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■【より道‐22】ノモンハン戦争に至るまで①

戦後30年の1976年に生まれた自分世代の教えでは、未だ大東亜戦争、太平洋戦争は「過去」の出来事だったため、多くの事柄が公にされず隠されてきたのだろうなと思っている。GHQの戦後処理もあったし日本は戦争に負けたのだから「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」と平和を追い求めてきた。

しかし、戦後76年の現代になると、そろそろ「過去」から「歴史」に変わる節目の時期が迫ってきているのか、それとも、ご先祖さまの導きなのかわからないが、ともかく父とのメールのやり取りを通じて、戦時中にご先祖様が命を繋いでくれた出来事を知ることができたので、自分のなかでどのようなことが起きていたのか、まとめてみることにした。

特に、自分の祖父母、長谷部輿一さんと長谷部貴美子さん、そして幼き頃の御隠居が、哈爾濱、大同、張家口で暮らし「ノモンハン戦争」が勃発した頃までの時代。この時代は、とても複雑で様々な思惑や出来事が起きているので、まずは。「ノモンハン戦争」に至るまでを整理してみる。

【ノモンハン戦争に至るまで①】
明治二十七年(1894年)の日清戦争を経て明治三十八年(1905年)日露戦争に勝利した日本は、「講和条約」で朝鮮を併合し南満州鉄道の権益を得ることになった。そして、鉄道や住民を守るための軍隊駐屯が認められ関東軍を派遣することになる。すなわち、日露戦争に勝利したことで、日本人が満州の地に足を踏み入れることを許されたのだ。

一方、面白くないのは、欧米列強国や日本にいいように権益を奪われた清国、清王朝。国内ではふがいない清王朝に変わり新たな国をつくろうと、若き将校、孫文や蒋介石が立ち上がり、明治四十五年(1912年)の辛亥革命しんがいかくめいによって清国は滅亡する。そして、アジアで初めての共和制国家(君主が統治しない)中華民国が誕生するのだった。

そうこうしているうちに、ヨーロッパでは、大正三年(1914年)に第一次世界大戦が開戦される。日本も日英同盟を理由にドイツに宣戦布告し陸軍はドイツの租借地だった中華民国「青島」を、海軍はドイツ要塞の「南洋諸島」を攻略した。更には、欧米列強の目がアジアから離れている隙に、日本はできたばかりの中華民国政府に対して「対華二十一カ条」の要求。主にドイツ権益の継承や日清戦争で勝ち得た満州権益の延長などを求めた。しかし、このとき日本がみせた中国侵略の野望をアメリカが危険視し大正十二年(1923年)に日英同盟が破棄されてしまう。

少し戻って大正四年(1915年)に「対華二十一カ条」を要求したあたりから、中華民国での排日運動が盛んになったようだが、建国3年目の中華民国国内は、まだまだ安定せず内戦が続いていた。しかし、孫文(広東軍)と蒋介石(江西軍)が手を組むと国民政府軍が樹立され、小さな軍閥をドンドン吸収していった。そして、昭和元年(1926年)には、国民党軍が共産党軍を北に追い詰めていき(北伐)中華民国の国家統一がいよいよ目前に迫ることになった。

この頃、満州の大軍閥としてチカラをもっていたのが、東北軍の張作霖。張作霖は日本軍の後ろ盾もあって勢力を拡げ続け北京に自治政府までつくるようになっていた。日本軍も張作霖とそれなりにうまく関係を保っていたが、勢力を拡げた張作霖は、自らの事を「大元帥」と称し威張り散らかすようになり、日本の言うことを聞かなくなってきた。

そこで満州権益を守りたい日本政府と陸軍は、「蒋介石の国民党軍と直接衝突するより、張作霖を排除して、満州国を日本軍が統治しよう」と考える。そして国民党軍との戦いに敗れ逃げてくる張作霖が乗った列車を爆破したのだ。それが昭和三年(1928年)の張作霖爆殺事件。

関東軍は知らぬ存ぜぬを通したが、宮中の天皇陛下側近たちは、「どうもこの事件は関東軍の仕業のようだ」と疑いはじめ、当時の総理大臣、田中義一首相を呼び出して、張作霖爆殺事件の調査と日本人が関わっていた場合の処罰を厳命するが、すったもんだ色々な思惑が入り混じり、なかなか対応が進まず、ついには、天皇陛下が直接、田中首相に総辞職を促した。

このとき、政治に口をだしてしまったことを天皇陛下は大いに反省し「内閣が上奏するものは、たとえ自分が反対の意見を持っていたとしても裁可を与えることを決心した」と語っている。すなわち、張作霖爆殺事件により日本国は統帥権が名ばかりのモノとなり、ガバナンスの効かない国になってしまったのだ。

この頃、海軍内でも派閥争いが発生していた。昭和五年(1930年)第一次世界大戦の戦勝国である日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの五大国で締結した「ロンドン海軍軍縮条約」を支持する「条約派」とそれに反発する「艦隊派」にわかれて揉めていたが、軍縮に我慢ならない「艦隊派」が昭和七年(1932年)に当時の首相、犬養毅を暗殺するクーデター「五・一五事件」を起こし、その結果、アメリカやイギリスとの距離が生まれてしまうことになったのだった。


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