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『三度目の諦め』(1947) ガブリエル・ガルシア=マルケス

コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの処女短篇『三度目の諦め』を読みました。

とても読みやすいし、めちゃくちゃ面白い!!というのが、僕の率直な感想。

ガルシア=マルケス本人は、あまりこの時期の自作短篇を気に入ってはいないそうですが…。

ただ、それもそのはず。なんと言っても、『三度目の諦め』は、彼がまだ大学生の時に書いた小説なのですから…!
僕からしたら、天才すぎる…。という感想しか持てませんが、のちに『百年の孤独』『族長の秋』『予告された殺人の記録』といった名作を生み出していった彼からすると、その時期の作品は何か煮え切っていない感じだったり、稚拙に見えてしまう感じがするのかも知れませんね。

とにかく、僕個人としては、とても面白い作品だと思ったので紹介します。

今回は、これから読む人のためにネタバレも少なめにしてあります。



まずは、書き出しから。

“またあの音が鳴りだした。空から降ってくるような、冷たい、耳を刺すその音を彼はよく知っていた。(中略)
その音に頭の中を掻き回されて、彼は脳が空になった。他の音が聞こえなくなり、ずきずきする痛みを感じた。”

語りは第三者、主人公は〈彼〉です。

音によってもたらされた痛みと格闘する〈彼〉ですが、その描写は非常に独特。

“よし、もう少しで音が捕まえられそうだ。いや、やはりだめか。音の表皮はつるつるしていて、とても手でつかめそうにない。しかし彼は巧妙な戦術で音をとらえようと、力を振りしぼって、永久に確実な方法でそれを押さえ込もうと、覚悟を決めていた。二度とこの耳から入りこませたりはしない。”

音の触感。そして、物理法則を無視したようにも見える、〈彼〉の決意が展開されます。
一見すると、現実的ではなくフィクションだなあ…という感じがするかも知れませんが、僕は、これは小説の中でしか描けない現実なのだと思いました。

写実的とか、リアリズム…というのは、単なるルポルタージュになってしまうと、「小説である意味」がなくなってしまいがちです。

小説だからこそ描ける現実、あるいは内的体験、それをガルシア=マルケスは既に処女作の段階で描けているのだなあ…と思いました。

“だが、彼はこめかみを押さえることができなかった。彼の両腕は縮まっていて、今では小人のもののようだった。小さな腕には脂肪がつき、ぽってりと太っていた。”

この不穏な〈彼〉の肉体描写は、「魔術的リアリズム」というよりも、「不条理文学」の感があって興味深いです。

“彼は《以前》にもこれと同じくらい執拗な音を聞いたことがあった。それは彼が初めて死んだ日のことであり、(…)”

え?もう死んでたの??どういうことーー!と思いつつ、読者がツッコミを入れる間もなく、淡々と進んでいく語り。
この語り口が、ガルシア=マルケスの醍醐味な気がしますが、それがすでにこのデビュー作にも現れています。

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ガルシア=マルケスの短篇作品にしては、かなり内面的な葛藤というか、苦悩や恐怖といった感情的な側面がしっかりと描写されているなあという印象でした。

ガルシア=マルケス本人の意識としては、そのような内面の描写は、のちのち削ぎ落としていくべき側面として浮き上がってきたのかも知れませんが、僕としては、むしろ今まで知らなかった作家の一面を覗き見ることが出来た気がして興味深かったです。

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ガルシア=マルケスが、この作品を書くにあたって影響を受けたと公言している、とある小説があります。
僕は最初、それを知らずにこの『三度目の諦め』を読んだのですが、読了後にそのことを知り、「あ〜なるほど!」と思いました。とても有名な作品です。

ただ、それを知ってから読んでしまうと、影響元の作品に引っ張られてしまうかも知れません。なのでこの投稿では、それがなんの小説なのかについては《お楽しみ》ということにしておきます。

初読時には『三度目の諦め』そのものを楽しむのが良いはず!!

主人公の〈彼〉は何を諦めて、どうなっていくのか。語り口だけでなく、ストーリーの構成そのものも非常に面白い作品だと思いました。

是非読んでみてください!

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