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テツガクの小部屋31 プロティノス①(新プラトン派)

・一者
プラトンは感性界の上に英知界を設定した。プロティノスは英知界をすら超えたさらに高きに究極の原理を求めようとする。イデアは現象界の上にあってそれを成り立たせている原理ではあるが、それらは互いに区別されるものであるから、いまだ区別や規定を有している。もし究極の原理を求めようとするなら、こういった区別や規定の一切を絶した原理が求められねばならないであろう。それは知性ですらない。知性は思惟であるが、思惟においては思惟するものと思惟されるものの区別が存するからである。それゆえ一切の区別や規定を超え、存在や思惟すら超えたところに究極の原理を想定し、それを一者(το εν ト・ヘン)と呼んだ。

プロティノスの一者はそれゆえ多に分化する以前の根源的な一であり、一切の多様性や区別を超えている。一者はもちろん空間的・時間的規定を超えており、場所の内にも時間の内にもない。空間・時間はそれ自体が多だからである。また運動してもなければ、静止しているのでもない。それは実体でもなければ、質でも量でもない。それはもちろん形をとらない。形以前であり、むしろ無相である。存在ともいえない。イデアや思惟ですらない。それゆえそれはもはや何ものであるともいえない。むしろ無である。それにはいかなる述語も肯定的には付加されないのであって、我々はただ否定神学的に「これこれのものではない」と消極的に語りうるのみである。プロティノスもまたそれを「かのもの」と呼ぶのみであった。

しかし逆にいえば、一者は一切であるともいえる。一者に対立するものは何もないからである。多と一が対立するなら、両者は区別されているわけであり、だとすればその区別を統一する一がさらに求められねばならないであろう。プロティノスの一はまさにそのような一なのである。一者はそれゆえ一であるとともに全体であるところの単純で透明な一であり、その外ということはありえない。外があるなら、それは一者とは区別されているわけであり、それらを統一する一がさらに想定されねばならないからである。したがって世界にしろ諸物にしろ、一者と異なる何かなのではなく、根源的には一者であり、一者が諸規定をまとったあり方なのである。これを逆にいえば、多様性や規定を有する諸存在も、その根源的なあり方においては同一の単純な一なのである。


参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂





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