているだけで特定のカレッジ名は書かれていなかった。しかしフォースターがキングス・カレッジ出身。そこで教鞭も取っていたから、キングスカレッジ出身ということになっているみたいですね。

ついでに登場人物の相関図も作ってみました。

モーリスの叔母のIdaアイダと妹のAdaエイダが最初少しこんがらがる😅。

リズリーは学生監コーンウォリス氏の親戚。なので学生監主催の昼食に余所のカレッジからやってきて場を読まず喋りまくっているという描写がある。後に彼がモーリスに催眠療法師を紹介したのも、このコーンウォリス氏が治療を受けたという話を聞いたから。親戚内でのゴシップネタだったんでしょうね。このコーンウォリス氏の治療がモーリスと同様に同性愛矯正治療だったなら(リズリーは以前に彼のことを”宦官”と呼んでいる)、あの昼食の場所にはゲイが3人もいたということになる。密度高っ!

ただコーンウォリス氏がゲイなのかはよくわからない。映画でも原作でも、モーリス達への講義でギリシャ人の同性愛行為に関する記述は飛ばして読みなさいと指示したりしている。ゲイならそこまで拒絶するだろうか?いや自分の同性愛傾向に耐えられなかったから彼も催眠療法を受けた…と考えると正しい反応ということか?
そして映画ではリズリーが逮捕されるので、上述のコーンウォリス氏が催眠療法を受けたエピソード自体もなくなってしまい、ただのホモフォビックな学生監でしかなくなってしまった。

その他のシンボリズム

ギリシャ、ハエ、バイク、水辺、いくつかシンボリズムは見つけられましたが、まだないか?とググってみたら、こちらのサイトがありました。

重なる部分もあるけど3点ほど指摘されていました。

➀The Greenwood 緑林

原作の中でモーリスは夢想する。昔ロビン・フッド(伝説的アウトロー)がThe Greenwood 緑の森(シャーウッドの森)に逃げ込んで暮らしていたように、自分達みたいな法に反した存在=アウトローも緑の森に逃げ込んでいたのではないだろうか?そこにはゲイの恋人たちもいたのではないだろうか?と。

フォースターは巻末の解説文でも、モーリスとアレックは今も森の中を歩き回っていると書いている。そして妹キティが数年後に森で二人の木こりに出会うというエピローグまでをも考えたことがあったと言及している。そう、モーリスとアレックは森に安息地を求めて森の人になったんだと。ソドミー法のようなものに縛られず、クィアな人物達が自分自身を偽ることなく生きられる楽園的なイメージでThe Greenwood 緑林という言葉が象徴的に使われていました。

この記事でもゲイは自然の中に入っていくということを書きましたが、

「モーリス」においてその自然はロビン・フッドが暮らした森(緑林)のイメージと強く結びついているということ(トップ画像真ん中のポスターはまさに緑林を彷徨う恋人たちのイメージ)。しかし二つの大戦を経て、次々に工場や住宅地へと開発され、無法者たちが逃げ込める森がどんどんなくなっていったことをフォースターは嘆いている。ある種クィアな人たちにとっての最後のセーフティ・ネットだった緑林。ソドミー法もまだ残っていた1950年代~エイズ禍のあった80、90年代、20世紀後半はゲイにとって逃げ場もなくなり、バッシングも強く、人類史上最も生き辛かった時代だったのかもしれません。

日本にも昔、山の民であるサンカという人々がいたけど、そういう人たちのなかにもゲイのカップルがいたりしたのかも…と思ったり。

②窓

モーリスとクライブ、モーリスとアレック、二組とも窓をよじ登って愛を確認し合う。

私は”窓をよじ登る”のは階級を乗り越えていく象徴なんだろうな~と思って読んでいました。よじ登っていく方が階級的には下の側でしたから。上流階級のクライブの所に中産階級のモーリスが。中産階級のモーリスの所に下層労働者階級のアレックが。
イギリス人作家の大先輩、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は階級の差ではなかったけども、二人の間の障害を乗り越えるさまを、バルコニーをよじ登っていくロミオで表していたわけで、「モーリス」においても階級的にも許されぬ恋であり、キリスト教倫理に基づいた法律的にも許されぬ同性愛であり、そういう障害を窓をよじ登ることで表現していたんだと思うわけです。

