散歩する自分 -多和田葉子『百年の散歩』編
何故noteに読書の感想を書くのか。書いて誰が読むのか。読んで何が良いのか。感想を書こうと思っていながら他の人の感想を読んだことが無い。というよりは読む機会が無かったと言った方が良いか。読んだ小説を研究した論文を読むような感覚で、読んだ小説を他の人がどう感じたのかというのを知る、その感想文を提供する為に書くのか。否、時としてこういう感想文というのは日記のような形をとる。それがたまたま探している人の目に留まり読まれる。行為の目的と恩恵は違っていてもいい。
感想文を書こうとする度に一々考えていてはいつまで経っても本題には入れない。こんなことをたらたらと書いているが私はひねくれものではない。むしろ単純な精神の持ち主であろう。こんなことを考えずに感想文を書ける人の方がよっぽどひねくれている。もっとも書いていないだけで皆一度は考えているのだろうが。
これは日常やその一部である読書にて私が感じたことを上手く表出する練習としてこの場に感想を残していこうと考えた時の私の脳内で駆け巡った思念をなるべく忠実に再現しようとした駄文である。誰もがこのような下らない思考を毎日脳内で何度も走らせているだろう、と勝手に思っている。きっとそうであるはずだ。無秩序に駆け回る思考のネズミは散歩の中で一気に増える。経緯の知らないボロボロの看板、五年前にも同じ姿で見た気がするデブ猫、自分が生まれてから一度変わったと思ったらそれきりそのまま立ち続けている公園の遊具。そんなものを見るとこのネズミはある程度のまとまりを作るようになる。ありし或いはあらざりし歴史物語と共に、イマココのモノたちを脳内で語る、記す。その物語は次の対象が現れると同時にぷつりと切れる。脳内ノートの頁が「この話は今はここまで」と二、三ページ、いつか続きが書けるようにと二度と開かない余白を作り次の物語を始める。
『百年の散歩』はそんな散歩をありありと見せてくれる。私の取るに足りない散歩と違うのはその舞台がベルリンであること。街自体が歴史書のように人々を紙上に乗せてしまうベルリンであること。主人公は紙上にあることを喜んで受け入れているかのように、時に自分を、時に偶然目に映っているというだけで見知らぬ人を、時に通りや広場に名を貸している故人を、登場人物にして物語を書く。物語は常に頭で進むわけでは無い。物語に突き動かされた自分が物語を進める。そんなことだってある。むしろ突飛な動機で物を買おうとしたり店に入ったりする主人公こそが物語の一番の推進力だ。その動機をもたらすものこそ散歩である。というか散歩は既にそれ自体突飛なのである。だから無限に物語は紡がれていく。
その物語たちを収めていく主人公の脳内ノートの厚さは私のとは比べ物にならない。ノートの容量はそれそのまま散歩の長さであろう、と私は勝手に思っている。頭が疲れた時に気晴らしに散歩に出ても頭の働かない散歩は長続きしない。始めから薄っぺらいノートしか持たずに出かけるわけである。ノートを厚くする必要が無いと言った方がいいのかもしれない。そんな私と違い主人公は分厚いノートを頭に秘めている。それはそれだけ頭が働くということのみならずノートを豊かに彩る力があることにもよるだろう。そう主人公には辞書も備わっている。辞書と言ってもずらりと整列した単語をなぞっていくものではなく、目に映るものに合わせて浮かべたり見つけたりする源としてある辞書である。日本語と、私達の多くが完璧でなくとも持っているだろう英語、さらにドイツ語、偶にロシア語。それらの言語を行き来して、またそうすることで一つの言語内での行き来も可能になって言葉遊びや洒落に繋がっていく。
豊かな舞台と豊かな辞書が彩ってくれる散歩、私達を少しだけ惑わせ目を止めさせる物語と洒落。エクソフォニーを経験した多和田葉子さんの世界が惜しげもなく現れた作品である。とてもこんな残念な感想文で語り尽くせない魅力を是非自らの目で確かめてほしい。回りくどい言い方をしたがつまり読めということである。布教だ。読もう。
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