見出し画像

『フランス現代思想史』を読む。 #167

構造主義を学ぶシリーズの一環として、現代思想を勉強中です。以前『現代思想入門』を読んだ時、現代思想は主にフランスで生まれたと説明されてました。

そこで、今回は『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ』を読むことにしました。以下では、思想史を理解するために大事そうだと思った箇所を引用していきます。


プロローグ

フランス現代思想には、「『西洋近代を自己批判的に解明する』態度」が共通していると説明しています。

いささか結論を先取りして言えば、フランス現代思想が一貫してテーマにしてきたのは、「西洋近代をどう理解するか」と表現できるであろう。そのとき、次の二つの点に注意しなくてはならない。一つは、彼らにとって「西洋近代」は単に考察すべき対象ではなく、むしろ彼ら自身を形成してきた伝統だという点である。(中略)もう一つは、探究が現状肯定のためではなく、むしろ批判的な作業と考えられることである。

16ページ


第1章 レヴィ=ストロースの「構造主義」とは何か

レヴィ=ストロースは、民族学(人類学)とヤコブソンの言語学とブルバキ派の数学を組み合わせることで「構造主義」を生み出しました。これにより、現代以前(サルトル以前)では常識であったとされる西洋中心主義を打ち壊しました。

今まで、西洋近代の「文明人」は「民族中心主義」のもとで、未開社会やその思考を劣ったものだと見なしてきた。ところが、レヴィ=ストロースはむしろ、「野生の思考」が西洋近代よりも進んでおり、現代数学や現代科学によってはじめて解明されるほど、レベルが高いことを力説したのである。

50ページ


第2章 構造主義的思想家たちの興亡 —―ラカン・バルト・アルチュセール

この章では、レヴィ=ストロースの「構造主義」と以降の現代思想家の「構造主義的思想」は似て非なるものであることを指摘します。

ソシュールの「差異(示差性)の体系」が、「構造」を理解するときのモデルになったのである。レヴィ=ストロースとは違って、他の構造主義的思想家たちが、「構造」や「構造論」について語るとき、「項と項の関係」を強調し、「システムと個人」を問題にするのは、こうした事情によるものだ。構造主義的思想家にとって、「構造」は「体系(システム)」にほかならない。この点において、レヴィ=ストロースの「構造主義」からの離脱が始まっている、と考えた方がいい。

64ページ

また、ジャック・ラカンはフロイト、ソシュール、レヴィ=ストロースを結びつけたこと、ロラン・バルトは「消費社会の記号論」としてボードリヤールにも引き継がれる思想を生んだこと、ルイ・アルチュセールは、マルクス主義の哲学を引き継いでいることが紹介されます。この章のおかげで、フロイト、ソシュール、マルクスといった思想家の考え方が現代まで影響を与えている理由が、フランス現代思想にあることが分かりました。


第3章 構造主義からポスト構造主義へ――フーコー

フーコー自身の考え方の変化も詳細に記述されているのですが、今回は現代思想の流れを追うことをメインにしているので割愛します。ここでは、思想史の中でフーコーの立ち位置がわかる部分を引用しておきます。

フーコーは、隆盛化しつつある三つの学問、つまり、精神分析学・文化人類学・構造言語学を引き合いに出しながら、それらが「人間を終焉に導く」のではないか、と疑問を提起している。

131ページ


第4章 人間主義と構造主義の彼方へ――ドゥルーズ=ガタリ

フランスの「五月革命」が失敗に終わった理由を理解しようとする姿勢が、彼らの論に影響したことを指摘します。

「欲望の解放」にもとづく運動は、ある時点までは高揚したとはいえ、人々が最終的に革命ではなく、秩序と安定を選ぶことによって、敗北するにいたったのだ。つまり、人々は革命ではなく、むしろ秩序を欲望したわけである。

153ページ

『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』などの著作を生み出していく中で、管理社会を論ずるようになります。

規律社会から管理社会への移行は、「生産をめざす資本主義」から「販売や市場をめざす資本主義」への変化、つまり消費社会や情報社会への変化に対応している。

181ページ

ただし、こうした管理社会化する状況に対して、何をするべきなのかは答えてくれていないようです。

ドゥルーズは、管理社会にどう抵抗するかについて、何も語ることがなかったのである。したがって、それに対する答えは、残された世代の宿題となった、と言わなくてはならない。

184ページ


第5章 脱構築とポスト構造主義の戦略—―デリダ

ジャック・デリダの唱えた「脱構築」を以下のように表しています。

「脱構築」とは、今日支配的になっている伝統を解きゆるめ、その伝統によって隠蔽されたものを解き明かすことである。この定義に少しばかり補足を加えることにしよう。デリダにとって、今日支配的な伝統というのは、階層秩序的な二項対立である。(中略)もちろん、「脱構築」は階層秩序を単純に転倒させるわけではないが、少なくとも従来の二項対立が解体され、劣位にあるものが擁護されるのは間違いない。

191ページ

また、エクリチュールに着目しながらコミュニケーションについても論じていたようです。


第6章 ポスト構造主義以降の思想

フーコー、ドゥルーズ、デリダが言語論を頼りに論を展開していたのに対し、一九八〇年代以降は、インターネットなどのデジタル通信技術が思想家に影響を与えているといいます。

今までのように、言語を中心にして思想を構築するのではなく、「メディア」や「遠隔通信」の理解によって、思想を新たに組み立て直す必要があるのではないだろうか。こうして、「言語論からメディア論へ」という方向で、「ポスト構造主義以後の思想」を位置づけることができる。

249ページ

構造主義が「言語論的転回」から始まったとするならば、「ポスト構造主義以後」の思想は「メディア論的転回」から始まる、と言えるのではないだろうか。

251ページ


まとめ

印象的だったのは、著者もあとがきで書いているように、ほとんどの現代思想家が自分の議論を完成した上で亡くなったわけではないということ。彼らの著作を読んだからといって、「答え」を得られるわけではありません。

ただ、こうした思想の流れを理解することで、現代に生きる私たちが向き合うべき問題が明確になることは間違いなさそうです。特に、デリダの「脱構築」の考え方は、デザインスクールの授業の至る所で目にします。

現代思想の全体像が少しずつ見えてきたように思います。有名な思想家たちの名前も一通り出そろってきた感じでしょうか。ミニマリズムを考えるうえで、精神分析や資本主義に関する議論に特に興味があるので、この辺りをさらに深掘りしていきたいです。

この記事が参加している募集

いただいたサポートは、デザイナー&ライターとして成長するための勉強代に使わせていただきます。