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なぜ殺人は許されないのか?ドストエフスキーの入口(改訂)~「百姓マレイ」と「罪と罰」
今回は、難解なイメージが強いドストエフスキーの『罪と罰』を中心として、彼が貫こうとした「大地主義」とともになるべくわかりやすく解説します。(注:終盤のシーンふくめ、ネタバレありです)
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He pulled the axe out, swung it up with both hands, hardly conscious of what he was doing, and almost mechanically, without putting any force behind it, let the butt-end fall on her head.
「なぜ殺人は許されないのか?」
普遍的とも言えるこの課題については、古今あらゆる場やメディアで様々な論が交わされてきました。
「自分がされて嫌なことを人にしてはいけないから」
「家族や知り合いにつらい思いをさせてしまうから」
「法律で禁じられているから」
などが、一般的な回答でしょうか。
または、
「殺人が許されてしまうと、共同体の秩序を維持できないから」
・・・といった結論に落ち着くことも多いかも知れません。
いずれも首肯できる意見かと思われますが、しかし、これらの説明で十分なのでしょうか。
或いはそもそも、この質問に「正解」はあるのでしょうか?
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ドストエフスキーは、文庫版にすると1000ページ以上に及ぶ物語『罪と罰』で、自身の考えを提示します。
・・・世界を「根底」で支えているものは何なのか?
このような視座からのドストエフスキーの答は、決して難解・複雑なものではありません。
そして最後の数ページで、読者は「それ」を魂の底から体感することになります。
革命家としての活動、投獄
19世紀後半のロシアは、資本主義社会への過渡期として激動のさ中にありました。
西欧にほぼ一世紀遅れて産業革命が起こり、1860年の農奴解放によって多くの人々が首都ペテルブルグ等の都市になだれ込みました。
そしてやがて自由の代償として貧富の差が広がるとともに、急進的な社会主義思想が若者たちの中に広がって行きます。
二十代半ばで「貧しき人々」(1846)により華々しくデビューしたドストエフスキーは、早くから写実主義の作家として名を成していました。
しかし、他の多くの若者たち同様に、社会主義革命のサークルで活動をしていたため、帝政ロシア政府に対する反逆罪によって死刑の判決を受けます。
ところが、銃殺による処刑の寸前でニコライ1世皇帝からの特赦を受け、シベリアへ流刑となります。
この体験が、その後の彼が文学史に残る大作を生み出す契機となります。
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「母なる大地」への思い
約五年に及ぶ刑期の間、彼は聖書を読みふけっていたといいます。
そして彼の中で、大きな思想的転換が成されて行きます。
彼が傾倒して行ったのは、西欧的な進歩主義や社会主義に背を向けた「大地主義」、つまり「母なる大地ロシア」への原点回帰でした。
この「母なる大地」の象徴とも言える人物が登場する掌編『百姓マレイ』(1876)に、後の傑作群が書かれる上での「原点」が垣間見られますので、先に紹介しておきます。
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And I remembered particularly the thick earth-stained finger with which he softly and with timid tenderness touched my quivering lips.
名作群の源~「百姓マレイ」
『百姓マレイ』はドストエフスキーが政治犯として投獄されていた時の出来事が書かれた作品です。
鉄格子の向こうの晴れわたった空を眺めながら、獄中の「私」は9歳の時のある体験を思い起こします。
地主であった父の領地でひとり遊んでいたところ、幼い私は不意に「狼がくるぞ!」という声を耳にします。
逃げた先の草地に、土を耕していた五十代の農夫マレイがいます。私はマレイの懐に飛び込みしがみつきます。
マレイは、「こわがることはない、キリスト様がついていて下さるから十字を切りなさい」と言って私を安心させてくれます。
恐怖はおさまり、私はそこを立ち去ります。振り返ると、優しいマレイはいつまでも私を見送ってくれています。
西欧的な物質文明と対局にある、広大な大地への崇敬。そして、そこに根付く「利他的な愛」の共有・・これらがざっくりと「大地主義」の理念であり、以降のドストエフスキー文学の源泉となっているのです。
今日の「刑事もの」の原型
刑期と軍務を終えてペテルブルグに戻ったのは、ドストエフスキー38歳の時(1858)でした。