そして上記のサイトでは、窓が開いている=心の窓が開いている、他者からの愛を受け止める準備ができている的な、その部屋にいる人物の心の状態を象徴的に表現している意味合いがあるとも述べていました。それも夜に開いている=性的な要素も含むと。だからクライブはモーリスからのキスを受け止め、モーリスはアレックからのセックスを受け止めた。
社会規範に反していない関係ならば正面のドアから入ってくればいいわけで、窓、さらに夜、ということで秘匿の関係、背徳感を象徴し、スリリングな演出にもなっているという感じでしょうか。

③バイクとサイドカー

バイクについての私の考察は上掲したバイクと水辺の記事を読んでもらえたらと思いますが、先ほどのサイトではバイクとサイドカー心が一つになった象徴だと説明していました。クライブが話すプラトンやソクラテスの話から、愛と言うのは失われた魂の片割れ同士が再び出会って結びつき、完全体になることだと。

だからモーリスとクライブが窓を乗り越えお互いの愛を確認し合い、受け入れ合ったあとにサイドカー付きバイクで遊びに行くのは、ソウルメイトが結ばれた象徴だと。なるほど。サイドカーじゃなくても、二人乗りで後ろに坐っている方が前の運転者をしっかり抱きしめ、これ以上ないほど心臓の距離が近づかせて一体化しているような状態も、ソウルメイトの合体を象徴していたんでしょうね。大抵結ばれてウキウキしている状態でバイクに乗ることが多いですし。

Evening Primrose/待宵草/月見草

私が山歩きで撮った待宵草です

ペンジにあるクライブの邸宅の庭に咲いている花、Evening primrose。日本語では待宵草/月見草

クライブと別れた後、それでもペンジを訪れるモーリス。そこで幾度となく庭を散策する。ザワついた心を落ち着かせるためだったり、もしかしてあの森番の青年に会えることを期待して!?

そこで咲いているのがイブニング・プリムローズ。その花に香りがあることに気付いてウットリする。その後、アレックと暗闇でぶつかり、倒れそうになり、頭にイブニング・プリムローズの花粉が付いたりする。

最後のクライブとの会話。そこでもイブニング・プリムローズが咲いている。その時の描写が凄く印象的で、映像として頭の中に浮かんでくるよう。

”待宵草の花が光り、夜の壁に浮き彫りのようにほのかな黄色を添えていた”

”モーリスはふうっと息を吐いて、長い茎についた小さな花を摘み取りはじめた。花は夜のあいだに燃え尽きた蠟燭のように、ひとつづつ消えていった”

”モーリスはもうそこにいなかった。いたことを示すものといえば、地面に落ちて重なった待宵草の花びらだけだった。それらは消えかけた火のように、死の悲しみを放っていた

ここで、こんなに何度も出てくるイブニング・プリムローズには絶対意味があるはず!と思うわけです。なので花が印象的に出てくるときはまず花言葉を調べてみます。


イブニング・プリムローズ/月見草/待宵草の花言葉は、
Evening primrose flowers symbolize new beginnings, youth, and beauty.
新しい始まり、若さ、美しさを象徴する。
また、希望や再生の象徴ともされる。

凄く納得のいくメタファーだったことがわかりました。

アレックと庭でぶつかった時に咲いていたイブニング・プリムローズは”新しい(恋の)始まり”、クライブとの失恋からの再生、アレックとの未来への希望と読み取れる。

一方クライブとの最後の会話では、それらを摘み取っていくモーリス。若かった恋、あの美しかった時間、クライブとの未来への希望を完全に断ち切るためにモーリスはそうしていたんだとわかってきます。地面に落ちた花は死の悲しみを放ち…モーリスとクライブの愛も死んだと。

そしてなぜイブニング・プリムローズだったのか?
モーリスは緑林に入ることを憧れますが、外に広がる無限の暗闇にも惹き付けられています。

ああ、闇の中へー家具の間に人を閉じ込める屋内の闇ではなく、自由でいられる闇なのかへー 

緑林と同じように、暗闇とは表の社会で生きられない同性愛者が紛れて自由に生きられる空間。だから暗闇で輝く様に咲く黄色いイブニング・プリムローズとは、そんな空間で花開く同性愛者たちの愛の象徴として、フォースターは採用したのではないでしょうか?

ちなみに映画ではこのイブニング・プリムローズは出てきません。こんなに意味のあるメタファーでありつつ、非常に絵になる小道具になりえたのに。モッタイナイ!!

