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【読書ノート】『世界最強の地政学』奥山真司

著者は日本の地政学者で国際地政学研究所上席研究員、戦略研究学会編集委員。英国の大学で著名な国際政治学者のコリン・グレイに師事した。本書は地政学の重要なポイントを網羅してわかりやすく説明した良書。地政学の古典やシーパワーとランドパワーの対比、バランス・オブ・パワーなど重要な事柄が過去の国際政治の歴史の実例と共に紹介されていて理解が深まった。日本の政治家や官僚たちも、このような本を参照にして地政学の基礎を勉強すると良いかもしれない。
 
目次
0「地政学」とは何か 指導者の頭の中の地図を読み解く
1 世界観 地政学の巨人たちの思考法
2 シーパワーとランドパワー 超大国の「性格」が分かる
3 ルートとチョークポイント 世界を支配できる点と線
4 グランド・ストラテジー 生き残るための大戦略
5 バランス・オブ・パワー 同盟と離間で他国を操る
6 コントロール 戦争の目的は「勝利」ではない⁉


以下、気になった点を抜粋:

・・・チョークポイント(choke point)は「点」です。チョークとは辞書を引くと「窒息させる、息の根を止める」。人体で言うと、喉に物が詰まるイメージです。そこを押さえると、人もモノも通れなくなる地点、それがチョークポイントです。
陸で言えば城、砦、関所。海で言えば、海峡、港、基地など。このチョークポイントいかに押さえるかは、古来、軍事の専門家たちが腐心してきたテーマでした。
・・・前の章で、シーパワーの雄だったイギリスが海外に置いた拠点について述べましたが、これはまさに「海のチョークポイント」そのものです。
イギリスとヨーロッパ大陸との出入りを抑えるドーバー海峡に始まり、ジプラルタル海峡スエズ運河で地中海の両端を握り、オマーンに基地を置くことで、ホルムズ海峡にも睨みを利かせています。
もうひとつ中東で重要なチョークポイントがバブ・エル・マンデブ海峡。イエメンとジプチーに挟まれた、距離にして30kmほどしかない狭い海峡ですが、紅海の出口にあたり、地政学的に非常に重要なところです。かつてはイギリスがイエメンの港アデンを押さえていましたが、今ではジブチに米軍の基地が置かれています。(105~106ページ)

ナポレオン戦争の終結後、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国は、ウィ-ン会議を開き、国際秩序の再建を目指します。注目すべきは、そこでイギリスはフランスからマルタ島を、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得し、イオニア諸島を保護国としますが、ヨーロッパ大陸本体には手を伸ばしませんでした。
イギリスが求めたものは、「コンサート・オブ・ヨーロッパ」と呼ばれる相互協調体制だったのです。ウィ-ン会議は、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアが主導し、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、フランス、ローマ教皇なども参加しています。
ウィ-ン体制は、ヨーロッパ大陸にいくつかの強国を共存させ、かつ互いに牽制させるという、イギリスのグランド・ストラテジーにかなったものでした。(132ページ)

なんとしてもドイツを潰さなくては、というのが、イギリスの至上命題となるわけです。
 その帰結が、1914年に始まった第1次世界対戦、1939年からの第2次世界対戦でした。ここでイギリスは対独戦勝利のために、ロシア帝国やソ連と結ぶという決断を下します。1907年の英露協商、1941年7月にチャーチルとスターリンが結んだ英ソ軍事同盟がそれです。(133ページ)

第二次世界大戦でも、イギリスは戦費調達のために、アメリカに対し80億ポンドのもの巨額の負債を抱えることになります。その返済のために、多くの海外利権をアメリカに引き渡さざる得なくなったばかりか、植民地は戦後次々に独立し、さらに東欧、中欧の国々はソ連の勢力下に入ってしまいました。海外投資は戦前に比べわずか1/4となり、工業も劇的に衰退しました。(134ページ)

