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手放した健やかさ

健康的な生活。
目標を決めて、規則正しく過ごして、というような。
そういう生活を手放そうとしている。

自堕落な、というのとは少し違うが、自分のことを構っていられないという時間の制限と、体力の限界。人からも指摘されるくらい、疲れが溜まっていいても、生活は続いていくのでどうにかやりくりしないといけない。

毎日パズルを解いているかのように、ずっと頭の中で組み立てている。
空いた時間に何を入れるか。
今の私の優先順位一位は仕事。
その次が家族、最後に自分。

これは美談ではない。
介護さえなければ、もっと自分に時間がかけられたのにと何度思ったか分からない。3歳児くらいに感じる祖母を宥めながら、これから先、前のようなしっかりした祖母と出会うことはもうないのだろうかと悲しくなる。

家族を見ていると、未来に希望はあるのだろうかと切ない気持ちでいっぱいだ。正しく生きたとしても報われないのであれば、何のために頑張る必要があるのだろうと、やけを起こしたくなる気持ちも理解できる。
何もかも無駄なのではないか、誰にも迷惑をかけないのであれば、私がそっといなくなってもいいのではないかと思う日もある。

新年早々、縁起でもない話だ。
それでも確実に心と体が蝕まれ続けているのだと感じている。
冷静な判断をするためにも、一度完全に離れたいと思うが、それはおそらく無理だろう。代わってくれる人がいない。

正確にいえば私になれる人がいない。
祖母や伯父は私に会いたいという。そのためにあれこれ持ってきてと用事を作っている節すらある。どれだけ仕事が忙しくて時間がないのだと説明しても、わかってくれたたようで分かってくれない。

次はいつ来れる?
あなたの顔をみるだけでいいの。
それだけで元気になれるの。

そう言われると、心に鉛がついたかのように重くなる。
私のことをペットか何かだと思っていやしないだろうか。
私が暇でいつでも会いに行けるだけの時間と余力があれば違ったかもしれないが、今は本当にこの言葉が辛い。

そうして葛藤し続けた結果、自分の中の健やかでいることを手放すよりほかなかった。両親のこともあるし、両親は自分たちより祖母や伯父に手をかけることを嫌がる。そこで嫉妬しないで欲しいが、分からなくもない。

結局、やっていること自体は代わりがきくが、私に変な付加価値を与えられているせいで代わりがきかなくなっている。これが一番の問題なのだと思う。少子高齢化、高齢出産での一人っ子一人孫の弊害ともいえるだろう。

それでも生活は続く。
おそらくこのワードがこれから先、介護が終わるまでの私のテーマになるのだろうと思う。覚悟を決めて進むために必要だったこのワード。
仕方ないと思える魔法の言葉だ。

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小春ゆら
そのお気持ちだけで十分です…と言いたいところですが、ありがたく受け取らせていただいた暁にはnoteの記事に反映させられるような使い方をしたいと思います。