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私のわからないもの

"わからない"の取り扱いに関して  

"わからない=ごまかし"
なのでしょうか?  

雑に感じるとも、否定はできません。  

ある小学生の女の子がいて
先生が「この問題わかる?」って聞く
女の子は「わからない」と答えたとする
先生は「分からなくてもいいから言ってみて」
と答えさせようとする  

不安なのはわかるけど自信をもって!
みたいな、そんな感じ。  

私のなかの小学校のときの記憶から
引っ張り出してきた会話だけど
よくある光景じゃないかなって思う  

このとき、女の子は何が
"分からなかった"のかを考えてみると

問題が(意味がわからない)
解き方が(過程がわからない)

がでてきた。  

この女の子が、わかっていない前提で
話してしまっていたけれど  

わかっているのに「わからない」
と答える場合も無くはないとおもう、
むしろ先生が「何でこたえないのか」
で女の子を見た場合、
面倒だから答えなかったのでは?
と考えるのも、わかる。

間違えた事を答えて恥をかくのが嫌だ、と思ってるから答えなかったのでは?
とか考えることのほうが多いのでは。  

"わからない"は、"答えるのが面倒だから"
それを隠す為の理由づけ(言い訳)となるから
"わからない"をつかって誤魔化そうとする
そんな習慣が世間では見られるなあと
感じている私であります、、  

でもですね、ここで考えたいのは
わかっているけど答えなかった
の方ではなくて、
飾らずに、素直に、答えられなかった
↑こっちのほう。  

答えられないんですよ、わからないから
それは、分かってて言ってるわけでもなく  

わからない

自分がわからない
何がしたいかわからない
将来の夢がない
とか あるじゃないですか。  

それと似てる感覚だと思うんですけど  

そもそも
「わからない」でいることはダメ?
なんでしょうか  

私の場合、
何が"わからない"のかが"わからない"
ことが多いです
ギャグかって感じですけど、
とりあえず、ホントにわっかんないんです
それは時に、笑えちゃうくらいに。  

普段もカウンセリングのなかでも
私は常に"わからない"の中にいます  

どうして人と同じことができないんだろう  

とか。  

どうして言われたことが改善できないんだろう  

とか。  

日常でなら、わからないに焦点を当てなくても
こうした方がいいよとか教えてくれたり、
相手が話す事を聞く側に回ったりすることで
"わからない"自分を表に出さないことも
できます。目立つものが沢山あるから。  

自分のことを言うのをスルーできることが
カウンセリングのなかでは通用しない。
わたしを考えなきゃいけない時間になる  

私が受けているのは、大学の学生相談機関で
在学中のみ適応するカウンセラーの下に
いってカウンセリングを受けています。  

カウンセリングを簡単に言うと、週1回決められた曜日時間に一対一で話をすること。  

私に与えられた時間は50分間。
時間とその空間と私とあなたって事以外は
固定されることはなく、自由に話をします
(多分一般だとここにお金も入ってくる)

カウンセリングルームに案内され着席したら  

カウンセラーの「始めましょうか」
で始まり、50分を削っていきます。
私「はい、」  「…。」
(返事をしたもののそれから沈黙)  

ほんとにこんな感じ。
「自由にお話していいですよ」
と言われても、、
3.2.1.キュー!の圧迫で話せたもんじゃない  

やっとこさ話をしだしたとしても、
〇〇をして〇〇をして〇〇って思いました
みたいな小学生の作文のような会話とか。  

それでもカウンセラーは、うん、うん、
だけ。
カウンセラーから話し出すのは、
めったにありません。
カウンセラーの個人的な話は一切ありません  

何かこの沈黙を埋めるべく話を、と思い
つまらぬ話をいくつか話し終えたくらいに
ネタがつきてまた沈黙になることがあって、
「言いたくない訳ではなくて、なんだか
言葉がでてこないんです」というと  

カウンセラーが
「どんな気持ちだったんですか?」と。  

私は、毎回ここで留まる。  

「どんな気持ち」か、がわからない
自分の気持ちがわからない  

宇宙の中彷徨う、軌道から外れた人工衛星
ってかんじ(例えがわかりにくいか、笑)  

「自分がわからないのに、治るのか不安」
と言って涙を流したりもしました。  

だだ、今はカウンセリングで、50分沈黙したとしても
私にとって、自分を考える場所になっています  

終わりなんて、治るかどうかなんて
"わからない"けれど。  

毎週もまた、決まった曜日、たちむかうのです(見えない自分に、ね)

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