階級

映画を観ていた時は。そこまで彼らの階級の意味を深く考えて観てはいませんでした。

しかし原作を読んでいると、クライブ=上流階級、モーリス=中産階級、アレック=労働者階級というのは非常に意図的なんだなとわかってきました。

まずクライブがすることと上流階級という支配者層がすることを重ねて、批判的に書いている部分がある気がします。

クライブは賢く、知識も豊富。それによって意識的でないにしろ、それらでは勝てないモーリスを言いくるめてプラトニックの愛こそが至上で尊い関係だと思わせる。ある意味での洗脳をしかけている。

キリスト教に関しても自分は頑なに教会に行かない(同性愛禁止だから)。モーリスに対しても三位一体や贖罪について議論を吹っかけ、君は本当に信じているのか?と突き付けてくる。それまで信じることが当然で疑いもしなかったモーリスは、このことで「アレ?俺、そんなにキリスト教のこと信じてないかも?」と気付き、彼も教会に行かなくなる。キリスト教否定=同性愛肯定という意識変革をもって、好きな相手を同性愛に引きずり込む布石を打ってたわけで非常に巧妙。
ここにはモーリスの意志を汲み取ろうとするよりも自分の都合を押し付けたり都合のいいように誘導している構図がうっすらある訳です。いまの日本の政治家なんかもそうですが、支配者層というのは往々にして自分たちの利益や都合の為に国民を欺いたり、言いくるめたりしている。それをクライブは体現させられているわけです。そしてそういう連中は所詮本当の幸せを得ることはできないんだと、フォースターは冷徹な結末を与えている。自分の心から信じるものに従うべきだと言いながら、結局それを自分自身はできずに終わるというクライブの皮肉。モーリスにそのことを教えたことはグッジョブ👍でしたが。

中産階級のモーリスは、原作の中ではとにかく凡庸な人物として描かれている。頭はずば抜けてよくはないけど、ちゃんと段階を踏んで理解していける頭はある。自分の感情も最初は混乱したりしながらも、時間を掛けて分析、理解していき、何が自分にとって大事なのかもわかることができる。一方で普通に肉欲で頭がいっぱいになったり、妹に嫉妬してイヤミを言ったり、使用人に横柄に接したり、決して聖人でない部分もいっぱいある。

労働者階級のアレックに関しては、階級の反映している部分、う~ん、どこでしょうね?下の階級だから頭が悪いというわけではない。高潔さがないからモーリスに対して脅迫したととれなくもないけど、結局それは本意ではなかったと謝っている。好きすぎてそんな方法しか思いつかなかったと。だからアレックは下層労働者階級の不安定さというか、危なっかしさ。クライブとは対照的に知識ではなく感情で突っ走りがち、直情的なものを象徴した存在だったという感じでしょうか?

モーリスの部屋に窓から入って想いを告げるだけでなく、「(欲しいものは)わかってるから(俺に任せて)」とセックスにまで持ち込むし😅、ボートハウスで待っていても来てくれないから脅迫めいた手紙まで出してしまうし、最後はアルゼンチン行きの船に乗らずに全て投げ打ってモーリスの言葉に人生を賭けてしまう。クライブからしたら愚かでしかないアレックの行動の数々。しかしその真っすぐな想いの強さがあるからこそ、モーリスの心に届いて彼の愛を勝ち取ったわけで、そのパワーこそが真の幸福への鍵。失敗に終わることもあるけど、何かをブチ破る力もある。

これら階級についての考察は、もっとイギリスの階級社会について勉強して行けばより面白い発見がある気がしますね。

そうそう、面白いことといえば、各キャラの脱ぎっぷりが階級で違ってる。上流のクライブは殆ど脱がない。パジャマに着替える所を妻アンにチラッと見られるくらい。中流のモーリスはバリー医師の診断でお尻を見せ、その後のアレックとホテルで過ごした時もギリギリ股間は隠しているものの全裸になってる。労働者階級アレックは超脱ぎっぷりがいい。ホテルで下半身丸出しでブラブラさせながら歩き回り、下着を履いた時なんかイチモツが引っ掛かってしまうほど(/ω\)。(←見たい人はYoutubeで全編(無修正)が見れますよw)

あとクリケットの試合で使用人のアレックもモーリスと同じユニフォームを着る。それは二人がセックスをした後で、お互いに名前で呼び合う関係になった後。つまり同等になった二人の象徴なんだという解釈も見ました。確かに、納得です。