愛人とのいざこざやルーレット賭博による莫大な借金、さらには持病のてんかんに悩まされながら、彼は『罪と罰』を一年かけて雑誌「ロシア報知」に連載しました。
社会不安が高まる中、この作品は世間の話題を総ざらいにしたと言われています。
西洋的な進歩主義を否定した、その大地主義的で反動的な内容は、革命を志す多くの若者たちからは批判の標的ともなりました。
また、その内容を模した模倣犯も現れるほどだったと言います。
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その後も彼は、『白痴』(1868)『悪霊』(1871)『カラマーゾフの兄弟』(1880~未完)と、大きなテーマに挑んだ巨編を取り憑かれたように送り出しました。
これらの作品では共通して、二種類の両極端なタイプの主要人物が登場します。
まず、『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフを代表とする、西欧的な合理主義を標榜する人物。
そして、それとは逆に先のマレイや『罪と罰』のヒロイン・ソーニャのような、土着的で信仰心の厚い人物。
ドストエフスキー作品の魅力は、このようにそれぞれ対極的な思想に肉付けされた人物たちがリアルに織り成す、ストーリーの面白さにあります。
特に『罪と罰』は、もとは大衆向けの連載小説であり、犯罪者と刑事による緊迫した頭脳戦などは、今日の「刑事もの」の原型とも言われています。
余談ですが、テレビ・シリーズ「刑事コロンボ」は、殺人犯である主人公を
追いつめるポルフィーリィ判事がモデルとされています。
また、松本清張のいくつかの作品にも同様の構成・展開が見られます。
ドストエフスキー作品の中で、少なくとも『罪と罰』は、「難解な文学」というよりもミステリー小説として大いに楽しめるはずです。
キリスト教(ギリシア~ロシア正教)が根本にあり、聖書への言及も多くなされていますが、あらかじめの宗教的知識は「必須」ではありません。
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『罪と罰』~それは「悪魔の空論」なのか?
冒頭のテーマ「なぜ殺人は許されないのか?」に戻ります。
主人公のラスコーリニコフは、こんな想念にとりつかれています。
彼にとっては、
そもそも「殺人は許されない」わけではない
のです。
・・・ただし、条件付きで。
彼によると、その「条件」とは、以下です。
「社会の害悪でしかない一人の人間を抹殺することによって、
例えば100人の善良な人間の命が助かる場合」
あらためて、『罪と罰』のあらすじをざっくりまとめます。
革命前夜の帝政ロシア。
ペテルブルグの裏街に住む貧しい青年ラスコーリニコフは、「しらみ」と侮蔑する高利貸しの老婆とその妹を殺して、金品を奪ってしまいます。
それを社会のために役立てるべき、というのが彼の考えでした。
事件を捜査するポルフィーリイ判事は、すぐにラスコーリニコフを疑います。
ラスコーリニコフはナポレオンらを例に挙げ、
「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という内容の論文を雑誌に書いていたからです。
ラスコーリニコフは判事の執拗な追及を逃れ続けますが、やがてじわじわと追い詰められ、「自責の念」にも苛まれていきます。
彼は、「自分に殺人という試練を乗り越える能力があるのか?」ということを試すためという、きわめて身勝手な目的から「あえて」計画を実行したのです。
その結果、彼を苛むことになる「自責の念」・・・これは一体どこから湧いて来るものなのでしょうか。
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主人公を根底から揺さぶるもの
物語中でこの殺人が行われるのは、全体(六部構成)の第一部においてです。
その後の物語の大半は、ラスコーリニコフの苦悶と、逃げ惑う彼を追及する判事との心理戦が占めることになります。
犯行後、ラスコーリニコフは自己正当化と罪悪感の両極に精神を引き裂かれていきます。
錯乱の中、彼はソーニャという一人の娼婦に出会います。
彼女は信仰を糧に生きる敬虔なクリスチャンであり、西欧的な利己主義の権化ラスコーリニコフに対して、利他主義の象徴のような人物です。
ソーニャは、五人もの兄弟と家族を飢えさせないよう、止むを得ず自らを売っています。そんな彼女に対し、彼は最初は「おのれという大地を汚しているではないか」と冷笑します。
しかし、追いつめられ孤立したラスコーリニコフは、強く抵抗しながらも彼女に会いに行きます。
そして未知なる「何か」が彼の中でうごめき始めます。
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Get up !―Go at once, this instant, stand at the cross-roads, first bow down and kiss the earth you have desecrated, then bow to the whole world, to the four corners of the earth, and say aloud to all the world : "I have done murder."
