2024年10月24日 秋はどこへいった
10月も終わろうとするのに、昨日の29℃近い気温というのはどういうことでしょう。
29℃は夏ですよ…。
湿度も高く、じっとりねっとりと蒸しており、非常に不快な気候でした。
とはいえ、朝夕は冷え込むこともあります。
かと思えば、昨日のように湿度が高い日もあります。
我々の自律神経はずたずたです。
ついていくのが辛いです。
せめて、暑さはもう、勘弁していただきたいものです。
ところで、
こういうクレーム
「暑さはもう勘弁していただきたい」のような、天候についてのクレームを受け付けてくれるのは一体どこなのだろう、と想像します。
そんなものは実際にはないわけですが、
もしも「気温調整局」とか「天候調整局」のようなものがあれば、大変なことになるだろうと思います。
「10月なのに暑すぎます」とか
「金木犀の香りがしたのに29℃ってどういうことですか?」とか
「朝夕は寒すぎます」とかいうクレームの電話が老若男女からじゃんじゃんかかって、
メールもどんどんくるでしょう。
農家や漁師などからの要望と運動会などの行事についての要望もやってくるでしょう。
職員は死んだ目をしてそれをさばくのです。
建物は、廃校を修理して使っており、冬寒く、夏暑く、エアコンも壊れかけていて、
ものすごくアナログな器具しか置いていないような気がします。
調整局という名称だれけども、本当の意味で「ちょうどに調整」するのは難しいので、クレームに完全に応えることはできないはずです。
「気温調整局」が出来る実際のところは、祈りというかお願いであるはずです。
各種伝統儀式を丁寧に行い、荒ぶる「何か」になんとかご協力頂いて成り立っている組織の可能性が高いでしょう。
日頃作業着のスタッフは、クレーム処理以外の「真の業務」の時には、装束や巫女服、袈裟かもしれません。
気象庁と防衛省と内線がつながっていて、向こうも頼みたくはないのだけれども緊急事態には内線でかけてくる…なんていうのも熱い展開です。
こういう妄想はいくらでもできます。
さて、妄想はさておき、
現実として、そういう省庁がないのは、気温、ひいては気候をコントロールできるわけはないからですよね。
気候をコントロールできる技術が開発されたならば、何よりもまず、戦争に使われてしまうことでしょう。
今のところ、世界の情勢を見渡して、その技術を関係させている国は無いようです。
つまり、まだ、人類は気候をコントロールできないわけです。
コントロールできないからイライラしたり、不安になったりするわけですが、「コントロールできるはずなのに」と思い込んでいるからこそ、イライラが募っているのかも…とも思います。
今を生きる我々は、エアコンによって空気の温度を温めたり、冷やしたり出来ることを知ってしまっているからです。
昔の人たちは、今以上に気温や気候などコントロールできるものではないと思っていたでしょうから、今の我々のような苛立ちかたはしなかったのかも、などと考えます。
今より、恐れや悲しみ諦めが強かったかもしれません。
しかし、人間は諦めない生き物です。
民俗学の本などを読んでいて思うのは、「ままならぬこの世でなんとか生きていくために人間はやるべきことを必要とするらしい」ということです。
動物のように、起こることをそのまま甘んじて受けるということは、受け入れません。
祈ったり、お願いしたり、何かに働きかけ、何者かに何とかしてもらおうとするのです。
それが風習や儀式、文化となっている気がします。
例えば、豊作祈願をしたからといって、豊作になるわけではないのです。
しかし、人間は何もしないでいることはできません。
豊作祈願をしたり、悪しきものをはらい清めたり、実際に豊作だった場合はその感謝の儀式を行ったりします。
人間と動物の違いというのはこのあたりにあるのではないでしょうか。
気候や環境を受け入れるのか、変化させるべく働きかけるのか。
働きかける、の中には「祈り」が入っています。
祈りは「この環境を、変えてほしい」「より良くしてほしい」という願いです。
聖書では、「はじめにことばありき」というそうですが、
私にとって、人間のはじめにあるものは「祈り」であり、「願い」です。
「秋はどこにいったのだろう、
秋に戻ってきてほしい」という願いはきっと人間しか持たぬものでしょう。
結局、何が言いたいのかと言えば、「暑さはもう結構、秋は秋らしくしてください」ということです。