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■【より道‐29】人は死ねども刀は残る_白虎隊の脇差②

ファミリーヒストリーを通じて、日本の近代史を学んでいくと色んな出来事が全てつながっているんだなとつくづく思う。いままでは、その時代、その時期、その出来事ごとについて学んできた。

「明治維新」「戊辰戦争」「西南戦争」「日清戦争」「日露戦争」「満州事変」「日中戦争」「ノモンハン戦争」「太平洋戦争」

特に、GHQからの敗戦教育を受けた我々団塊ジュニア世代は、『日本は悪い国、真珠湾攻撃で「太平洋戦争」を開戦した。大空襲、無残な戦い、広島・長崎の原爆。ひもじい生活、二度と戦争しない。武器はつくらない。』と脳みそに刷り込まれてきたので、おそらく、満州国の存在自体も知らない人の方が多いと思う。

もちろん、自分たちの子孫や未来人には、現在と同じように平和な時代を維持し戦争をしないで欲しいと心から願っている。そのためには、ただただ、悲観的な教育を受けるのではなく、事実と背景をしっかりと学ぶ必要があるのだろうな。

幕末の志士たちが命がけで理想を描いた現代の日本は、果たして人々が平等に暮らせる未来になっているのだろうか。戦時中、自らの命を犠牲にしながらも愛する家族を守った英霊たちの願いを我々は叶えることができているのだろうか。

1853年(嘉永六年)ペリー来航からはじまり1945年(昭和二十年)の敗戦まで続いた100年戦争は、そんな願いが込められた戦いだったと思っている。



原敬はらたかしの理想と政治】
1900年(明治三十三年)伊藤博文と西園寺公望さいおんじきんもちに誘われて、大臣になることを条件に「立憲政友会」入りした原敬は、1921年(大正十年)に東京駅で暗殺されるまでの21年間を政治家として過ごしました。

新聞社時代に培った政論と政治手腕をいかんなく発揮し、政党政治(多数党)、現在の自民党の基礎をつくり上げた人と言われています。

政治の話は、正直難しすぎてなかなか理解することができないですが、自分の心に残った要点をまとめてみると、明治政府は、伊藤博文、山形有朋、井上馨、あとは大山巌という薩長派閥が権力を握り「富国強兵」資本主義経済を目指しました。文明開化の音がするーーですね。

しかし、この絶対権力を握る元勲げんくんたちが、年老いていくと政治の中枢に空白がうまれる。それをうめるには、政党政治が必要であると考えた原敬は、議席数の過半数以上を占めるまで「立憲政友会」の勢力を拡大させて、やがて総裁として全権を握りました。

この、「政党政治」という言葉が、最初しっくりこないというか、よくわからなかったのですが、大河ドラマ「晴天を衝け」を見て想像すると、政治や経済、軍隊の中心を薩長の元勲たちが担いますが、1日でも早く欧米列強国に追い付くためには、薩長の人材だけでは人手が足りません。渋沢栄一など徳川派の優秀な人材も政府官僚にスカウトして新しい国づくりを進める必要がありました。

すると、各省庁や各都道府県、自治体、もっというと朝鮮や満州には様々な思想をもった人たちが集まり派閥をつくります。元勲たちが生きているうちは、トップダウンで物事を進めることができますが、いなくなったらそうはいきません。現に、日露戦争は、伊藤博文、山県有朋、井上馨、松方正義、大山巌の5人と一部主要閣僚によって政略・戦略を決定していたそうです。

では、どのようにして、原敬が政党勢力を拡大していったかといいますと、その手法は、「金の欲しい者には金をやり、酒を欲しがるものには酒を飲ませて党勢を拡大し、金の配給の仕方は、一万円といえば一万五千円、一万五千円といえば、二万円を渡していた」と言われています。

「人間は、金か利権を与えなければ、そう動くものではない」と皮肉を語っていたそうです。しかし、「金だけでは動かぬ」ということにも理解しており、細心の気を張り、人の心に寄り添い、困っている党員に対しての面倒見がよかったとも言われています。

原敬が暗殺されなければ、もしかしたら、日本が辿る結末が違うものになったのではないかと思うほど、先見の逸話がいくつもあります。1908年(明治四十一年)に原敬は、6ヶ月間にわたり欧米を訪問する長期外遊に出ました。アメリカに1ヶ月間滞在すると、アメリカの底力を知り、対米協調路線を一貫して主張したそうです。

