意識と本質の西洋。無意識と空の東洋。 #214
これまでの記事では、西洋が本質主義に基づいて科学を発展させてきた歴史と、その本質主義を支えた意識・理性が脳科学によって疑われていることを見てきました。
今回は、意識と本質の存在を疑った先に現れる世界を東洋思想を参考にしながら考えてみましょう。
西洋は、意識と本質の文化
これまでの内容を簡単に振り返ります。「本質主義」とは、この世界に本質なるものが存在しているとする考え方です。本質を捉える主体を意識、本質を捉える能力を理性、本質を捉える道具が言語であり、この本質と意識をつくった存在&世界の究極の本質として神を設定します。
この本質主義に基づいて科学は発展してきました。神が授けた理性を駆使すれば、世界の本質を少しずつ理解(言語化)することができ、いずれは世界全ての本質である神の存在を証明できると考えていたのです。
そんな科学は、理性を司る意識を探究する脳科学を発展させました。すると、ベンジャミン・リベットの実験に代表されるように、意識の本質にたどり着くどころか意識が理性を司っていないことを示す研究結果が見つかるようになったのでした。
そもそも、本質とは存在するのか?
ここで、西洋&現代社会が前提としてきた意識と本質の存在をあらためて考えてみましょう。井筒俊彦の『意識と本質』で紹介されているイスラーム哲学用語のマーヒーヤとフウィーヤという概念を導入しながら整理してみます。
本質と一言で言っても、普遍的本質のマーヒーヤと個別的本質のフウィーヤの二つの本質が考えられます。この概念を導入することで、たとえば「人間とは何か?」はマーヒーヤへの問いであり、「私とは何か?」はフウィーヤへの問いであると区別することができます。以下では、この二つの本質をそれぞれ検証していきます。
マーヒーヤと環世界
普遍的本質のマーヒーヤを検証するために、生物学者のエクスキュルが提唱した環世界を考えてみましょう。彼は生物の種ごとに世界の見え方が違うことを指摘しました。
犬は匂いで、コウモリは超音波で、ダニは温度で世界を知覚します。それぞれの生物がそれぞれに備わった感覚器官で世界を知ることしかできないということです。ならば、人間が五感で捉えるこの世界だって人間特有の世界の見え方ではないかと考えられます。カントの言うように、全ての生物は「物自体」の世界を知覚できないのです。
生物の種だけでなく、同じ人間同士でも違う環世界に生きているとも言えるでしょう。たとえば、自分の生きてきた文化(家族、地域、国、言語)から離れて異文化で生活をすると、違う世界の見え方があると気づく(カルチャーショック)ことがあります。ちなみに、文化人類学などはこの文化ごとの環世界の違いをフィールドワークで身をもって体験する学問と言えるでしょう。
生物ごとにも個人ごとにも違う世界が見えているのならば、万人が納得するような普遍的本質のマーヒーヤは存在しない気がしてきます。
フウィーヤとテセウスの船
次に、個別的本質のフウィーヤについて考えてみます。これを考えるために「テセウスの船」という話をご紹介します。
「テセウスの船」の話は、何をもって個別的本質であるフウィーヤが宿っていることになるのかという疑問を私たちに投げかけます。各部品にフウィーヤが宿るのでなければ、何をもってその船にフウィーヤがあるとみなせるのか? フウィーヤは「テセウスの船」という言葉があるから、そこに不変的な存在があると錯覚するだけなのでしょうか?
「私」という存在でも同じことが言えます。細胞分裂で毎日少しずつ違う細胞に置き換わっていく体、日々新しい情報を吸収して考えが変わっていく思考や心。そんな「私」という存在は産まれた時から死ぬ時まで同じ「私」であると言えるのでしょうか? フウィーヤの存在を突き詰めていくと、アイデンティティの問題にも波及していきます。
もしかして、本質など存在しない?