おススメに出てきたこの動画で、上流階級の考え方を説明してくれていて、モーリスがクライブは絶対密告などしないと信頼していたけどアレックに対しては不安になっていた辺りの構図がわかった気がします。


モーリスという人物像

いままで映画を観ていただけでは、そこまでモーリスという人間の人物像を理解できていなかった自分がいました。

どうしても彼は主人公、そしてゲイにとって苦しい時代に生きて苦労したはず。だから被害者として同情的に見ていて、かわいそうな人=基本いい人物に違いないというバイアスを自分で掛けてしまっていたんですね。それで実際映画を観ているとそこまでいい人物って訳でもない(苦笑)。なんかモヤモヤ&しっくりこない感情が湧いていたのです。勿論悪人ではないんだけど、妹のエイダに嫉妬して口汚く虐めたりもするし、クライブとのプラトニックで尊い愛を諦めてサッサとアレックに走ってしまうし(捨てられたんだから未練がましく付き纏うより全然いいのですが、紆余曲折あって結局クライブと元鞘に戻るとかの方が、映画序盤でこのカップルを推した側としては嬉しいわけで…😅)。

それで原作を読んでいると、フォースターはモーリスのことをとことん凡庸な普通の人間として描きたかったことがわかってきます。いい部分もあるし、嫌な部分、欠点もある。賢い時もあれば、愚かな時もある。なんならちょっと鈍い人物なぐらいに描かれている。

第一章から
「小太りで、可愛らしいが、どこといって変わった所のない少年である」
なんて書かれている。

その後も、何かというとモーリスは凡庸な人間であることを念押しするかのような描写がことあるごとに挿入される。

”成績優秀とはいかず、かといって本人がいうほど悪くもなく、スポーツでも大活躍はしなかった”
”人好きのする明るい顔立ち。ただ似たような少年は山ほどいた”
”不器用ながら体力はあって思い切りも良かったがクリケットはあまり得意ではなかった”

”新入生のころいじめられたので、落ちこんだり弱ったりしている生徒をみつけるといじめた。根が残酷なわけではなく、そうするのが正しかったからだ。要するに、彼はありきたりな学校のありきたりな生徒で、人にわずかに好ましい印象を残していった” ←高潔な意志もなく流されがちな性格。

”ホールは中産階級で、未成熟で、愚かだった” ←これはクライブによる当初のモーリス評

”体が発達すると、途端に性欲が湧いてきた。聖餐式においてすら淫らな考えが次々と頭に浮かんだ” ←思春期の妄想男子
”祖父の家でたまたま見つけたローマの詩人マルティアリスの無修正の本を見つけ、耳を赤くして読み耽った” ←エロ本隠れ読み男子
”あの行為については、発見の目新しさがなくなると、快感よりむしろ疲れをもたらすことがわかったので。きっぱりやめた” ←オナニーのことだよね?これは猿のようにやりまくることはしなかった模様w。

”モーリスの話しぶりはのろくさく、いかにも頭の悪さを感じさせた。言葉を選ぶわけでなし、面白く語って聞かせようとの配慮もいっさいなしである” ←子供時代ならいざ知らず、大人になってもこんな風に描写されてちょっとかわいそうになるくらい(苦笑)

ただ容姿だけは成長とともに魅力的になっていったようで、こんな感じで描かれる。

”彼は本人も気づかないうちに魅力的な若者になっていた。体を鍛えたせいで、不器用さも目立たなくなった。体重はあるが敏捷で、顔も体に負けじと精悍になってきたようだ”

”クライブはたくましくハンサムな若者に投げ飛ばされるのが気に入った”

”細くて黒い口ひげは顔全体を引き締め、笑った時にのぞく白い歯を引き立てた。服も似合っていた”

”バリー医師は(略)その姿に眼を惹かれた。芸術的とは言えないまでも、立派な体だった”

モーリスが「最初に僕のどこが好きになった?」とクライブに訊く。すると「なら、君の美しさだ」と答え、さらに「昔は、本棚の上のあの男が一番好きだった」とミケランジェロの絵を見ながら言う。つまりこういう会話からも間接的にモーリスはミケランジェロの絵画のような美しい青年に成長したのだとわかる。

巻末のフォースターによるはしがきには、

”私は「モーリス」で完全に自分(ないし私の自己イメージ)とは異なる人物を創り出そうとした。ハンサムで健康、肉体的魅力があって、精神的には不活発。ビジネスマンとしてまずまずの成功を収め、俗物らしい人物を”

