「唯一的救済」であり「不都合」、な事象について
「苦難から生まれる価値」、それは卵が先か鶏が先か。
教育者としての視点、役割。
結論:人は生きていれば勝手に苦難に遭遇します。
なので、余計に与える必要性は特にない。
つまりこれにより体罰やマルトリートメントの正当性は完全に否定され得る。
そのような手段を正当化したがる教育者は単に己の無能さを認めているに等しく、ただただ情けない。
教育者としての役割は、生徒が現在あるいは今後受けることとなる「不可抗力であり、不可避な自然的困難の遭遇」の際にそこから這い上がって価値を生み出せるように支えること。これだけ。
苦難をただの不都合として終わらせないという姿勢を示すこと。
ブッダが悩みそして悟りを開いた過程にも代表される「これ」です。(自分の場合独学なので、これを一人二役的な形で成さねばならず、それはそれは大変でした…。)
現時点の自分の考えとしてはこれが答え。
価値を生み出せ、生み出せ、と迫るようにして必要以上の苦難を与えるということは単に残念な結果を生じさせるだけと言える。
しかし、この不適切さは現在と過去の社会において過剰に美化されており、自分はそれに問題を感じている。
「自分が義務教育内にも存在するそれらの教育的因習という「不都合」を受け、そのアンチテーゼとしてこれらの独自の観念にたどり着いた」ということは事実ではあるものの、これには多量の生存バイアスが含まれる。当然、事実として自分と同世代に生き同様の教育をこれまで受けたであろう者のうち「自分のような教育観念をもつ者、そして更にこれを実践する者」はそう多くはない。そもそもあまり理解すらされていない。
つまりこの「不都合」による因果関係と思われてしまいがちなものはただの杞憂である。
従って、そこに直接的な因果関係はない。