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永遠に答えの出ない問い

せっかくの日曜日だというのに、午後中オンラインの研修だった。ただただ聞いていただけなのにぐったり。午前はひたすら家中を掃除していたし、午後はずっと研修で気がつけばこんな時間。
休みである実感がないまま月曜日を迎える寂しさに、切ない気持ちになりながらこれを書いている。

今日書こうと思っていたのは、一昨日観た映画の話だ。

あれからサブスクの海を彷徨って最終的に決めたのはこれ。


東野圭吾原作の『人魚の眠る家』。
少し前に原作を読んだので、映画の方もいつか観ようと思っていたことを思い出したのだ。ただ、正直なところこの映画のレビューをできる自信があまりない。なので、レビューではなく少しの感想とそれに伴ったエピソードを書くことにした。

あらすじは省略するが、何をもって「死」とするのかという簡単には答えが出ないようなテーマを前に、この数日私なりに考えてみた。言い換えれば「生きている」とはどういうことなのか、ということでもあると思う。

この映画を観ている間中、私自身にも(おそらく)脳死状態である少女が生きているのか死んでいるのかという問いを投げかけられているように感じた。でもどれだけ考えても答えは出ない。きっと、当事者になってみないと答えの出しようがない問題なんだと思う。今、離れたところから綺麗にまとめられた答えが出せたとして、それは模範解答であっても実際の私の答えとは乖離していると思うのだ。

私自身は、もし自分が脳死状態になってしまったら迷いなく臓器を提供したいと思っている。これはこの映画を観るもっと前から考えていたことだ。私はありがたいことに持病もなく、視力もいい。私の臓器が誰かの命に繋がるのであれば差し出すことに何の躊躇もない。しかし、私の両親、特に母がそれは絶対にやめてと言うので臓器提供カードはまだ書けていない。

母の気持ちもわかる。
もし、逆の立場で母や父が脳死状態になったとしたら私だってきっと少しでも延命して欲しいと望んでしまうだろう。だから、きちんと話し合って理解を得るまでカードに書くのはやめようと思ったのだ。

いい機会なので母にも連絡してこの映画を観てもらった。観終わって涙声で電話をかけてきた母は、「やっぱりどんな形であれ生きてて欲しいって思うよ。私もこの母親みたいになっちゃうと思う」と小さな声で言った。
返す言葉が見つからず、「そっか…そうだよね」とだけ言ってやりとりは終わった。母に酷なことをさせてしまったかもと少し罪悪感が残る。

ただ、このやりとりがあった後も、私の気持ち自体に変わりはない。そう思うのはあまりにも今の自分から遠すぎて、想像ができないから現実味がない、というのもあるかもしれない。大事なのは自分がどうしたいかだと思うけれど、こればっかりは残される人のことも思わずにはいられない。

こんな風にぐるぐると考え続けてはいるが、まだ答えは出そうにない。前例がないと言われても奇跡を信じ続けたくなる気持ちもわかるし、臓器を待っている誰かがいることもわかる。それに、臓器提供を待つのが自分自身になる可能性だってゼロではないだろうから、尚更白黒はっきり決められない。

決められないけれど、どこか遠い世界のお話ではなく、もしかしたら自分や家族に起こりうるかもしれないこととして考え続けようと思う。もし私がこのまま意思表示をしなければ両親が決めることになるので、そんな重い決断をさせるのは心が痛む。
また折をみて、両親とも話したい。

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