と書かれている。そうモーリスは確かに”俗物”なんですよね。
ただ映画だとその見た目の美しさに騙されて、内面の俗物さ加減がそこまで伝わってなかったというか、私が受け取ろうとしていなかった気がします。

モーリスを俗物だと理解して原作を読んでいくと、モーリスの心情の変化、精神の成長していく様などが細かく描写されていくわけで、解説の松本氏曰く、ビルドゥングスロマンの側面があるのだとわかってきます。平凡な人物を主人公にして、主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく過程を描く、且つ道徳、教養、経済面での”成長”のあり方と背景にある社会構造と全体性を映し出すようなジャンルなんだそうです。

だから読み方としては、モーリスと同じ凡人俗物である方なら(私も勿論その部類)モーリスが感じ考えることに、あ~この感覚わかるな~とか、あ~私も理解できてないのに理解できてる振りしたな~とか、周りの期待に迎合し過ぎたな~とか、この悪循環に落ち込む思考パターンあるよね~とか、読み進めながら都度共感したり、一緒に内面の成長過程を追体験したりしてしていけばいいんだと思います。そうして読んでいけたら、最後にモーリスがアレックと結ばれたことで、まるで自分の分身が漸くハッピーエンドを掴んだように感じられる。それこそフォースターが意図した結末であり、読者、特に読んでくれている特別じゃない普通の同性愛者の仲間たちに、満足感と幸福感を与えたかった彼の執筆意図な気がします。

似たもの同士?

これは映画と原作の違いでもあるのですが、原作を読んでいるとモーリスとアレックは同じような行動をしていて、これは意図的なのかな?と感じました。

まず、先ほどの窓をよじ登って行く行為は同じことをしていましたよね。

そして映画では、散歩に出てくるモーリスとアレックが偶然出くわしてアレックが「Good Noght, Sir!」と声をかける。片岡さん風に訳すなら「お休みなせぇ、旦那!」って感じでしょうか?w 
ここ、原作の方は少し時系列が違っていて、この日何度もモーリスとアレックは庭で出会っていて(おそらくアレックが待ち伏せしていた)、最後にボレアニス牧師を送っていき戻ってきたモーリスをアレックは待ち伏せている。そして「おやすみなさい」と声をかけます。好きで仕方ないモーリスと少しでも近づきたいといういじらしいアレック。

このアレックと似たようなことを原作のモーリスもしているんです。映画では描かれませんでしたが、初めてクライブと会話をし、フェザーストーンハーフの部屋でピアノ―ラを鳴らして楽しんだ後、クライブとフェザーストーンハーフが議論を始めたので一人先に部屋を出てしまう。しかしもっとクライブと一緒にいたかったと後悔し、中庭の飾り橋の所でクライブが出てくるのをタバコを吸いながら一時間近く待ち続けるんです(その間にクライブの部屋の中を覗きに行ったりもする)。そしてついに自室に戻るためにクライブが出てきたところに「おやすみ」と声をかける。そこから酒でも少し飲むか?と誘われ、クライブの部屋でウイスキーを飲んだ後、また中庭でウロウロして興奮を鎮めたりする初心でかわいいモーリス。

夜の庭で、恋する相手が出てくるのを待つモーリスとアレック、そしてドキドキしながら「おやすみなさい」と声をかける。そこから大胆な行動を起こして窓をよじ登ったりもしてしまう。あ~この二人、似ているんだなぁ~、うん、結びつく運命なんだね~と、なんだか腑に落ちるんですよね。

映画「モーリス」の楽しみ方 番外編

これは原作読んでて気づいたことではなく、「モーリス」関連の動画を観ていて気付いたこと。

ここまでにも載せましたが、アイボリー&マーチャントの制作陣による制作秘話やキャストによる思い出話が今でこそ動画で見れるということ。当時知れなかったことが今更わかって興味深い。

アレック役のルパート・グレイブスが当時のことを語っている動画。

先ほどのウィルビー&ヒュー様も話していたけど、世界中のたぶんゲイの人たちから感謝されたり反響が凄かったんだとか。グレイブスも映画を観た人からゲイだと思われ、多くの過激な手紙やら、希望を見出せたと感謝する手紙、刑務所からも手紙が来たそう。そして多くの日本の女性ファンからの手紙も。多分3人のイケメンが走り回ってるのが好きだったんだろうと笑っている。

