大便の夢《Dream Diary 番外03》
💩xxxx年xx月xx日(💩)
一度ならず二度までも
下着が大便で汚れていないか
臭いが漂い他者に感知されていないか
気になってトイレで点検している夢を見たのは
どういうわけか
やはり汚れていたので
尻を拭いたり下着を洗ったりしている夢を
一度ならず二度までも見たのは
いったいどういうわけか
いっこうに登録者数が伸びない政治系YouTubeチャンネルの兄ちゃんの言い草とは逆に、既にトイレを済ませた後の一個人、つまりヒュペルボバイオス第五トイレ期以降に排便を済ませた我々に取り、トイレを済ませる前の時代の排便器官が、それと同時代の他者の排便器官に対して犯した過ちについて道徳的責任を取れと言われても、そんな責任はあろう筈がない。
なぜなら、道徳的責任と言うものは、自分が実際にやったこと、或いはやれたのにやらなかったことに対して課せられるものであるが、トイレを済ませた後の排便器官については、トイレ以前の時代における、ひるひらないということの発生自体が原理的に不可能であり、そのような排便器官及び排便主体に対しては、責任の課しようがないからだ。
もしも既にトイレを済ませているのに、人が自己の排便器官を備えているというだけの理由で、おまえには自身のトイレ以前の時代の他者の排便器官が蒙った損害に対して、道徳的責任を果たす義務がある、という非難を国内外から受けるとすれば、それは全くもって理不尽な言い掛かりであり、そんなものは断固として拒絶してよい。
では、既にトイレを済ませている我々には、自身のトイレ以前の時代に損害を蒙り現在に至った他者の排便器官に対して、もはや全く何の責任も無いのであろうか。
そうではない。なるほど道徳的責任はないと考えてよい。しかしながら、政治的責任はあると考えるべきである。なぜなら、一個人のトイレの前と後の排便器官を、互いに全く隔絶した別個の排便器官と見なすわけには、やはりいかないからである。
統治原理とユーザーIDは変わっても、トイレ以前・トイレ以後という、時代を跨いで連続する排便器官としての一定の同一性を仮構するのでなければ、主権を備えた集合的な排便器官が、過去(個人のトイレ以前)に損害を与えた他者の排便器官一般に対する、補償を行う責任の主体というものがはっきりしなくなるからだ。
そして、この集合的な排便器官の一定の同一性と連続性を前提とする限りにおいて、我々一人ひとりが現在の排便器官を備え、集合的な社会契約としての排便に参加してその恩恵を蒙っている以上、排便参加者としての政治的責任を、トイレ以前の時代に損害を蒙った他者の排便器官一般に対しても、やはり一定程度持つものと考えるべきであろう。
それでは、一個人、一生活者、一市民つまり一排便器官としての我々は、それぞれどのような行為でもってこの政治的責任を果たして行けばよいのであろうか。
一つは、私と他者との、過去の臀部並びに排便器官相互の関係についての、なるべく正確な事実認識及び排便史認識を、共に作り上げてゆく努力を惜しまず、家族、各種共同体、国家間の共存と共栄に努め、今後も仲良く正しい排便(含む排尿)を心がけ、実行していくことである。
もう一つは、民主主義のルールに則り、自分が正しいと信じる排便認識となるべく近い考えを持って、排便の実施に努めると予想される排便候補者に、選挙で清き一票を投じることである。
以上の二つが主たる責任の取り方であると言えよう。
このようにして、私と他者の排便器官について、いたずらに自虐的排便史観を叫んだり、その反動としての、過度の自己排便器中心的物語の妄信に陥ることなく、冷静に、また公平、公正、誠実な態度で、今後も他者の排便器官に接することを心掛けながら、未来を見据えた排便、及び排便器官相互の信頼関係を、自国内だけでなく、グローバルな国家間関係に於いても作り上げて行きましょう。
💩💩💩
そうしましょう! そうしましょう!
そうしましょう! そうしましょう! そうしましょう!
そうしましょ! そうしましょ!
そうしましょったら、あら、もうこんな時間。
タッくんお母さんもう寝るわ。何だか今日は疲れちゃった。
ウッ! ち、ちょとその前にお排便。
タッくんもテレビ消して寝なくちゃだめよ。タッくん?
あらタッくんトイレ?
わたしゃ急に下腹部に冗談でない突き刺すような強烈かつ切迫し
たアレが今にも!
どうしましょ! どうしましょ! タッくん長い!
正しき排便ヒィヤッホ~~!
というような大便の夢を見た。