ソーニャは彼に悔い改めるよう説得しようとします。それに対し、彼はこう返します。
「お前は懲役のことでもいってるのかね、ソーニャ?自首しろとでもいうの?」
頭でっかちのラスコーリニコフには、ソーニャの真意がまだ理解できていないのです。
それでも、ソーニャは彼の改心を強く信じ、あきらめません。
ポルフィーリィ判事の執拗な追及によって、ラスコーリニコフは憔悴の度合いを深めていきます。
やがて彼は逃げ場を無くして力尽き、自ら出頭します。
そして情状酌量の上で、8年というシベリアへの流刑に処されます。
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物語の最終盤。
刑務作業の休憩時間に、ラスコーリニコフは丸太に腰を掛け、流刑地の景色をぼんやりと眺めています。
眼前には大河が横たわり、その向こうには広大な大地がどこまでも広がっています。
ふいに、面会に訪れたソーニャが傍らに現れます。
彼女はいつもおずおず手をさしのべるのであった。時によると、おしのけられはしないかと恐れるように、まるで出さないことさえあった。いつも彼はさもいやらしそうにその手をとり、何だかいまいましいという様子で彼女を迎えた――
彼らは二人きりだった。誰も彼らを見守るものはなかった。看守はちょうどこのとき向こうをむいていたのである。
そして、抗い難い「それ」が突然ラスコーリニコフを襲います。
――どうしてそんなことができたか、彼は自身ながら分からなかったけれど、ふいに何者かが彼をひっつかんで、彼女の足もとへ投げつけたような具合だった。彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめた。はじめの一瞬間、彼女はすっかりおびえ上がって、顔はさながら死人のようになってしまった。彼女はその場からおどり上がり、わなわな震えながら彼を見つめた。けれどすぐその瞬間に、彼女は全てを悟った――
『罪と罰』はたいへんな長さなので、まとまった時間が必要になりますが、特に若い方には単なる読書を超えた「体験」としてお勧めしたい作品です。
また、彼が『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』に行きつくまでの巨編群を書く上での序章的な位置付けとなった、『地下生活者の手記』(1864)という中編から入るのもよいかも知れません。
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善人に勝る「悪魔的キャラ」たちのリアリティ
『罪と罰』の後に、彼は『白痴』と『悪霊』を続けて書きました。
前者では、キリストを想起させるような、マレイやソーニャの系譜に連なる「大地的」な人物が主人公となります。
また、革命家たちのいわゆる「内ゲバ」を題材とした『悪霊』では、一転して、ラスコーリニコフにも勝るほどの悪魔的なキャラクターたちが物語の中心となります。
興味深いのは、ラスコーリニコフを含め、「悪魔的」な人物たちの方が「善人」たちに比べて断然リアリティがあり、魅力的に描かれているということです。
最後の作品となった巨編『カラマーゾフの兄弟』は、「第一部」までが世に出ました。しかし、ドストエフスキーは病に倒れ、その思想的遍歴の集大成は未完に終わったのでした。
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それが西欧的合理主義であれ、社会主義であれ、ローマ・カトリックの教皇至上主義であれ、ドストエフスキーがたえず批判し続けたのは、富や物資的な豊かさばかりを追求する精神と、権力によって民衆に対して成される自由なき統一でした。
『作家の日記』でドストエフスキーはこう述べています。
ーーーやがて人々は、土の中から信じられぬくらいの収穫をひきだし、化学によって有機体を造りだし、わがロシアの社会主義者たちが夢みているように、牛肉が一人一キロずつ行きわたるようになるかもしれぬ。一口に言って、さあ飲め、食え、楽しめというわけだ。『さあ』すべての博愛主義者たちは絶叫するにちがいない。『今こそ人間は生活を保障された。今こそはじめて人間は本領を発揮することだろう! もはや物質的窮乏はないし、すべての悪徳の原因だった、人間を蝕む《環境》ももはやない、今こそ人間は美しい正しいものになるだろう』ーーーだが、はたしてこうした歓喜が、人間の一世代もつかどうか疑わしい! 人々は突然、自分たちにはもはや生命はない、精神の自由もない、意志も個性もない。だれかが何もかも一遍に盗んでしまったのだ、ということに気づくことだろう―――
最後に、あらためて『百姓マレイ』の本文から抜粋しておきます。
ーーあの貧乏な百姓の、やさしい、まるで母親のようなほほえみだの、お祈りの十字のしるしや、あの首を横にふりながら、「ほんに、さぞたまげたこったろうになあ、なあ坊」と言ってくれた声などが、わたしの頭に浮かんだのです。とりわけはっきり思いだすのは、わたしのひくひく震えるくちびるに、おずおずと、やさしさをこめて、そっとさわった、あの土だらけの太い指だったのです。
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⇒『悪霊』に続く
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フョードル・ドストエフスキー(1821-1881~ロシア・小説家、思想家)
19世紀後半のロシアを代表する文豪の一人。代表作に『罪と罰』(1866)『白痴』(1868)『悪霊』(1871)『カラマーゾフの兄弟』(1880)など。土着的・汎スラヴ的なキリスト教(ギリシア~ロシア正教)の立場から、人間存在の根本問題を追究した重厚な名作群を残した。
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