凄いな~、海外にまでファンレターを書いていた当時のお姉さま方。その何かに駆られるようなパワーに尊敬の念を禁じ得ない。今やインスタで日本語でコメント書いてもすぐ翻訳できちゃうくらいお気楽だけど、当時は便箋&切手買って、辞書を片手に英文で手紙書き、スクリーンとかの映画雑誌にファンレターの宛先が載ってたのかな?そういうのを調べあげて出すわけですもんね。それがちゃんと辿り着いて読まれるかどうかもわからないのに。

あとファンが編集したファンビデオなんかもいくつかで回っている。登場人物の心情をキャプションで可視化したり、BGMを付けたり、印象に残っている場面や演技を面白おかしく誇張したりして、映画のある意味下世話な楽しみ方を教えてくれてたりする。そういうのをCRACK Videoというらしいです。

そのうちの一つがこの動画。

執事のシムコックスが何かにつけて意味ありげにモーリスを見てくるたびに「He knows!」ってキャプションが出てきて笑っちゃいました。

別の動画でアイボリーか出演者が、シムコックス=この映画におけるヴィランだと言っていたんですよね。そう思って映画を観直すとクライブの結婚式で複雑な心境で見送るモーリスをシムコックスはジーっと見てたりして確かに「He knows!」てな感じw。二人が森の中の建物前でいちゃついている時に自転車で通り過ぎたり、原作にはない描写もあって、そう思うと制作陣によってヴィラン度が格段に上がっている。

あとモーリス家を訪れていたクライブが気分が悪くなり倒れるシーン。原作では”椅子から崩れ落ちた”ぐらいしか書かれていない。しかし映画ではテーブルクロスを掴んで机の上のものを全部ひっくり返して倒れ落ちる。それをどれだけ大仰でドラマクイーンな倒れ方なんだ!と、毎度見る度に笑ってしまうというコメントがあったり。

そういう制作陣の演出や役者の演技の細かいところは、いままでは気付いてなかったり、気付いていてもスルーしてしまっていた部分。それらを見事に言語化or映像化してくれている他のファンと共有できる世の中になったので、いろいろツッコんだりしながらマニアックなオタク的楽しみ方をできるようになったということです。


”モーリス”繋がりで…

”モーリス”っていう名前だけで何かトキメいちゃう自分がいるんですよね(笑)。「Bolero」の振り付けで有名なモーリス・ベジャール、その「Bolero」の作曲家もモーリスの名を持つモーリス・ラヴェル。このモーリス繋がりも興味深い。

そんなモーリス・ラヴェルが「Bolero」を作曲した過程と彼の人生を描いた映画「Boléro ボレロ 永遠の旋律」も公開中なので観てきました。

彼が「Bolero」の作曲家というぐらいしか前知識なく観たのですが、最後があんなことになるとは知らなかったので、ショックと悲しみで涙が流れてしまいました。ポスター見て予想していたよりずっといい映画だった。

主人公ラヴェル役のRaphaël Personnazラファエル・ペルソナもよかった。演技もいいし、何と言ってもイケおじ。ティモシー・シャラメが順調にイケおじ化したらこんな感じになるんじゃ?という感じ。写真見たら本物のラヴェルとはあんまり似てないんですけどね。過去作では「アンナ・カレーニナ」とかは観たけど憶えてない😅。ウィキによると「アラン・ドロンの再来」と呼ばれていたこともあるんだとか。でもアラン・ドロンみたいな危険な雰囲気はなくて誠実そうな感じです(シランケドw)。フランス版「シティーハンター」では香の兄槇村役を演ってる。あ~なんか納得できるキャスティング。

映画の中で描かれたラヴェルのセクシュアリティはほぼウィキに書かれている通り。生涯独身でゲイの噂もあった模様(これは映画では描かれていなかった)。しかし弟子たちが書き残した限られた記録によると、元々友人であり人妻になったミシア・エドワーズのことが好きだったり、バイオリニストのHélène Jourdan-Morhangeとの結婚を考えたりもしたとか。ただ小柄な体に対するコンプレックスがあり、男としての自信の欠如が妨げになったのだろうという推測もある。それで娼館に入り浸っていたのも事実なんだそう。映画では行為はせずインスピレーションの場だけになってましたけどね。とにかく私生活は割と謎に包まれているようです。

