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ネオテニーの概念やホヤの生態から超ポストポストモダニズムを抽出する

「進歩しないこと」によって、変化に適応することが出来るのか?

超ポストポストモダニズムはある意味、ネオテニー的であると言えるのかもしれない。

ネオテニー(幼形成熟)とは、生物が成長過程で幼児的な特徴を保持し続ける現象のことである。

ネオテニー的な生物は、例えばウーパールーパーがいい例だ。
ウーパールーパーとは、トラフサンショウウオ科の生物がエラなどの幼体的な特徴を残したまま性成熟した存在の総称である。

また、イエイヌやイエネコ等もオオカミやヤマネコからネオテニー度の高まった亜種として知られる。
これらのネオテニー化した亜種は、元の生物よりも好奇心が強く警戒心が薄い。
つまり幼体時の性格的傾向がそのまま残っていると言える。
それゆえ環境への適応性が高い。

これらにより、イエイヌやイエネコはヒトと共存関係にある。

「成体化すること(=高度化)」だけを「進歩」と捉えるならば、幼体的な状態で留まり続けることは「変化しないこと」や「退化」として映るかもしれない。

しかし実際には、幼体的な状態に留まることによってヒトとの共存という大きな変化に見事に適応している。

これらの生物を抽象的に見るなら、プリミティブ(原初的)な状態に留まることで変化を受け入れることが可能になっていると言える。


ホヤについて考え、整理する

超ポストポストモダニズムの記事では、ホヤをその象徴に挙げてみた。

これと先述のネオテニーとしての超ポストポストモダニズム観との間に矛盾を感じたかもしれない。

しかし、本質的にはこれらに矛盾はないのではないだろうか。

(1) 一般的な見方:ホヤは成熟とともに「脳を捨てる」
ホヤの幼生はオタマジャクシのように脊索(簡単に言えば、背骨のもとになるもの)を持ち、神経系を使って泳ぐ。
しかし、成熟すると海底に定着し動く必要がなくなるため、脳と神経系を消化してしまう。
これは、機能を削ぎ落としシンプルな生態に適応した「退化」に見える。

(2) 別の視点:ホヤは「動かない未来」に適応しただけ
「脳を捨てる」ことは、知性の放棄ではなく、生存戦略の最適化と考えられる。
移動が不要になった環境では、脳の維持コストは無駄になる。

つまり、ホヤの進化は「知能を発展させなかった」のではなく、「知能を必要としない環境に最適化した」と言える。

ホヤの生態とネオテニーは、一見真逆に見えて共通点がある。

ネオテニーは、成熟が逆に余分なコストとなる環境(成熟を必要としない未来)においてそれをパージし、他のもの(人類との共存など)を獲得している。
これはホヤ的と見なすことができるだろう。

ホヤとネオテニー的な生物は一見して真逆の属性であるものの、どちらからも「プリミティブな状態に留まることによる変化の受け入れ」という共通点を抜き出すことができる。

通常、進化や成長は「新しいものを付け加える」プロセスとして考えられる。

しかし、ホヤのように「余分なものを削ぎ落とす」ことで環境に適応する例も存在する。
ネオテニーもまた、幼児的な状態を保つことで適応の幅を広げる戦略だ。これは、一見すると「成長を止めている」ように見えるが、むしろ「変化を受け入れやすくなる」という機能を果たしている。

この考え方が、超ポストポストモダニズムの視点と重なる。
超ポストポストモダニズム的な視点では、固定的な「進化・発展」の概念を疑い、あらゆる形での変化を肯定的に捉える。

つまり、ホヤの「逆行」もネオテニーの「未成熟な状態の維持」も、どちらも「適応(変化)の一形態」として受け入れられる。

プリミティブな状態に留まる(あるいは逆行する)ことで「変化への耐性」が生まれる

ホヤとネオテニーの進化は、一見正反対のものに見える。
しかし、本質的には「プリミティブな状態を保持することで、環境の変化に最適化しやすくする」という共通点を持っている。

