音楽前夜(谷中みか)
人たちのかけがえのないいとなみと連動する音楽のことを考えたい。 音楽学者ではないけれど、いえ、だからこそ見えてくる音楽があるはず。音のない音楽のことや、自然のなかの音楽のことなども。
除草剤や草抜き・草刈りが生きものの姿を変えていくのを目の当たりにしながら、でも、楽しく谷中のワンダーランド化している、実家の話です。松野町は実家の在処。そしてたまに音楽室前の庭の様子。
大人や子供がやってきて音楽をまなぶここutena music field での出来事と、日々のふりかえり、明日への希望などを。 音と音のあいだにある音楽と西洋音楽の仕組みへの敬意と、暮らしのあらゆる場所に偏在する音楽と。そして、私。
動線で音楽を伝え合えうutena drawing は、生徒とのやりとりに苦労したことからはじまりました。子どもたちにやってみる?というと大喜び。そして何より驚いたのはその効果でした。そこに至ったその源流はいろんなところにあります。そして、これからutena drawing はどんな道を辿っていくのか・・・
とにかくやってみないとわからないutena drawing ’音楽を描く’です。 utena drawing をつかった音楽プロセス体験がどんなふうにはじまるのか、ワークショップに行ったつもりでやってみることができる記事です。動画もたくさんありますので、画用紙と滑りの良いクーピーなどを用意してやってみて。メンバーシップやワークショップ参加を迷っているひとにもおすすめです。
昨日の記事で、ワークショップの紹介をさせていただきました。 12月に入門講座と個人ワークをリアルで体験する機会になればと思い 東京でも開催しますので今日はそのご案内です。 音楽を描くという方法、少し変わっていると思われるかな・・ 私も色々探してみたのですが、他に同じようなワークを見たことがないです。 海外のなんとか有名なーみたいな背景は全くなく小さな音楽教室をやっている私のところから生まれてきたものなのです。 だから、気負わずに気楽に受けてみてください。 絵を描くのなんて
身体にはみずうみのような深さがある。 音楽と関わっていると、そう感じる時があります。 身体が反応してできるという世界観の中で 見えている音楽は、どこかまだよそよそしい。 演奏に応じて、理解に応じて、練習に応じて 身体は深いところから 動きを導こうとする。 できないことが、できるようになったとき、 できなかった頃の身体はもういなくていいのだろうか? その軌跡が、身体の深度になっていくような気がするから 最初から問題なくできる、という身体とは違う道筋を辿ってそこに辿り着い
とにかく草を刈っては敷いていく、の繰り返しで、不耕起自然農も4年続ければ、土が変わってくる。それは間違いない。小さなスコップを地面に差し込むと肌理の柔らかい程よい水加減の土がほろりと盛り上がる。ここがガチガチの粘土質の土だったとは思えない。 ・・と言っても、それは広大な実家のほんの一部 4年を経ての収穫ナスとゴーヤ、ししとう、唐辛子はまだなっている。 ピーマンやバジルも秋になって勢いがついてきた。 里芋、生姜も上の畑はそれなりにできた。特に生姜はこの畑に向いてるんではないか
音楽を描く(utena drawing)音は、 時間の中にあります。 耳を澄ませる、ということは、 時間に心を寄せる、ということでもあります。 音楽に耳を澄ませ、そのさまを描く。 そこには、どんな形であれ、 音楽と、”私”とのふれあいが あります。 描かれたものは、かけがえのない”私”の時間の経過でもあります。 utenadrawingは、音楽を描いてみる、というちょっと変わった方法です。 そしてそれを支える内容・理論の方はもっと風変わりなものかもしれません。
今日のお話 手加減とか目分量っていうのは ざっくり、っていう感じと、そっと、という感じがあいまって それが程よいランニング感になっていくとうまくいく気がします。 それは、昔よくやっていた編み物や縫い物も、 そして音楽も、同じかもしれない。 という話と、 ちょっと宣伝もしてます。 手芸の手加減、目分量 昔、まだ30代だった頃、縫い物や編み物が好きでした。 一枚のセーターを作る前に、作ろうと思っている毛糸で小さな四角いゲージというのを作ります。それで自分の手加減や、編み棒の
ボイトレを受けてわかったのは、自分が腹式呼吸がわかっていなかったことと、裏声も出したことがなかったこと。 コロナ時代、すっかり歌わなくなった時期はちょうど私の身体が老年期にさしかかった時期でもあり。で、本当に歌声がまともに出なくなった。全ては歳のせい・・と思っていたのだけれど、ちがった。 色々トレーニングで得た知識で自分を振り返ってみると、そもそも喉を潰して高音を出していたようで、若い頃はそれと知らず地声で高いソ・ラあたりまで引き上げて歌っていて、ちょうど中音部あたりがへた
自然農は季節の変わり目に耕運機で畑をたがやなさいので、この畑を開いた時の畝をそのまま使います。耕うんの大変さ、その後の草の除去の大変さを思えばこれは本当に楽で、月に2・3度しか畑仕事ができない私にはこの方法しかなかったと思います。 それに、レイアウトしながら少しずつ開拓していくのは、まるで庭のような楽しさがあります。 4年目の畑 水みち 前回耕運した母の畑。 何度も人に頼んで耕運機をかけているうちに真ん中が凹んで水が溜まりやすくなっていたのを、何回か耕運機で土を柔らかく
