小説:駐在最後の日の喜劇(小姐に嵌まる男たちマガジン)
単身赴任の駐在員として中国は無錫に来て八年が経とうとしていた。一般的に三~五年が駐在期間なので、八年の駐在というのはどちらかと言えば長い方だ。なのに未だに日本本社から「戻って来い」のお呼びは掛からない。後任を見つけられないのであろう。中国なんて嫌なんだろうな。でも住めば都とはよく言ったもので、僕は無錫という城市を好きになっていたから、もうしばらくはここにいたいなと思って駐在生活を続けている。
ここ無錫はそれなりに日本人も多く、日本料理店が五十店舗、日本人向けの飲み屋六十店舗が集まる假日広場という飲食の商業施設がある。夜な夜な日本人が集まる広場だ。
ほぼ毎日足を運ぶ人も多く、僕もその一人で、無錫に来てしばらく経つと馴染みの店も出来てくる。僕も週に一回以上は行く店がいくつかある。そのいくつかの店の一つ『浮雲』に入った。小さい店だが日式洋食が中心の店で、焼きカツカレーが大人気の店だ。
「吉北さん、久しぶり~!」
この假日広場では週一レベルでは「久しぶり」という挨拶になる。
「ルンルンは今日も元気だね!」
ルンルンはこの店のオーナー店主で、僕が無錫に来た八年前からの知り合いだ。
僕はカウンターに座った。椅子を一つ間においた隣の席には先客で澄川さんがいた。澄川さんはこの店の常連で、ほぼ毎日来ていた。僕が『浮雲』に来て彼がいない時はまずなかった。彼とは友人でもなく、親しい訳でもないのでが、この店では必ず顔を合わせるので、挨拶プラス世間話をするくらいの間柄が三年くらい続いている。
澄川さんがトイレで席を外した時、ルンルンが僕のそばに近寄り小声で話し掛けてきた。
「吉北さん、お願いがある。今日、カラオケに付き合って欲しい」
「カラオケ? 急やなというか誘ってくるなんて珍しいな」
「お願い! 吉北さんが知ってるところでいいから」
「知ってるとこって言っても、この広場内なら、日式クラブくらいしかカラオケがあるところ知らないぞ」
「うん。大丈夫。そこでいいから」
澄川さんがトイレから戻って来た。ルンルンは僕のそばから離れ、澄川さんにこう言った。
「カラオケなんだけど、吉北さんも一緒でいいかな? カラオケできるところ知ってるって言うし」
まさか澄川さんと一緒とは思いもよらなかった。だがこの時に、何か事情があるんだなと察した。澄川さんの方を見ると、ちょっと残念そうな顔をしていた。
「吉北さん、なんかすみません」
「いえいえ、こちらこそ」
恐らく澄川さんはルンルンをカラオケに誘い、二人だけで行きたかった。ルンルンは常連客なので断るわけにはいかず、だけど二人だけで行きたくないから、安全対策として僕を誘った。きっとこんな感じのシチュエーションなのだろう。
「澄川さん、では、そろそろ行きましょうか?」
行き先はクラブ『桃桜』にした。本来は男同士で行き、好みの可愛い小姐を選び、小姐と会話をしながら、歌ったり飲んだりするところなのだが、近くに量販カラオケ(通常のカラオケ店)がないのだから仕方がない。歩いて3分ほどだ。
ルンルンは少し店の片付けをしてから直ぐに行くということで、僕と澄川さんが先に店を出た。
「『桃桜』ですけど、いいですか?」
「あ、はい。一度同僚に連れられて行ったことがあります。ところで吉北さん、お願いがあるんです」
えっ? 今度は澄川さんからお願い?
「はい。なんでしょ? 僕にできることでしたら」
「僕、今日が最後なんです。明日帰国なんです」
「えっ! そうだったんですか。全く知りませんでした」
「それで最後なんで、ルンルンにどこか遊びに行こうと誘ったんです。やっとです。三年以上誘い続けてやっとなんです。なので、僕とルンルンがうまく行くように協力してくれませんか?」
僕はルンルンと映画に行ったり、遊園地に行ったりしていたし、ルンルンが断ることは、何か理由がない限りなかった。これはルンルンは澄川さんのことが嫌いか、僕のことが好きってことだな。というか、澄川さんは三年もの間、ずっとルンルンが好きで『浮雲』に通ってたんだな。そして駐在最後の日にやっと店外デートがかなったわけか。なのに僕がついているという想定外にあってしまった。というか、その前に最後の日に一人で食事って寂しくない? 可哀想に思った。
「うまくいくように協力?」
「はい。僕、今日、ルンルンに本気で告白するつもりなので、お願いします!」
ルンルンが厨房のボンくんと結婚しているってことも知らないのだろうか? 本当は応援出来ないんだけど、今日が最後の日だし、このまま勘違いをして帰国してもらおう。それがいい。それが一番いい。
「告白?! 応援します」
三人で『桃桜』の個室に入った。通常ならここで小姐を選ぶのだが、ママにお願いをして、ドリンクとカラオケの世話をしてくれる妹妹(サービス係)だけをおいて、小姐無しでカラオケとお酒だけ楽しませてもらうことにした。
カラオケは順番に歌った。ずっと順番に歌った。というのもルンルンは日本語の歌を知らないし、澄川さんは中国語の歌を知らないし、僕がルンルンとデュエットするわけには行かないし。それに輪をかけて、澄川さんの駐在最後の日の寂寞感が空気として漂っていた。
長い長い一時間が過ぎた頃、澄川さんの告白はまだだったが「そろそろ帰りましょう」と僕が声を掛けお開きとなった。
『桃桜』を出て、三人はタクシー乗り場へ歩き出した。
すると途中で澄川さんが立ち止まった。
「ルンルン!」
告白を始めるのか!?
「ルンルン! 一緒に帰って欲しい。今日が最後なんだ。一緒に帰って欲しい!」
えっ? それって告白?
「ダメですよ」
とルンルンはつれなく返事をした。
「お願いだ! 最後のお願いだ!」
と言って、ルンルンの手を引こうとしたが、ルンルンはそれを遮って、僕の後ろに逃げ込んだ。
「お願いだ! 一緒に、一緒に帰ってくれ」
土下座だった。泣きながらの。
「澄川さん、もう諦めてくださいよ。こんなお願い、応援出来ないよ」
「チ、チ、チクショー!」
澄川さんは走ってタクシー乗り場の方へ行ってしまった。
「吉北さん、今日は本当にありがとう」
ルンルンに笑顔が戻った。
「いえいえ、これで良かったのかなあ?」
「澄川さん、帰国が決まってから、ずっと『やらせて欲しい、やらせて欲しい』って」
「うわっ、そんな人だったんだ」
「うん。前から店でも二人きりだと変な人だった。でも三年間、毎日来てくれていた」
「だから、最後にカラオケくらいと?」
「うん。そしたら吉北さんが来てくれたから、本当に助かった」
「助けたことになるのかなあ」
「でもさあ、最後の日も一人って寂しいよね。澄川さん、三年間ずっと一人だったんじゃないかなあ。いい思い出なんかないだろうなあ」
「だったら、やらせてあげたら良かったのに?」
「吉北さんならいいけど」
「えっ? じゃあやる?」
住めば都って思ってたけど、みんながみんなそうじゃないってことを教えてくれた。
(完)