超ポストポストモダニズムの視点からは、
「進化=高度化」ではなく「進化=流動的な最適化」
「成熟=固定化」ではなく「成熟=変化を受け入れる能力=自己解体能力」

という捉え方が重要になる。

ホヤの生態も、ネオテニーも、未来の人間の「進化」も、すべては「環境に適応するための形の違い」にすぎないだろう。

人間にとってのプリミティブとはなんだろうか。

私は、言語を会得する前の段階がそれに値するのでは無いだろうかと考えている。

かの有名なアインシュタインは5歳まで喋らなかったと言われている。
さらには彼の脳の大きさは一般的な成人よりも小さい。これは一体何を意味するだろうか。

「プリミティブ人間」の強み

 言語を獲得する前の人間の状態を「プリミティブ」と見なしたとき、その特徴は何か、そしてそれがどのような強みを持つのかを、ソシュール言語学、ラカンの現実界、ユングの集合的無意識、空海の言語理論を踏まえて考察してみよう。

 1. 言語の境界を超えた純粋な知覚(ソシュール言語学の視点)

ソシュールの言語学では、「シニフィアン(記号表現)」と「シニフィエ(記号内容)」の関係が恣意的であり言語は世界を分節化する役割を持つとされる。  

この観点から見ると、言語を持たないプリミティブな人間は世界を未分化のまま捉えることができると考えられる。

例えば、幼児は言語を獲得する前の段階では物事を「コップ」や「猫」といったラベルで認識するのではなく、純粋な感覚の塊として捉える。  

この状態は既存の概念に囚われない創造的な知覚を可能にし、後に 異なる思考体系を接続する能力(たとえば比喩的思考や直感的洞察)として働く可能性がある。


2. 象徴化されない現実にアクセスする能力(ラカンの現実界)

ラカンの精神分析では現実界(le Réel)は象徴界(le Symbolique)が成立する前に存在し、言語によって秩序化される以前の無意識的な混沌とした状態を指す。  

言語を獲得するということが象徴界への参入を意味し、それと同時に 現実界との直接的な接触を失うことになる。

したがって、 言語獲得前の人間は現実界に最も近い状態にあり世界をそのまま感じる能力が残されている。  

これは、通常の言語化された思考では捉えきれない感覚的な直観や深層的な感受性を持つことにつながる。  

例えば優れたアーティストや詩人が言語化できない感覚を作品に落とし込めるのは、この言語獲得以前のプリミティブな視点を一般的な人間よりも多く保持しているためかもしれない。

 3. 集合的無意識へのダイレクトな接続(ユングの視点)

ユングの理論における集合的無意識とは 、人類が共通に持つ無意識の層であり、元型(アーキタイプ)として表出される。  

これについて、

言語を獲得すると個人の意識は文化的・社会的な枠組みに沿った言語の影響を受けることになるが、言語獲得以前の状態ではその影響が最小限に抑えられている。
つまり、プリミティブな人間は 語に依存しない純粋な象徴(イメージや直観)を通じて、集合的無意識にアクセスする力が強いと考えられる。  

これは夢や神話、宗教的体験、絵画などに見られるような、言語の枠組みを超える象徴の認識能力につながる。

4. 言語の「外」から言語を操る力(空海の言語理論)

日本の密教僧である空海は、『声字実相義』において、 言語(声や文字)を超えた真理を示唆している。  

彼は、言葉が意味を持つのは音・文字・意味の三位一体の働きによるものであり、その背後には言葉を超えた真理があると考えた。

この視点を考慮すると言語を獲得する前のプリミティブ人間は、 言葉を超えた根源的な「意味の発生源」に近い状態にあるだろう。 

これは、 音や身体表現、視覚的イメージなど言語以外のコミュニケーション手段に対する鋭敏な感覚を持つことを意味する。

たとえば、古代のシャーマンや芸術家が言葉を超えた象徴的な表現(舞踊・絵画・音楽)を駆使していたのは、言語を超えた真理にアクセスする能力の表れかもしれない。

言語獲得以前のプリミティブな人間の強み

以上の考察を踏まえると、言語を獲得する前の人間は 「言語による制約を受けない」ことにより、あらゆる意味で「真理」に接近しやすいと言える。

これらの強みは、 芸術的な創造性・哲学的な洞察・科学的な直感 など、多くの分野で重要な役割を果たしている可能性がある。

アインシュタインの天才的な思考が生まれた背景にも、この言語以前のプリミティブな知覚や思考形態の影響が多いにあるのではないだろうか。  

「現実は単なる幻想だが、とてもしつこい幻想だ」
アルベルト・アインシュタイン


プロンプトに囚われた機械は、人間のプリミティブをまだ知らない。

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