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会いにきてほしい

祖母から私への不満は「あまり会いにきてくれないこと」らしい。
何かを持ってきてくれるのが嬉しいのではなく、ただ私の顔が見たいのだと。それだけで元気が出るのだと。
隣にいた伯父も首がもげるほど頷いており、満場一致。
私がもっと頻繁に会いにいけば家内安全が保たれるのだそう。

思わず目が点になってしまった。
高速を使っても片道一時間はかかる。
今でも仕事の合間を縫ってできるだけ週に一度は行くようにしていた。
そうでなくても、なにかと呼び出されることもあるし、祖母の定期受診に付き添ったり、伯父の洗濯物を取りに行ったり常に何かしらやっている。

その中でさらに会いにきてほしい、と言うのだ。
いやさすがにそれはちょっと無理があるだろう、と。
退屈で寂しいのは分からなくもないが、働き盛りの孫にそこまで求めるのはどうなのかと思う。それとも世の中の孫は皆、これくらい当たり前にやっていて、私が甘えているだけなのだろうか。

両親の施設にも定期的に顔を出しているし、自分の持ち帰り仕事もある。
翌朝が早い日は早く寝たいけど、伯父の洗濯物があれば深夜でもコインランドリーに行くことは欠かさない。これ以上どうやって時間を捻出したらいいのか、私には皆目見当がつかなかった。

祖母も伯父も記憶が脆い。
会いに行った翌日には昨日のことを忘れている。
だから祖母や伯父の中では私はなかなか会いにきてくれない薄情な孫だと思っているのかもしれない。顔を見せるくらいもっとしてくれてもいいのにと思っていそうだ。

そうしたら二人が喜ぶのはわかっているが、こちらも余力がない時にわざわざ一時間かけて会いに行こうとは思えない。思えなくても手続きややることが沢山あるので、どうにかこうにか行っている。本当はもう少し頻度を下げたいくらいだ。誰かと交代できるのならとうに代わってもらっている。

代わりが効かないと言われるとこちらも辛い。
一つしかない体なのだ。どうにかそのあたりの事情を汲んで欲しい。
認知機能の落ちた高齢者に事情を汲めというのは酷なことかもしれないが、私にも私の事情があるのだ。祖母や伯父を喜ばせるためだけに生きているわけではない。

ケアマネさんが間に入ってくれたら、祖母は長生きしても何もいいことなんてない、息子なんていなくていい、早くお迎えが来て欲しいと嘆き始めた。
そんなのずるい、と思う。
私だって泣けるものなら泣きたい。

高齢者の介護は、相手の気持ちに寄り添うのが大事ということはわかっている。わかっていても出来ないものは出来ない。ギリギリのところでやっているんだから、もっと来てじゃなくて会いに行った時を大事にしてくれたいいのになと、思わずにはいられないのだ。

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小春ゆら
そのお気持ちだけで十分です…と言いたいところですが、ありがたく受け取らせていただいた暁にはnoteの記事に反映させられるような使い方をしたいと思います。