2024年11月7日 調整ゲーム
「人生は、自分を程よく調整し続けるゲームだ」と、ふと思うのです。
そう、この人生は
外的な変化(環境、対人、対物などによる)、肉体の変化、内分泌の変化、精神的な変化に対して自分を調整してほどほどに保つ、ゲームです。
ある程度健康であれば、さほど気にしなくても、いずれのパラメータも異常は出にくく、調整しやすいわけですが、
年齢を重ねたり、病気になったり、事故に遭ったりするとそれが難しくなるわけです。
性別やもともと持った身体の健康度によって、ゲームの難易度もずいぶん変わってくるのでしょう。
しかもこのゲームの難易度は予測なしに変更します。
イージーモードから、ある事故でハードモードということだってありますし、
仕事や社会情勢によって、ハードモードに変更になることもあるわけです。
ゲームの難易度が、イージーモードに変わることすらも、、時にはあるかもしれません。
収入がなかった人が、
働いてお金を得られるようになった場合とか、
友人ができた場合とか、
辛い環境から抜け出せるようになった場合とか、
そういった場合には、少し楽になるでしょうから。
生きている間は皆、この調整ゲームにログインしており、
大人になり、重篤な病気や障害がないならば、基本的には、自分でこのゲームを続けることになります。
時々、そういうことを全て投げ出して、誰かにうまくやって欲しくなる、ものかもしれません。
そういう時、人は、恋愛とか、スピリチュアルとか、マルチ商法にハマってしまうのでしょう。
最近、SNSで見かけた、相手の嫌を認められないというのも、こういったことに関係していそうです。
つまり、「自分を受け入れて欲しい」、「自分は何の調節もしない存在でいたい」という気持ちに支配されていると、
他者の嫌とか拒否はひどく受け入れ難いのだと思います。
調整を放棄できた子どもの頃に戻りたいという欲求は誰にでもありますが、
それに飲み込まれてしまうと、かなりコミュニケーションを取りたくない存在になってしまうのです。
お金を払えば、いくつかの調整を請け負ってもらうことはできますが(スピリチュアルやマルチ商法もその拡大版であるとも言える)、
「お金を払う」という時点で、多少調整をしているのです。
でも、多くの人はそれすらしたくないのですよね。
「本当に何も調整せずに幸せになりたい」のです。
だから、多くの人は、恋愛を求め、憧れるのかもしれません。
「好きなら、愛しているなら、調整してくれて当たり前だろう」と言えるからです。
個人的には、「さまざまなことの調整を応援し合う」のが愛であり、
その結果、そういう愛はもっと実用的で、例えるなら、ゴツゴツと無骨なものだと思います。
農機具とか工具とかそういったものに近いような気がします。
反対に、何となくイメージする愛、恋愛はふんわりとして柔らかです。全てを包み込み、許してくれる、ような気がします。
でもそんな愛は、創造の世界の産物なので、手にすることは生きている間には無理なのだろう、と思います。
そんな愛は、存在しない、のです。
個人的には、人生という調整ゲームは、ゲーム好きの人がいう「フロムゲーの面白さ」に近いのだろうと思うようにしています。
フロムゲーとは、フロムソフトウェアという会社が制作しているゲームのことで、
DARKSOULSシリーズやSEKIRO、ELDEN RINGなどが有名です。
プレイヤーが使うキャラクターを何度も繰り返し死なせないと、上達せず、進めないことから死にゲーと呼ばれることもあるようです。
私は、ゲームはやらず、もっぱら、ゲーム配信を見たり、プレイしている人から話を聞いたりしているだけですが、
ボスに勝つには、戦い方を理解した上で、戦いを繰り返す必要があり、
まあ、なかなか大変なのです。
見ているだけ、聞いているだけでも、クリアに、かなり粘りがいることがわかります。
しかし、一度ハマった人、その面白さが分かった人は、その大変さを楽しんでやまない様子があるのです。
「勝つには、繰り返し戦いを挑みながらトライアンドエラーを続けるしかない」というのは、人生という調整ゲームもほぼ、フロムゲーと、同じなのだろうと思います。
いや、むしろ、フロムゲーが人生の真似をしているのかもしれません。
薔薇色の人生なんてものは字面でしか存在せず、どの人生にもたゆまぬ調整と挑戦しかない、ということです。
それをただ辛い、と思うか、面白いと思えるかは捉え方でしかないかもしれません。
私が日常をnoteでつづるのは、このハードなゲームをできるだけ面白くとらえたいというひとつの試みなのだと思います。
書いておけば、このゲームを俯瞰で見ることができます。
そして、俯瞰で見れば、振り返ったり、対策を立てることができます。
「どうしてこんなことをしなくてはいけないのか?」と思う時に、それが必要な理由を、思い出せるからです。
例えば、今日は、気温が下がることを見越して、インナーの上下を着用し、
軽い上着の上にさらに、風を遮断するアウターを着てきたことは、
これまでの経験に基づく調整、判断です。
先日、冬支度の進捗リストという記事を書いた時に、今日のような気温を予測していたのです。
この時期に身体を冷やすと、確実に風邪を引くのがわかっているので、
その時にはこうしようという準備ができていました。
喉が弱いので、しっかりマスクをしています。
入浴します。
温かい飲み物を飲みます。
早めに寝ます。
これも、これまでの経験に基づく調整です。
地味な調整ではありますが、これが、のちのちに効いてくるのです。
しばらくはこのゲームから降りられないとしたら、
精一杯、やってやろうじゃないか、という気分です。
こう考えると自分のケアはゲームにおける武器であり、他人にまるっきり、投げてしまえないものである、と思えるのです。