庭

うてな・場所

「講師」「おけいこ」「教室」が音楽を狭めてしまう

絵描きさんなんかは、みんなアーティストなのに、音大出たひとは「ピアノ講師」なんだか、それはとても残念な気がするのです。

そして、「教室」「おけいこ」

なにかもう、芸術からどんどん遠ざかっていくのは必然な気がします。

そもそもずーっとピアノ教師とか音楽講師、という肩書きもどうにも私にはかたくるっしくって、なんか、センスもないし、好きじゃなかった。

でも、たしかに、「知識」とか「技術」とかも”教え”なければ音楽を共有できないわけで、ずっともんもんとしてきました。

私がやっていることも講座、という枠にとどまる限り、今までの習慣的に、先生は全部知っていて、生徒はそれに従っていればよい、というような(かなり偏ったかんがえかたではありますが)そんなところから変わっていけないような気がします。

utena  の由来

20年以上も前に、私は一体何を思って屋号を「うてな」にしたんだか。
当時さねよしいさ子さんの、「うてな」というCDが好きで、それで「うてな」という言葉を知りました。子供の十字軍がとても好きです。

触れるは痛みの始まりで・・
それでも僕らは知りたいよ・・・
(子どもの十字軍から)

さて、それでいろいろ調べました。
うてなとは
萼と書くと花のガクのことです。
植物好きにはたまらない。ガク。花びらをしっかり支える土台です。

そして、台とかいて(うてな)と読むこともできます。
これは、高台のこと、見晴らしの良い場所のことです。

そういえば、はすのうてな、という言葉を聞いたことはありますか?
はすのうてな、は仏様が座っておられる蓮の花の台のこと、
この台は萼ではなくて、台ですね。

真ん中を支える放射状の広がり、みたいなものも感じます。

そのころから、
学ぶひとが見晴らしよく音楽を眺めることができたら、
自分で音楽を構築できるはずだから、
そこを目指したい、という思いはありました。

そして、ある時ドイツから帰ってきた友人が
教会でこの言葉に出会った、と教えていただきました。
萼はドイツ語で Kelch と書きます。
花の萼であると同時に、聖杯のこと、なのだそう。

これは随分あとになって知った話。

そして”教室”からfieldへ

そして、数年前、東京へ出かけるようになった頃から、
やっぱり「教室」に違和感アリアリだった私は
屋号から「教室」も取っ払ってmusic fieldに。
まあ、考えてみたら、教室を飛び出してしまったのだから、
当然かも。

うてなは正直ひらがなはちょっと苦手。
でも、萼も台も、そのままでうてな、とは呼んでもらえないと思うので
utenaとローマ字にしました。もろ日本語ですが。
Kelchでも良かったのかも。いつかドイツに行く時が来たらそうしましょう。

名前にやっと追いついてきた

ホームページの紹介ページに手を入れました。
これから、この名前に近づくように、それは多分私が無意識に求めてきたように、
そちらへ舵を切っていくために、少しづつこれからもっと手を入れて、もちろん、それは仕事のあり方も見つめ直していく、ということです。

古くギリシャ時代、音楽は学問であり、治療でした。
そして、音楽は人が生み出すものではなく、宇宙にあまねく存在するものでした。その宇宙ひとしずくを、私たちはいま、西洋の記譜法と演奏によって身近なものとして親しんでいるのです。
また、ギリシャの考え方では音楽は私達の身体の外側にあるものではなく、身体そのものが音楽とかんがえられていました。
だとしたら、私たちは自分の内側にはそれぞれに音楽という宇宙を持っている、
ということなのではないでしょうか。
そのひとりひとりの身体の音楽が育つのを大切にできないだろうか。
そして、それを西洋の叡智としての音楽と具体的につなげていくにはどうしたらいいだろうか。
それが、utena music fieldの発想の原点です。

続きはHPに。お暇でしたら覗いてやってください。
https://utenamuse.mimoza.jp/introduction/

*トップの写真は、2017年の庭の様子。

夢乙女というバラとミケリテというクレマチスです。
HPと同じ写真を探したのですが見つからないので、これを上げました。

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音楽前夜(谷中みか)
愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!

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