 実は19世紀末のイギリスも、似たような罠にはまりかけたことがあります。「光栄ある孤立」という言葉はありますが、特に1885年から1902年にかけて、イギリスは他国との同盟関係を結ぼうとしませんでした。私たちは、これを当時の大英帝国の強さだと思いがちですが、この時期から、イギリスはドイツ、アメリカ、さらにロシアの猛烈な追い上げを受けるようになります。
 次第に自分たちが外交的な苦境に陥りつつあることに気がついたイギリスは、1901年にアメリカとパナマ運河をめぐる条約を結び、1902年にはロシアの南下で備えて、日英同盟を締結します。続いて正式の同盟ではないものの、1904年の英仏協商、1907年の英露協商を結び、同盟によってドイツの台頭に向き合うという基本戦略に立ち返りました。(146ページ)

<シーパワーとパートランドパワーの対比>
 英米などのシーパワーの場合、その外交・交易の及ぶ範囲は、海を通じて広大なものになります。そうした地理的環境では、トラブルが起きた時、即座に軍事力で決着をつけることが難しいケースも多く、また多大なコストも必要になります。そのために、相手が小国であっても、ネットワークにおける重要度に即して、お互いのメリットを確認し、合意を形成していくことが、合理的な対処法として選択されやすい。これがシーパワー的な同盟の戦略だと言えるでしょう。
 それに対し、ランドパワー国家にとって隣国は時に問答無用で攻めてくる相手でもあります。ある意味でランドパワー大国は常に臨戦体制なのです。他国の侵入を防ぐためには、前持って「どっちが上か」という力関係を確認しておかなくてはなりません。だから、国際関係においても、「小国は大国に従うべき」という認識がベースになりやすい。(156ページ)

「バランス・オブ・パワー」(勢力均衡)
 
「勢力均衡」は、古くからある概念で、一言でいえば、いくつかの大国が、圧倒的な支配国の存在を阻止して、互いにその存続を保護し合う、というメカニズムをあらわしたものになります。そのため、大国同士の戦争はできるだけ回避し、起きても限定的なものに留めることが目指されます。
 ・・・このようにスペイン継承戦争は、イギリスにとって、ヨーロッパでのバランス・オブ・パワーを確保し、海外進出の地歩を固めた重要な戦争と言えます。(164~165ページ)

・・・皇帝をはじめドイツ人の多くは、国力の発展とともに、海外領土も含む、国家の拡大を求めました。それがドイツのさらなる安全にもつながる、というのが、ランドパワー国ドイツの世界観だったのです。
・・・国家にとってナショナリズムとは、最大の武器になりますが、コントロールの難しいものでもあります。
・・・「より大きくなれば、より強く、より安全になる」というランドパワーの地政学の誘惑に抗うのは難しいからです。
その意味で外交の天才であったビスマルクは、ランドパワーの「世界観」に敗れたと言えるでしょう。(171~172ページ)

アメリカの外交政策における第一の懸念は、アメリカがある国を「敵」と認定すると、その地域研究が手薄になる傾向があることです。「敵」認定することで、実際に現地で活動したり研究を行ったりするアメリカ人が、「敵に通じている存在だ」とみなされて減ってしまうと、現場の情報が入りにくくなるのです。例えば共産主義は敵であり、東南アジアの地域研究者たちを共産主義に詳しいという理由で遠ざけるようになると、政策面で実用に属してない抽象的な理論が優位になります。その代表例がベトナム戦争におけるドミノ理論です。ある国で社会主義の政権ができると、ドミノ倒しのように、近隣国が次々に社会主義陣営に入ってしまう、という実証性に乏しい大雑把な理論によって、アメリカは過剰な軍事介入を行い、かえってベトナムを反米に追い込んでしまいました。9・11同時多発テロ以降の 中東政策で、中東情勢に詳しくないネオコンが主導権を握ってしまったのも同様です。
・・・イラク侵攻の前、戦略家のエドワード・ルトワックが意見を聞かれ、「フセインを殺してもイラクは民主化できない。彼らは宗派や部族で分かれていて、多数決による政治運営は不可能だ」と述べたところ、「お前はレイシスト(人差別主義者)だ」という非難を浴びた、と回想しています。しかし、現地の実情をより理解していたのは、中東で軍事活動に携った経験もあるルトワックの方でした。

(2004年11月20日)


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