役に立つ役
今日はなにかを書きたいとか吐き出したいなどという欲求があるわけではない。日常ではいろいろなことがあったけれど、なぜか今日は書き出すことは特にない。だけど、書いてみる。というか、本当はもっと実のある内容を書きたいのだけれど、まだまだそんな体力や精神力がないのを自分自身に感じる。つまりは、時間と余裕がないということだ。
なにかを書き始めてしまって、思いもよらぬ方向やとても興味深く面白い展開に陥ってしまうなどということになったなら、時間がないから大変困るのだ。だから、思考を止めて、あらかじめ脳を止めておく。そうやってすぐに終えられるようなことしか書けないでいる。そんなこんなで引っ越しから約一年が過ぎようとしている。
いまのここよりも一つ前の場所は、今にして思えば自由が多くあった。たまに懐かしむというよりも、まるで意識を転送するかのように、現場から逃避行して思い出す。ただただインスタントラーメンを食べたようななんでもない記憶ばかりが、地球の青い空のように、まるで憧れるかのように思い出され、そこにいるかのように脳内で過去に生きる。
そんな瞬間だけ、酸素が少しだけ多くなる。そんな感じだ。だからといって今が不幸などと言いたいわけではないのだ。いまだからこそ幸せだと思うことも多くあるのも事実だ。また、そんな風に幸福に感じる過去が自分にあるということさえも、実はとっても幸せなことなのだとも思う。
母の認知症が進むにつれて、これまで全くの無知だった未知の毎日が現在にあり、そこでどうにかこうにか生きながら、それでも多くのことを発見して、自分の時間、つまりはゆとりのある自我を解放するような時間などまったくもって無い中で、それもそんな多くの発見が私自身の人生を確かに前進させてくれていることを感じている。
そんな風に、まだそれを知らなかった頃の自分よりも、今の自分がたとえ苦労していても、より多くの視界や世界に気がつくことができることを、私は幸運にも感じる性分なのだ。
楽しい老化とか、楽しい認知症とか、そんな世界を知る人はこの世界にいるだろうか。どこかにいるのなら心の底から知りたい。話を訊いてみたいし、できることならその光景を眺めてみたい。『楽しい認知症』やはり不可能なことなのだろう。だってね。わかる人は知っているだろうけれど、認知症の当人が、なによりも辛そうに、こんなことを思っちゃいけないんだけれど、その当人を可哀想にも、時折思えてしまう。
よく「認知症介護は家族が大変だ」とよく聞くけれど、確かに事実はそうなのかもしれないけれど、でも、そうとは限らない。また、しかもそれが大概の場合、親だから、実に風雑な気持ちで、やっぱり悲しい。『楽しい認知症』そうはいかないものだろうか。
これまで意識したことはあまりなかったけれど、家族は役割で回っている。そして、誰かが認知症になると、要するに、お役御免となってしまうのかもしれない。そして誰よりも、自分自身が役割がないことに、つまりは家族の役に立てない自分に、きっと絶望するのだ。そしてその絶望も、数分で忘れてしまう。それを繰り返す。
子供がお手伝いをして褒められて自尊心が満たされたり、自信から成長していくように、そういったことをきっと、家族はずっとやっているのだ。誰もが役に立っていて、そんな自分がほんの少しでも感じられるからこそ、家族として成り立っていられるわけであり、そこで自分の居場所が保たれているのかもしれない。
“役に立っていない”とか”自分は必要ない”そんなことを言っていた友達が中学や高校の頃にはいた。そして中退してしまったり、非行のような行いや自傷的な言動にもつながったり、そんなことがあったのを、あの頃も感じていた。それでもみんな大人になった。でもたぶん、きっと人は皆、大人だろうとずっと、どこかでそうやってなにかを確かめながら、なにかの役に立ちながら生きていけるのかもしれないと思った。
認知症は、それがまず成り立たなくなる。忘れてしまったり、それ自体を認めずに振る舞ってはいても、きっとどこかで傷ついている。そしてどうしても周囲との違和感に気がついていないわけがないのだ。そして傷つく。だけど忘れる。
母が時折り頭を自分で叩いている。両手で頭部を挟むように叩いている。くやしくてとても辛いのだろう。もどかしくて、どうして自分の頭が上手く動かないという気持ちの悪さに、いらだちと悲しさを感じているのだろう。そしてどうしても言い合いにもなってしまう。私は息子だからなのかもしれないが、どうしても距離が近いのだろう。喧嘩になってしまうし、怒鳴っては無駄だとわかっていながらも理屈をこねてしまうし、喧嘩にもならないほどに意味もない言葉のぶつけ合いに陥ることがある。
そしてこんどは、頭じゃなくて、机を叩いている母がいる。いらだちが治らず、しかし、きっと何にいらだっているのかも徐々に薄れて、自分の感情さえも認知できていないのかもしれない。そしてまたそんな居心地の悪さにとにかく苛立つ。そうかと思えば数十分後にはそんな喧嘩も喧嘩の理由もいらだちさえも忘れて笑っていることもある。
そのたびに自分の未熟さを思い知るわけでもなく、怒鳴った自分を恥じるというわけでもなく、なんとも言えぬ沈黙に陥る気持ちになる。そして、ちらっと食卓に座る母を見て、やっぱり可哀想になってしまう。母は役を失ったのだろうか。万が一にでも奇跡のように『楽しい認知症』を可能にすることができるのならば、それはきっと、そんな『役』を与え続けられたなら、そして当人もその役を気に入ってくれたのなら、成立できるのかもしれない。
こんな喧嘩の役とか、できない人の役とか、そんなんじゃないんだ。これは息子のエゴなのだろうけれど、できるなら楽しい人生を生きている人の役をやっていてほしい。そうできるのは、もはや、まわりの家族というか、私自身こそが今の役ではないもっと役に立つ役になる必要があるのだろう。
今夜はこの辺にしよう。ちなみに今日はマイケル・ナイマンの『Big My Secret』を聴いて書きました。
20230130 1:42