で、私は映画を観た後に読んだこのnote記事がショックでした。

ラヴェルの死後、著作権を相続したのは弟のエドゥアルドなのですが、彼の雇ったマッサージ師の女とその夫が、一旦離婚し、女は死ぬ前にエドゥアルドと結婚して財産を全て相続。元夫婦はまた再婚してと、死ぬ間際の年寄りを言いくるめたのか騙したのかよくわからないけど巧妙な手口でこの金の卵を手に入れる。そこからこの夫婦の一族が何百億円という莫大な著作権料を受け取り、タックスヘイブンで資産を隠し、著作権有効期間が過ぎてパブリック・ドメインになったことにも不服を唱え、なんとか延長させる裁判まで起こしていた。

どう考えても赤の他人がまんまと金のなる木を得るために策略した案件だとしか思えない。陰謀論はよくないけど、紀州のドンファンみたいなこと、したんじゃない?とまで考えちゃう。老人ホームの介護士がボケた老人を唆して遺書を書かせて遺産を横取りするような、あのパターン。それで何百億、それも何世代も豪遊し続け、まだ延長させようとするその強欲さ。胸糞悪いったらありゃしない(←私も全くの他人ですけどね😅)。ラヴェル自身の晩年を知った後だけに。彼が命を削って作曲したものが、あの名曲を生み出すための人生だったのかと思うような彼を、死後もトコトン搾取しようとする人間のおぞましさがつくづく嫌になりました。

その裁判、6月に判決が出たようで、なんとか著作権延長は却下された模様。ヨカッタヨカッタ。「Bolero」を聴くたびに強欲一族にお金が入ることにムカつかずに済みそうですw。


最後に…だけどまだ続きます

ということで「モーリス」についてここ最近ハマって深掘りしてきたことなんかを書いてきました。原作を読んで、また映画を観直して、どちらも良さがあるし、改めて「モーリス」という作品が好きになりました。
映画に☆評価を付けるとするなら、う~ん、原作読んだ後だとちょと物足りないかな?と思ってしまうので☆7.5~8ぐらいで。「リプリー」をドラマ化するぐらいなら「モーリス」をドラマ化して、登場人物の感情の余韻なんかをもっと丁寧に描いてほしいな。「ダウントン・アビー」とか「ブリジャートン家」とか、貴族社会とかを描いた時代物は根強い人気があるんだし。

で、このモーリス話はここで終わりかというと終わらないんです。
海外掲示板の「モーリス」スレをいくつか見ていたときに、凄く気になることが書かれていたました。

それは何かというと…モーリスの続編がある!!ということ。

エッ?どういうこと?フォースターはとっくに亡くなっているし、隠された原稿が発見されたのか?と一瞬思ってしまいますが、そうではなく、別の方が書いた作品。それじゃあBL二次創作同人誌と同じ類じゃないの?当時熱狂的ファンだったお姉さま方が既に書いているんじゃないの?と最初は私も思ったのです。が!!一応フォースターの管理団体?のようなところから本家のセリフを引用して使ってもいいという許可を得ていたり、フォースターが教鞭をとったキングスカレッジの学長や教授からもお墨付きをもらっているようなので、フォースター本人の許諾はないけど半公式続編という感じではあるんです。

その本のタイトルは「Alec」
そう、アレック・スカダー視点で描かれた作品なんです。モーリスとの出会いから結ばれるまでを、彼がどのように感じていたか、あの暗闇で待ち伏せしていた彼のいじらしい想いなんかが細かく書かれているわけです。

更に、二人が結ばれてからのことも描かれます。Happy ever afterだと思われた二人に時代の波が押し寄せ…色々な困難が待ち受けます。

もちろん日本語版はないので原書でとりあえずプロットだけ把握するためにザ~っと飛ばし読みしましたが、思った以上に出来がいい!!原作「モーリス」への深い理解と愛情、そして原作者フォースターへの尊敬が凄く感じられる内容。

ということで次回の記事は、その「モーリス」の続編「Alec」について書いてみたいと思います。

久々に「モーリス」の話を読んで面白かった、映画も久々に観てみようかな?原作も面白そう、初めて知ったけど興味出た、今頃こんな考察してんの?遅ッ!でも頑張ったじゃん、その続編、気になるわ~!早く次の記事を上げて…という方は是非「スキ💓」を押していただけると励みになります。ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました<(_ _)>。

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