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2024年11月29日 文章の筋トレ #今年学んだこと
今年学んだこと、
それは「書かなければ、書けない」ということ。
何をそんな当たり前のことを!と言われるだろうけれども、
ある程度の読書家であればこそ、「本気を出したらいつでも書ける」と思っているのではないか、と思う。
そもそも、本をそれなりに読む人間には、普通よりは、「書ける」のだ。
目的がはっきりしている、簡単な報告書や議事録であれば、見たこと、聞いたことをそのまま書けば良い。
読書の習慣があれば、それらの文書に必要な程度の語彙は自然と習得している。
それ故に、簡単な報告書や議事録を書くのにはさして、困らない。
だから、エッセイや物語も「本気を出したらいつでも書ける」と思っているのだ。
頭の中には名文の種が沢山詰まっているようにすら感じる。
ただ
頭の中に名文があったとて、
アウトプットせねば、それは文章とはいえない。
去年の夏、頭の中の名文をこの世に出そうと、勢い込んで、書いてみた。
ところが1時間経っても、1行も書けないのだ。
驚くくらいに、書けない。
頭の中の名文は、文章を形作らない。
1行の文章も完成することができずに嫌気がさした。
そしてようやくわかった。
読まれることのない頭の中の名文は、文章ですらなく、
ただの思いつきでしかない。
思いつきは次々と発生し、しばらくすると霧散するだけのイメージだ。
思いつきであるからこそ、誰にも批判はされないし
果てしなく素晴らしいもののような印象を与える。
頭の中にある名文は、
砂漠で見るオアシスの幻や雪山で見るストーブのようなものなのだ。
実在はしない。
文字列という肉体を持たない、幽霊のようなものともいえる。
どれだけ素晴らしくても、
喉の渇きを潤したり、寒さを和らげたりすることはないし、
他者から認識されたり触れ合ったりすることもできないのだ。
去年の夏に、はた、とそのことに気づいて、
「せめてもう少し文章を書けるようになりたい」、
「書きたいと思うことを、もう少しすらすらと書きたい」と思うようになった。
「書けない」ことを体験して、
ようやく、頭の中のイメージは名文となりえないという至極当たり前のことを痛感したのだった。
その上、「自分は書きたいのだ」という自分の欲望も無視できなくなった。
そして昨年夏から、
「とにかく1日1,600文字、毎日書き続けてみよう」と
このnoteを始めた。
文字列を、自力で、ひねり出して、書き上げる、ということは
頭の中で名文をイメージしているより
ずっと苦しい。
当初は、ひどく時間がかかった。
まず、書くためのテーマが定まらない。
もしくはテーマが複数あって、話がまとまらない。
テーマがあってもそれを掘り下げるだけの、文章が書けない。
途中で投げ出したくなるのを、とにかく書いた。
まずは1文。
そしてまた1文。
ひねり出す、そして削り出す日々が続いた。
そのように書いて行けばこそ「書けない」ということがわかる。
「駄文だ」とか「面白くない」ということもわかる。
このオアシスの水は濁っているとかまずいとか、
このストーブは燃費が悪いとか、使い勝手がいまいちだということは、それがこの世の中に出ているからわかることなのだ。
ただイメージしているだけと書くことの間にも、
イメージするオアシスやストーブと実在するオアシスやストーブと同じくらいの差がある。
あまりの下手さに書くのをやめようとも何度も思ったが、
書かなくなれば、またイメージしているだけの状態に
戻ってしまう。
それは嫌だった。
しかし、よく考えれば
今時、コピペだけ、もしくは、スクリプトだけで、ある程度の文章は作り出すことができるのである。
この世界に存在しているという点で、それは1人の脳内におけるイメージより、さらに力を持つ。
その上、そういった文章の「作り方」をすれば、
読んでもいない資料や体験したことのないことを、情報として、文章に織り込むことまでできる。
わざわざ、生活の空き時間を探して、
その時間に、身を削るようにして、文章を作書かなくても良いのではないか。
世界には数多の文章が溢れ、しかもそれは、コピペやAIを使っても、作成できるのだ。
仰る通り、それは正論だ。
正論なのだけれど、そうしてもそれを受け入れられない。
自分の中にあるものを自分の手で削り出したいという思いが消えない。
去年の夏から始めた取り組み、
(個人的には、文章の筋トレと読んでいる)
2024年もこうして続いている。
ルールは以下である。
・とにかく1日1,600文字以上の文章を書くこと
・下手でも面白くなくてもとにかく書くこと
・自分のために書くこと(他人の目を気にしない)
今のところ、このルールは破られずに守られている。
文章の筋トレのおかげで
書くのに必要な時間が、始めた時より、ぐっと短くなった。
今は1時間ちょっとで2,000字を超える程度かけるようになった。
書くテーマについても
ドラマチックでない取るに足りないことでも1,600字程度をひねり出せるようになった。
今年学んだことは「書かなければ、書けない」ということで、
それは、
「行動しなくては、書けない」とほぼイコールである。
書くために、
イメージから文章を削り出すために、
読書量を増やし、映画を見て、新しい体験に積極的になった。
文章の筋トレは、本当の筋トレと同じく、
少しずつ、生活を変えていっている。
頭の中の名文のように素晴らしくもないし、美しくもない。
でも、この武骨なやり方を、気に入っている。
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