場(フィールド)がみずから生命を持つことについて、何かにつけ、考えてきました。 コンサートでもそうだし、ワークショップでもそう。 対話とかもそうかもしれない。 組織、グループ、街、コミュニティ、学校・・・ 条件が整えば、それはきっと可能なはずだ、みたいなことを漠然と考えていて でも、じゃあ、どういうのが”みずからが動き始める場”なのか、それはその場に居合わせる人が皆感じるものなのか、自転し始めた場はどこへ向かうのか。 先週末の土曜日、ほぼ二週間以上ぶりに実家に帰ってきました
ピアノ教室で生徒に渡すテキストは、先生が使い馴染んだものが良いと思います。 使っているテキストを全面的に信頼するみたいなことではなくて、世の中に山ほどあるピアノテキスト・メソッドはどれも一長一短なので、そのテキストの癖を知り尽くしておくほうがいいという意味で。 足りない部分は、生徒の進み具合や自分の匙加減で足したり引いたりができて、いらない曲はさっさと飛ばして、必要なら順番も変えてしまば良いし。そういうことができるためにも、よく知ったテキストである必要があると思います。
アヴェ・ヴェルム・コルプス(モーツァルト晩年の小さな合唱曲)を中心にしたオンラインワーク。 今回は、白いキャンパスに全体に薄く柔らかなスケッチをし、徐々に細部へと深めていくようなものになっていきそうです。 10月23日に一回目がありました。 普段私たちは楽曲と向き合うときに、 楽譜の最初、左端から譜読みしていく、という取り組みから始めますが それは、絵画に置き換えてみると、キャンパスの一点から描き始めるようなものかもしれません。 ここではそうではなく 例えば、真っ白なキ
人と音楽の間を満たすものについて 今の社会の正体のなさって 一つには”私”の読み解きの掘り下げ方のまずさがあると思う・・・ ーー こないだから「私」ってなんだろうと探っているのだけれど それは昔、若い頃考えていたような、メンタル的なところではなくて 動きや、中心のあるなし、と言えばいいのか ちょっとうまく言葉にできないけれど ちょっともしかしたら何か近づいてるかもしれない。 そもそも、そう、昔は 「私」とは感情であり、身体であり、思考だと思っていた。 触れられる存在に
音楽の背中・暮らしの奥に(日記) 10月6日に一般的にいうところの音楽教室の発表会、うち的にいうとリトルコンサートが終わって、一週間の休みの後、レッスンが始まって2回目。 いつもののんびりな音楽室に戻っています。 あくびばっかりしてる男の子。話ばっかりしてくる女の子。笑 一人一人の生徒についてコンサートでの出来具合とこれまでの手帳の書き付けから何が必要かを書き出してみたり、改めて観察してみたら、左手の指番号の脳内マッピングが真反対だったことに気がついて、今更ながら修正した
utena music fieldでは、音楽教室の先生たちとレッスン研究をしています。 そこで 「みんなが知っていると思っていた歌を、最近の子は知らなくて、ちょっと戸惑う」 ということが話題になりました。 例えば、10人のインディアン、みたいな、昔は暮らしの中で自然に耳に入ってきていて、覚えやすくって、誰でも歌えた歌。 いまどきの子は「知らなーい」「初めて聞いた」っていう子も多い。 確かに。 そう、昭和うまれの私などが、誰もが知ってると思っていた曲も、今の子たちには耳馴染
言葉の切れるところ 音と音の間を繋ぐところに きっと人としての本質的な何かが息づいていて それは、美しいものでもあるし 有象無象の跋扈しているところでもある 聞き取れないものに耳を澄まし 触れられないものに手を伸ばす 一番遠くの音は、私に何を伝えようとしているのかしら 寝転んで風の匂いを嗅ぐように 画用紙の前でもの思う これから描くのは 絵ではない 描くのは音楽 私の。 奏でるように描き 描くように奏でるそこには 自分の音楽が間違いなく、 そして否応なく 自分の音楽で
新幹線に乗って、二つのレッスンを受けてきた。 オイリュトミーと発声法。 60年生きてきてもまだ、 自分の身体には知らない場所がたくさん眠っていて それはそう簡単には動き出さない。 思い込みや習慣で動かしてきた体を もう一度やり直してみよう、というところ。 そしてこの楽しさをなんと伝えれば良いだろう。 私はまだ世界を知らないし、 音楽に届くにはまだまだ未知が溢れている。 イメージはわかる。 そうそう、それなんだけれども、もどかしい。 私はそれができない。 それが身体で動き
川が近いので、朝霧がよく発生する実家の畑。 ビーチパラソルは買って正解。夏の間重宝した。 そして、蒔かぬ種は生えぬ、とばかりに、手当たり次第に9月から種まき、苗植えしている。 人参はなんど蒔いても何かに食われてしまう。じゃがいもは暑さで2/3は根がつかなかった。残りの1/3がなんとか成長しはじめている。 タネまきしたもの:小松菜、ルッコラ、水菜、人参、レタスミックス、結球レタス こかぶ、にんにく、白菜、タァサイ、のらぼう菜 玉ねぎ(セルまき) 春菊 苗を買