普遍的本質のマーヒーヤも個別的本質のフウィーヤも反例があり得ることを見てきました。ということは、本質というものはそもそも存在しないのでしょうか? こうした本質のない世界を垣間見た時の嫌悪感を、哲学者・小説家のサルトルは『嘔吐』で描いているようです。言語で世界を捉えることができなくなると世界は混沌とした何かでしかなくなります。すると、本質を捉える主体である意識(=私)の存在も危うくなってしまい、世界と私の境界が曖昧となった状況に「気持ち悪い」となるのです。
東洋は、無意識と空の文化
サルトル的な吐き気を乗り越えて、本質が存在しないと考えることはできるのでしょうか? そのヒントが東洋思想、特に仏教や禅にありそうです。以下で仏教や禅の考え方を素人なりに説明してみます。
仏教や禅では、本質の存在を認めません。その代わりに全てはただ現象があるのみで、その現象は縁起という関係性によって生じたり消えたりするだけなのだという世界観を前提とします。世界に本質がないことを空と言い表し、「私」に本質がないことを無我と表現します。
また、本質を捉えるために世界を分節する道具である言語も疑いの対象です。たとえば、禅問答ではあえて非論理的に思える言語使用を行うことで理性に揺さぶりをかけたり、座禅によって非言語による理解を勧めたりします。言語による分節をしなければ世界に本質は存在できなくなり、その本質を捉える主体としての意識も存在しなくなります。こうして世界と自己は分節されずに一体となります。
西洋的な考え方では本質とそれを認識する意識の存在を前提とし、本質を言語によって分節していきます。一方、東洋(主に仏教・禅)的な考え方では、本質の存在を否定します。それを認識&分節する道具である言語や認識の主体たる意識をも疑い(これが無我につながる)、全ては縁起によって生滅する現象にすぎない(これが無常につながる)とします。
では、どちらが正しい?
今回は分かりやすさのために西洋と東洋という区分で説明しましたが、厳密に分かれているわけではありません。西洋でもソシュールのように言語(シニフィアン)と本質(シニフィエ)の結びつきは恣意的なものにすぎないと考えた人もいますし、東洋でも孔子などは唯名論と言われるように本質の存在を認めています。今回の東西比較は、あくまでも思想体系をザックリと整理する方法の一つであることをご了承ください。
とはいえ、西洋の本質主義的な見方と東洋的な空の見方があることが分かりました。ただ、本質とそれを認識する意識の存在を認める考え方と本質も意識も認めない考え方は相反するように思えます。ということは、どちらかが真理であり、どちらかが間違えているということなのでしょうか?
本質主義は、数学の公理と同じ?
ある問いに対して「なぜ?」と問うと、その答えが見つかります。その答えに対してまた「なぜ?」と問うと、また次の答えが見つかります。この問いと答えの繰り返しは永遠に繰り返すことができるということを、無限後退と呼びます。理論上は無限に問いが生まれますが、実生活ではこれ以上「なぜ?」と問うことができない答えにたどり着きます。
キリスト教的な考え方では神の存在自体は自明です。仏教的な考え方では空は自明です。このように、無限後退の先に現れる論理の前提は、論理的ではなく直観的に設定せざるをえないのです。ちなみに、これ以上遡れずに無条件に正しいと定義する命題を、哲学者のウィトゲンシュタインは超越確実性言明と呼びました。
数学ではこれを公理と呼びます。たとえば、学校で習う幾何学はユークリッド幾何学と呼ばれています。これは5つの公理だけで他の全ての定理を論理的に導けるようになっています。これらの公理は疑いようがなく、この公理が真理のように思われていました。
しかし、非ユークリッド幾何学という新たな幾何学体系もあり、ユークリッド幾何学の公理を採用しない数学的体系も論理的に考えられることが分かっています。ザックリと言えば、ユークリッド幾何学は平面では成立し非ユークリッド幾何学は曲面で成立するというすみ分けがあるだけで、どちらも「正しかった」のです。
結論:どちらも「正しい」思想体系
つまり、論理的な考えも前提を最後まで遡った先にたどり着く公理の設定自体は論理的ではなく直観的なものであり、公理とは真理ではなく、あくまでも論理的な思考を始めるスタート地点に過ぎないということなのです。
「『本質があるのか否か』という命題を明確に証明することも否定することも難しい」というのが現時点で言える結論でしょう。本質が存在することを前提とした西洋的な考え方も、空を前提とした仏教・禅的な考え方も、どちらも論理的で「正しい」世界観であるということです。ただし、ここでの「正しい」は絶対的な真理であるという意味ではないことをお忘れなく。
まとめ
西洋的な意識と本質を前提とする考え方と東洋的な無意識と空を前提とする考え方があることを見てきました。また、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという二者択一ではなく、それぞれが独立した思想体系であることにも触れました。
ここまで本質主義と科学の歴史、脳科学、東洋思想についての内容を記事にまとめてきました。これらについて調べてきたのは、実は現代のデザインを理解するために必要だからなのです。次回、その理由を明らかにしたいと思います。お楽しみに。
主な参考文献
・ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』
・井筒 俊彦 『意識と本質―精神的東洋を索めて』
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