本当に我慢していたのはどっち?
折り合いをつける、ということについて考えていた。
どうやら私は、折り合いをつけるつもりで、実は自分の都合がいいようにコントロールしようとしていたようだ。
全然自覚なく、むしろ自分の中では最大限譲歩したつもりになっていた。
とんでもないことをしていたと、気づいた瞬間青ざめた。
何をやっても許されるという甘えがあるとき、人は謙虚さを忘れてしまうらしい。それは相手の優しさだけでなく、多くの犠牲を払った上にあることも、逆の立場になったときの大変さを痛いほど知っているくせに、すっかり頭から抜けていた。
自分の痛みを過大評価し、相手の痛みを過小評価する。
自分を中心に考えているから、こうなってしまうのかもしれない。
自分を大切にするために、相手を蔑ろに扱うのは間違っている。本当は、自分も相手も大切にできるはずで、それこそが本当の意味での折り合いをつける、ということだと思う。
こういうのって、頭でわかるのと腑に落ちるのとでは雲泥の差があって、頭で分かっているだけの時は、渋々やっているだけのことも多い。
心から納得したわけではないので、どこかで自分「だけ」が我慢していると思い込んで、相手のことが見えなくなっていたなと思う。
我慢している私と、我慢させている相手、という構図。
勝手に作り出された、被害者と加害者。
酷い話だ。
そうやって被害者ぶっている場合ではない。
喉元過ぎればなんとやら。
きっと私はしばらくすると、また身勝手な心が出てきてしまうと思う。
何かの拍子に、やっぱり自分ばかり我慢している、と思ってしまう日もあるかもしれない。
だからこうして書き残しておくことで、自分への戒めとしてしかるべきときに読みかえすことにしようと思う。
そうじゃなかった、こっちの道じゃなかった、と引き返せるように。
こうして道標を残しておくことにした。
…でもできれば、頼らなくても済みますように。
そのお気持ちだけで十分です…と言いたいところですが、ありがたく受け取らせていただいた暁にはnoteの記事に反映させられるような使い方をしたいと思います。