1915年(大正四年)大隈重信が中国総統の袁世凱えんせいがいに「対華二十一カ条」を要求すると、原敬はただちに反対しました。また、日英同盟を理由に第一次世界対戦に参戦した戦争理由「三国干渉の報復」についても、「たかが青島ひとつをとる戦争ではないか、あまりに軽率すぎる」と非難しました。その真意は、中国が最も頼りにしているのはアメリカであり、米中の動向を考えていない大隈内閣を遺憾であると表明していたそうです。

他にも「日米戦争説に口実を与えないようにする必要がある。日本軍人がアメリカを仮想敵視するのは危険である」「将来アメリカは、世界を牛耳るに至る、支那問題はアメリカとの関係に注目して処理せよ」と戦後の見通しをたてていたようです。

また、「シベリア出兵」についても原敬は強力な反対論者となり、「これを端緒として大戦に至る覚悟がなければ一兵卒も出すことは不可である」「万が一ドイツとロシアが同盟を結び日本と対戦する場合、英仏は頼りにならないが、米からは軍資を得ることはできるでしょう」と対米協調路線を一貫して唱えていました。

結果、アメリカも「シベリア出兵」に同意したため、原敬も、「日米協調の端緒となるのであれば――」と賛成しましたが、シベリア大量出兵には依然反対することを表明していました。しかし結局は、7万人もの兵力を投入しロシアから反感を買ってしまいます。更には、ロシアパルチザンに日本民間人含む122名が殺害される尼港事件にこうじけんが勃発。その補償として、日本軍は北樺太を不法に占拠しました。

以前にも記したことがありますが、この「シベリア出兵」は、多くの人命、多額のお金、ロシア人からの不満、アメリカからの信頼を失った、日本外交史上、もっとも失敗した外交といわれています。

1921年(大正十年)ワシントン会議、軍縮会議の参加に対しても、賛成の意志を伝えて、アメリカ政府とアメリカ世論に平和を訴え歓迎されていました。しかし、その矢先に中岡艮一なかおかこんいちに暗殺されてしまうのです。左胸を短刀で全体重をのせられて――。

現役の内閣総理大臣が暗殺されたはじめての事象です。1921年(大正十年)11月4日死亡。享年65歳。

逮捕された中岡は、死刑の求刑に対し無期懲役の判決を受けることになります。この裁判は異例の速さで進められました。また調書などもほとんど残されていない謎の多い裁判で、その後も中岡に対し特別な処遇がなされて、3度もの減刑が行われ1934年(昭和九年)に釈放されたそうです。

福岡藩の玄洋社や、大陸浪人・頭山満などと関係があったという説や、ワシントン軍縮会議の反対派とつながっていた説。中岡が上司との政治談義をしているなか中で「腹を切る」と「原を斬る」を勘違いした説など、かなり無理やりな説含めて様々な陰謀論がありますが、大正時代の国民の政治に対する熱狂、いきすぎた大正一揆が原敬の暗殺を招きました。原敬の死が太平洋戦争敗戦の道に進んだ一つの要因だというのが、今回のファミリーヒストリーを通じて学んだ自分の感想です。

最後に、「立憲政友会」総裁であった原敬は、1917年(大正六年)盛岡市の恩報寺おんほうじで開かれた「戊辰の役五十年忌」に参加し祭文を起草し朗読しました。難しい言葉をつかっているので、自分なりに解釈した文面を以下記載します。

「昔も今も朝廷に弓を引くものなどいない。戊辰戦争は政権が変わっただけなのに、勝てば官軍負ければ賊軍という言葉が流行した。しかし、その真相は、先人たちの恩恵により天皇が徳に優れ聡明なことは天下の事実で、不当の死を遂げた先人は成仏できる。自分はたまたまこの郷出身だが、この祭典に参加できることを光栄に思うということを、先人の霊に心を込めて打ち明ける」

明治維新、戊辰戦争で苦渋を味わい、「賊軍」と呼ばれた東北出身の原敬が、薩長派閥域外で初の首相となったのは翌年の1918年(大正七年)の事です。原敬は、華族の爵位拝受を固辞し続けたため「平民宰相へいみんさいしょう」と呼ばれていました。


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