【読書感想文】自分で自分を分類するなよ
ダフナ・ジョエル & ルバ・ヴィハンスキ 著 鍛原多恵子 訳
『ジェンダーと脳ーー性別を超える脳の多様性』(紀伊國屋書店、2021年)を読んだ。
脳には男脳、女脳かあるという。
男性は左半球が発達しているから、空間認識能力が優れているとか、女性は左右両方の半球の神経の通信が発達しているから、情緒豊かだとか。
知ったようなことを書いたけど、本当はよく知らない。それらしいことを聞いたことがあるだけ。
そしてこの本は、「男脳」や「女脳」というものが、はたして本当に存在するのかという疑問からスタートする。
様々な実験、研究結果の分析の結果、著者は、平均的に男性の傾向、女性の傾向というものは確かにあると認める。
でも、一人ひとりを見てみた時、際立って男性的、際立って女性的という人(つまり完璧に「男性脳」しか持たない人、完璧に「女性脳」しか持たない人)というのは、ものすごくレアだと分かる。
大体の人が中間なのだ。どちらの素養も持ち合わせている人が多いという結果を得た。
普通に考えてみればそのとおりだ。
私の母は、数学が大の得意で、大学も数学科を出ており、パソコンがない時代に、システムエンジニアをしていたが、どこからどう見ても女性である。私を産んだ経験もある。
女性は論理的な思考が苦手で、数学も論理的な主張も苦手とする固定概念があるが、母は弁説(喧嘩を含む)では、向かうところ敵なしだ。立板に水で、論理的・理詰めで説得、反論してくる。
私の父は、男性が得意とするはずの車の運転が、実は得意ではない。本人は認めないだろうが、車の運転をしながら、ナビを操作するなどのマルチタスクも苦手である。
でも、母は女性だし、父は男性。それは事実。
研究というものは、新しい違いを見つけた時にこそ、「発見」として評価されるものなので、「男女に全く違いがありません」や、「男女とも似たところがあります」では、なんだか冴えない。
「ここ」こそが、男女の違いです!
という発表だけが、際立って発表されてきた経緯があるようだ。
というか、昔から男女の差として現れることが研究ごとに異なり、差がないという結果は無視して、差として現れたことを新しい「研究結果」として次々発表していた節もあるらしい。
なんとも恣意的。
だから、なんとなく結論しか知らないと、「男脳」「女脳」がある気がしてしまう。
個人一人ひとりを見れば、男性的とされる部分、女性的とされる部分を両方、持ち合わせているのが普通だと分かるのに。
何百、何千という素質のうち、際立って女性的、男性的、というものが例えあるにせよ、個人の脳は男性的、女性的素質がモザイク状に入り乱れて存在し、成立している。
それは、生物学的な性別のみならず、ジェンダー(社会的性別)にも言える。
女性だけど、ボール遊びやかけっこが好きだった。
男性だけど、おままごとや人形遊びが好きだった。
女の子なんだから、おとなしくしなさいと、言われて育って、その方が女らしいと思っている。
男の子なんだから、泣かないのと、言われて育って、その方が男らしいと思っている。
生まれ持ったものか、後天的に刷り込まれたものか、母の胎内にいたときのホルモンの影響もあるかもしれない。どんなストレス環境下で育ったのかも、脳の発達や、思考方法は変わってくるという。
ステレオタイプのジェンダー意識も、どこからどこまでが個人の生まれによるもの、どこからどこまでが育ちによるもの、社会・環境の影響、周りの大人たち、きょうだいたちの人的影響によるものなのかは、可能性がありすぎて特定できないし、特定することに意味がない。
ただ言えることは、ジェンダーすらも、その特徴はモザイクとして個人の中で成立している。
ジェンダーとは何なのか。
ジェンダーと考えられていることとは、本来男女の差が必要なことなのか。
講義の途中で、遅刻してきた男女の例が本の中で、上げられている。
最初に遅刻してきた女性は、議論の邪魔にならないよう静かに入室して、黙って途中から議論に参加した。
次に遅刻してきた男性は、この議論は何の議論で、どこまで進んでいるのかを、大きな声で聞き、隣の生徒(女性)はためらいもなく、議論を中断し、その質問に答えたという。
女性は、慎ましい方が良い。黙って従う方が良い。
男性は、明晰で、自己主張ができた方が良い。
これは明らかな性差(ジェンダー)だ。
ジェンダーによる特権(この場合は男性)を指摘され、これに気がついたとき、とても居心地が悪い思いをする。もちろん違う場面になれば、女性が特権的立場になることもある。
特権に気づく。それから「ジェンダーの意識を高めることで、その振る舞いが、正しいかどうかを自分で選択できるようになる」(p.163)のも事実。
著者はこの本を、
としめくくる。
本来なら、私は女性だから、男性だから、私は女性とも男性とも、はっきりと性別を選べないから……、と何かを制限することなく、自らが持つ生殖器の形がなんであれ、ボール遊びが好きなら、ボールを選べばいいし、好きな相手を愛せばいいはず。
自分を否定することなく、相手を否定することもなく、その生殖器の形は、肌の色と同じように特徴の一つに過ぎないのだと言える世界が、ジェンダーフリーの世界だと著者は主張する。
そうであれば、人間の世界も多少は生きやすくなるだろう。
本来の「多様性」とは、そういうことなのだろうとも思う。
この本の(おそらく)原題は、
GENDER MOSAIC --BEYOND THE MYTH OF THE MALE AND FEMALE BRAIN
という。
「男脳、女脳という神話を超えて」という副題がついている。
ジェンダーは神話にすぎない。
ないものをあるとしてきた神話に、ないものはないと言ったのがこの本だ。
なんでも分類してきた、私たちのさが。
でも、その分類は本当に妥当で、必要なものだったのか。
ふと、この歌を思い出した。
【今日の英作文】
だいたい200人がその人に投票したそうです。選挙ってわからないものですね。
I heard some 200 people voted for the man. Elections are something we can never predict clearly, right?
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