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センス・オブ・ワンダーと沈黙の春

レイチェルカーソンのセンス・オブ・ワンダーの本の写真とともに、
「先生の農業のことを思い出しました」
と生徒さんのお母さんからlineが届いた。

私からは
「沈黙の春も読んで。この二冊はセットだから。」
と返した。
ちょっとぶっきらぼうだったかも、と反省。
ただ、この二冊は、
読み直す迄もなく、自分の中にまだその残光が残っていて
素通りができなかった。

レイチェルカーソンに出会ったのは
まだ20代だった気がする。
有吉佐和子の「複合汚染」の引用から
「沈黙の春」にたどり着いた。
この二冊を20代で読んでしまったがために、今がある。
読まなきゃよかった・・・
というのは嘘だけど、ちょっと本音でもある。
それを知って、彼女らの生き様を知っていて、
いざ、自分が、実家の土地をどうするかという時、
除草剤や農薬まけるかな。
できないよな。

本って、ある意味過酷かもしれない。
読み手次第、読み方次第とは思うけれど。
普通に農業してきた母には
いつも反論ばかりで申し訳ないと思う。

沈黙の春とセンスオブワンダーから受けた影響は、
自然保護の精神というよりは、その筋の追い方。
観察の方法、その空間的な広がりと、時間的なひろがり。
あの時代、
人間の「発展」のなにもかもが素晴らしいと捉えられていた時代に、
レイチェルカーソンは何を見ていたんだろう。
自然の輝きと、人が介入することで変わるその姿。
明らかに見えてしまったものに、どう向き合っていったんだろう。

人は面倒臭いことには目を瞑りたがる。
そして目を瞑っていることにさえ気がつかない。
私だってそうだ。
できれば楽に生きたい。
心地よい庭でも手入れして時々良いお茶を入れて
優雅に暮らしていたい。
センスオブワンダーだけ読んでおけば、それができたのかもしれない。
ワクワクしながら。

残念ながら、先に読んだのは、沈黙の春のほうだった。
まだ新刊だったセンスオブワンダーを
手にとったのは、あの沈黙の春を描いた
レイチェルその人を知りたかったからだった。

自然の小さな一つ一つの出来事に驚きを持って出会う、
あの眼差しで、
世界を見た時に、それはどんなふうにうつっただろうか。  

私はある日まで、実家の畑には関心がなかった。
でも除草剤でかれた畑を見た時に、
おそらくは私の中で蘇ってしまったんだろう。
本って、すごいっちゃすごい。
こういうことになってしまうのだから。
気がついたら実家で自然農の真似事を始めてしまった。

でも、自然農を選択したのは、農薬や除草剤が害になるからというよりは、
自然の自然そのものに近い姿をみたいとおもったから。

30年以上まえによんだ、あの衝撃的な、そして魅力的な本の作者の声は
無意識に深く眠ってたんだな。
ああめんどくさい。
でも、見えてしまっているものの蓋を閉じることはできない。

そうだったんだ、
レイチェルカーソンや有吉佐和子が書いていたことは
杞憂なんかじゃなかった。
30年経ってわかった。
彼女たち亡き後に、
ミツバチが今年は来なかったらどうしようと不安がよぎる春に、
この連日摂氏33度をこえてくるこの夏に、気が付く。
かといって、自分にできることといえば、
小さな畑にしゃがんでみることしかない。

しゃがんでみた世界には、でも本当に、確かにそこにあった。
確かにある。
自然と自分の、繊細でダイナミックな響きあいが。
あの、私の中のセンスオブワンダーを引き出してくれる、
小さくて、とてつもなく大きな世界との出会いが。

(*注・農業なんて立派なことはできていません。
農家さんにしてみたら遊んどるくらいのことしかできてないのよ、本当に。
ただ、4年目になって、初めてオケラを見ました。
ねじ花があちこちで咲くようになりました。
太鼓打も時々見かけるし、カマキリも住み始めました。
度々見かけていた真っ黒のバッタや羽虫は姿を消したようです。)


それから、
レイチェルカーソンの、筋の追い方、
自然への畏敬ゆえの観察力と時間軸と空間軸。自然と人への眼差し。
それは私にとっては、音楽の筋道を立てていく指標にもなっていたかもしれない。
畏敬・・といえば、生命の畏敬と音楽と深い関係のシュバイツァーも思い出した。
またいつか彼のことも思い出して書いてみようかと思う。







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愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!