人は何を糧に生きるのだろう
今夜は坂本龍一の「Aqua」を聴いている。この曲もかなり好きな曲で、ひとりになれていた頃はよく聴いていた。そう、こんな今でも、こんなに齢をとっても、本当はこういう『静寂』が私は好きなんだ。こればっかりはひとりにならなければかなわないものだ。そんな静寂こそが、私にとってはなによりもの栄養なのだ。ここ一年はそれを強く感じながら生きている。そう、それほどに叶わないのだ。いまの環境では静寂は難しい。年に数時間だけ、こうしてひとりで夜更かしをする以外に方法はない。
いくら家族などであっても、テレビやネットなどの音が延々と満ちているものだ。それで一般的なことは、少年時代からよく知っているから、だから私は一人にならなければ、どこか心を解放できない性質に育ってしまった。
なぜに「Aqua」この楽曲を聴いているのかといえば、先日テレビで坂本龍一さん本人が弾いていたからだ。その番組でご本人が語っていたのが「竹林などの竹が風に揺れる音などの自然の音楽と融合することができたなら」のようなことを言っていた。もう久しぶりに共感した感覚で、かつては私も四六時中にわたってそういう場所にいて、常に静寂の中で嵐のように世界を感じて生きていた。とても懐かしい感覚だったと同時に嬉しくなった。
だけれど現在は到底戻れる場所ではないことはわかっているし、理解すらされないことだろう。いまはただ忙しい。ここ三日間は認知症の母の通帳を探し続けて、最終的に今日は銀行に喪失届けと再発行手続きのお願いに行ってきた。三日間もずっと探し続けて、その間も10分置き程度に「何探してるんだっけ?」と、何度もなんども同じことを説明する。探すアテも減ってきて、ほどほどそんな母も可哀想にもなり「もういいよ」とコーヒーで休憩する。
しかし、コーヒーを飲んでいる間に、さっきまで探していたこと自体をまるまる忘れてしまう。今回はほとほと疲れてしまった。どうしても「何回言わせんだよ!」とか「さっきも言っただろう」のような言葉を強めに吐いてしまうものだ。だけど今回はもう、それを通り越して、それこそ無言になった。今回はある意味で、いい勉強をしたようなものでもあったし、何よりもある一線の諦めを余儀なく認めざるを得ないほどの自然さで、私はある種の静寂になった時があった。
その上でさらに「なんで私の通帳が必要なんだ!?」と、疑われる始末だ。たぶんまたもう少し症状が進んだのなら、ほぼ絶対に「お金をとったのはお前だ!返せ!」のようなことになってしまうのだろうと、ただただ覚悟するしかなかった。きっとほとんどの認知症の方が、またそのご家族が通る道。もはやセオリーなのだろう。もちろん個人差や洗礼さや性別による違いなども大きく影響することだと思うけれど、謂わば、認知症のメインイベントなのだと思う。
まぁ、今夜はもう眠らなければ、また明日からもずっと続くあたふたやごたごたの不慮の事態に負けてしまう。この話はもっともっと深みがある。だからまたそのうち書き表したいと思っている。
話は変わるが、前回の『サティを聴きながら‥』を書いた後日、旧友と電話をする機会があった。自宅から少し離れた場所で話したのだが、ある発見があった。なにを発見したのかと言うと、それは「自分の暗さ」だ。
かつてはきっと私が一番明るく、遊び心こそが代名詞だった自分がいた。友人たちもそのままのノリで話してくれているのだが、まるでもう私が元気が無く暗かった。自分でもびっくりした。まるで逆輸入するかのようにかつて私が得意だった分野を教えてもらったような電話になった。とても励みにもなり友人に感謝したが、同時に気がついたのは、いかに自分が暗く疲れて停滞していて、ものすごく狭い世界に生きているかということだった。
いくつかの希望も思いついて、やりたいことなども少し思えて、ちょっと嬉しくなった。だけど、どう考えてもそれをできる時間も環境も無いのが事実なのだと、帰宅後たった数時間後には「無理だな」と思うことにはなったのだが、しかしそこですこしだけ学んだことがある。
そう、人間は「希望」や「喜び」でこそ生きるものなのだ。その希望やワクワクな想像が、現実にかなうかどうかとか、それ以前に、そのはるか基本的なところで「やりたいこと」とか「好きなこと」とか、そんな当たり前すぎてバカみたいなものこそが、もっとも必要なのだ。それこそを失うといかに輝きも失うことか。そういうことをとても強く思えた出来事でした。
認知症になった多くの方が、どうしても「お金」に執着をするという。一時期そんな時期を通過していく人が多いのがこの時代の老化や認知症、つまりは人生の晩年、人生の末期に起こる症状という現実。なぜに自分という存在の認識や存在の把握でもあるであろう、この世界のそれぞれの命の価値基準が、残念なことに「お金」なのだろうか。
人生の最後になって、なぜにお金なのだろう。たぶんその人が生きてきた時代背景の影響が反映しているのではないかとは想像できるが、そのお金をなにかに換えて楽しむわけではなく、お金そのものを抱きしめ、盗まれないようにと隠し、そうしてその隠し場所を忘れてしまう。お金とはなにかというよりも、そんな人生とはなんなのだろうと思ってしまう。
いやはや、少し書きすぎたかもしれない。また次回もなにか書き出したい。本当はもっともっといろいろある。だけど、もう今更なのかもしれない。今更、じゃあ家族として息子として、人生に喜びをあげることなど出来るであろうか。それよりも逆に、私のやることなすことがきっと、もしかすると今の母から喜びを奪ってしまうものなのではないかという気持ちにさえ陥ってしまいそうにな時がある。
だけど、続けるしかないものだと思っている。さあ、明日もなにが起こるかわからないけれど、やらなきゃならないことだけはいっぱいに山積みなんだ。これ、本当にひとりになれたなら延々と書き続けるほどのネタがあるだろうって思える。しかし、何度もいうけど、一人になんかなれっこない。たぶん、そういう時間もきっと後から振り返れば、もしかしたら僅かな時間だったと思うことになるかもしれないのだから、ひとつひとつを大切に記憶の中に刻むように生きたいと思う。いや、生きるべきだと思う。
20230124 2:19